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伊藤彰彦 「ヤクザとマイノリティ──民族と差別が葛藤する只中で」 仁義なきヤクザ映画史9

文・伊藤彰彦(映画史家)

★前回を読む。

日韓の歴史の狭間に

連続ドラマ『Pachinko パチンコ』(2022年、コゴナダ+ジャスティン・チョン共同監督、Apple TV+で配信中)が面白い。原作は、オバマ元アメリカ大統領も絶賛し、2017年の「ニューヨーク・タイムズ」紙のベスト10に選ばれた、韓国系アメリカ人作家、ミン・ジン・リーのベストセラー小説である。韓国、アメリカ、カナダ合作の全8話の多くの物語が日本を舞台としており、登場人物の多くが日本語を話す。物語は、日本統治下の1910年代の韓国釜山から始まり、23年の関東大震災を経て、30年代の大阪、80年代のニューヨークを流転する4世代にわたる在日コリアンのクロニクルであるからだ。

しかし『パチンコ』は、80年代まで韓国で数多く作られた、日本の植民地支配の悪を断罪することばかりに急な映画とは異なる。厳密な時代考証によって韓国併合時代の両国の庶民の生活を再現し、歴史に公正に向き合っている。そして、釜山から大阪に向かうソンジャ(キム・ミンハ)とニューヨークから大阪に帰るその孫のソロモン(ジンハ)の物語が交錯する構成は『ゴッドファーザーPartⅡ』(74年、フランシス・フォード・コッポラ監督)を思い起こさせる。日韓の歴史の狭間に生きた少数民族の物語が、「難民の時代」である21世紀のあらゆる存在にとって切実で普遍的なドラマに昇華され、殊に東アジアの近現代史を知ろうとする日本人にとっては欠くべからざる物語になっているのだ。

韓国映画になぜ負けるのか

しかし、このドラマを日本のほとんどのメディアは黙殺した。思想家の内田樹は、韓国映画がこの10年、李氏朝鮮末期から日本の植民地支配の時代という韓国近代史にとっての「暗部」を、『ミスター・サンシャイン』(18年)や『シカゴ・タイプライター 時を越えてきみを想う』(17年)や『マルモイ ことばあつめ』(19年)といったテレビドラマや映画でエンターテインメントとして描いていることと比較して、映画製作をめぐる日本の現実をこう書く。

〈自民族のトラウマ的経験を物語ることはつらいことである。けれども、その古傷のかさぶたを引き剥がして、血膿がにじむような記憶を語る勇気を隣国のクリエーターたちは示した。さらに驚くべきは、それを「娯楽作品」として発信していることである。それは、歴史を語るときのくちぶりに少しでも「啓蒙」や「教化」や「洗脳」の気配がすると、ブロックバスター的な興行収入が得られないことを彼らは知っているからである。(中略)翻って、これと同じ「力業」を試みている日本のクリエーターがどれほどいるだろうか。近代の日本人がそこから目を背けてきた「歴史の暗部」を白日の下にさらし、かつそれをエンターテインメントとして仕上げようとするクリエーターを見出すことはほとんど不可能に近い。クリエーターに問題意識が足りないからということはないだろう。おそらく、そういう映画やドラマの企画を暖めている人はこれまでもいたし、今もいるはずである。けれども、そんな作品の企画はまず営業会議を通らないだろう。(中略)そうやって時間が経つにつれて、隣国の人たちは自国史についての知識を深め、日本人は自国史の暗部について何も知らないという非対称はますます亢進する。過去について知らない人間、知ろうとしない人間には未来を創り上げることはできない〉(「内田樹が観た、ドラマ『Pachinko パチンコ』―日本を舞台にしながら、日本で黙殺される理由とは?」『GQ』WEB 2022年7月1日)

韓国の映画やドラマが、日帝支配下のみならず、南北の分断や光州蜂起すらエンターテインメントに仕立てるヴァイタリティがあるのに較べ、日本の映画やドラマが、歴史修正主義者やレイシストからの攻撃を恐れてか、近現代史の暗部を描くことを避けていることは内田が指摘する通りである。

だが日本でも、アナキスト伊藤野枝の生涯を描いたドラマ『風よあらしよ』(22年、村山由佳原作、吉高由里子主演)において、保守的なNHKで初めて関東大震災時の日本人による朝鮮人虐殺に触れたこと、また同時期に千葉県で起こった被差別部落民9名が朝鮮人と間違えられて殺害された『福田村事件(仮)』(森達也監督)が「関東大震災100周年」に当たる来年(2023年)公開予定であることは付け加えておきたい。

差別されとるモンはナンもでけん

翻ってヤクザ映画は、近現代史において秘匿された被差別部落や在日コリアンに向かい合ったのか――。一般にヤクザの構成比率は、被差別部落民、在日コリアン、市民社会からのドロップアウトがそれぞれ3分の1ずつであると言われている。つまりヤクザ映画を作る上で、差別問題は避けて通れないのだ。

被差別部落民や在日コリアンがヤクザ社会に入り始めた時期について、ヤクザ研究の先駆者であるジャーナリストの猪野健治はこう語る。

〈被差別部落の人たちがやくざ社会に流入してくるのは、実は明治四年八月、太政官布告で「解放令」が公布されてからなのだ。それまでは部落の人たちは部落の外へ出ることができず、やくざになる自由さえもなかったのである。同じことは在日韓国・朝鮮人についても言える。彼らも昭和二十年八月、日本が敗戦の日を迎えるまではやくざになることもできなかった。自由渡航してきた人を除いては、すべて軍需工場や軍役などの強制労働現場にクギづけにされていたからである〉(「近未来を見据えた画期的なやくざ論」『ちくま』07年9月号)

「やくざになる自由さえもなかった」という言葉が、昭和の戦前までの日本社会の差別の過酷さを物語る。1945年8月15日、日本敗戦の日、GHQは炭鉱、軍需工場などで労働を強制されていた朝鮮人、中国人、台湾人らを解放した。「第三国人」と蔑称されながら、大都市の中心部に集まり、焼け残ったビルに事務所を構え、「戦勝国民」を名乗り、「朝鮮人連盟」や「華僑連盟」の看板を掲げる者も現れた。そして彼らの一部は、大都市周辺の倉庫や食料品を積んだトラックを襲撃し、略奪した物資を露店で売り、ヤクザや警察との衝突を繰り返す。

50年代に入っても、在日コリアンは住宅を賃借することが容易でないなど生活の根本を脅かす差別が続き、60年代になっても医者か弁護士になる以外、たとえ東大を出ても就職先は焼肉屋かサラ金かパチンコ屋が多くを占めた。“レーニン全集を読む在日韓国人ヤクザ”として知られる柳川組二代目谷川康太郎は自らの境遇をこう語っている。

「小学校のセンセイは、努力する者は必ずむくわれる、と教壇の上でよう言うとった。これほどひどいウソはないわ。差別されとるモンは、ナニかしよう思うても、ナンもでけんやないか。貧乏やから銀行いってもカネ貸してくれへんし、学校もろくに行けんからまともなところには就職でけん。ビルの谷間を這いずるような雑業か日雇いくらいしかないわけや。差別されとるモンが正直に真面目に生きよう思うたら、ひもじいみじめな生活しかでけんいうことや。それに最初に気がついたわけや。それからはすべてに反発した。反発することがすべてやった」(猪野健治著『やくざ親分伝』02年)

日本社会から閉め出された在日コリアンにとって、芸能界やスポーツ界とともにヤクザ社会は、最後のアジール(避難場所)であり、夢の容器だったのだ。

深作欣二の「階級闘争」

戦後の日本映画に登場する在日コリアン像は、『にあんちゃん』(59年、今村昌平監督)や『キューポラのある街』(62年、浦山桐郎監督)に代表されるように、貧しく、清く、民族のアイデンティティに思い悩む存在として描かれた。60年代の東映任侠映画においても、遠藤太津朗らが善良でお人好しの朝鮮人を訛りのある日本語を使って演じ、日本人と分け隔てなく彼らに接する兄貴分の鶴田浩二や高倉健に庇護された。

こういう温情主義的な作風と訣別し、在日コリアンの集住地区に最初にキャメラを据えたのは深作欣二だった。深作は『仁義なき戦い』(73年)以前の、東映東京撮影所で撮影したギャング映画やヤクザ映画において、東京の代表的な朝鮮人集住地区――江東区の枝川町にキャメラを持ちこみ、『狼と豚と人間』(64年)、『解散式』(67年)、『血染の代紋』(70年)を撮った。枝川町集住地区は1938年に人為的に作られた町である。40年の東京オリンピックと万国博覧会の開催が決定したとき、東京市はこれらの関連施設の建設予定地である江東区塩崎、浜園に住む朝鮮人のバラックを撤去し、1000名を超える朝鮮人を、沖合の埋め立て地でゴミ焼却場のある枝川に簡易住宅を建てて、強制移住させたのだ。

オリンピックが中止となり、東京大空襲での焼失を免れ、59年から始まった北朝鮮への帰国事業で人口が減る中、枝川の人々は「どぶろく」の密造販売、養豚とその販売、廃品回収、工場での非正規労働などを生業(なりわい)としながら、東京朝鮮第二初級学校を設立するなど枝川を「民族運動」の拠点とした。深作の映画の中で、枝川は「港湾近くにあるスラム」という架空の町として描かれ、主人公である鶴田浩二や菅原文太や梅宮辰夫はこの町で生まれ、自らの故郷を愛おしむ。しかしながら暴力団追放運動で窮地に立たされて背に腹は代えられずスラムの再開発のための立ち退きに手を染める。

『血染の代紋』で、立ち退きを要請しに行った菅原文太が住民から死んだ猫を投げつけられる。この場面には、それまで下層社会の負の仕事を請け負い、彼らとともに生きてきたヤクザが、独占資本や企業に寄生せざるをえない時代になり、下層社会から搾取することで憎悪される立場に変貌するさまが鮮烈に描かれる。この映画の脚本を書いた映画監督の内藤誠は深作の意図をこう語る。

内藤 深作さんは「ヤクザ映画に“階級闘争の視点”を入れるんだ」と口を酸っぱくして言っていました。脚本を書くときに二人で参考にした本は、溝口敦の『血と抗争 山口組ドキュメント』(68年)、竹中労の『山谷 都市反乱の原点』(69年)、エンツェンスベルガーの『政治と犯罪 国家犯罪をめぐる八つの試論』(66年)でした。ヤクザ映画に“社会性”を加えようと、深作さんは追いつめられてゆくヤクザと過疎化してゆく枝川を重ね合わせたんです。

原爆スラムを映画に残したい

「階級闘争の視点」とは、『血染の代紋』の作品自体を観ても、また参考書籍からしても、単に下層の民が支配層に反抗する物語ということではなく、民族と差別の葛藤の只中にキャメラを据え、その軋轢を差配する国家の大きな力をも射抜く眼差しということであろう。

『仁義なき戦い』シリーズ(73〜74年)はモデルの広島ヤクザが抗争中だったため京都で撮らざるをえなかったが、深作欣二は第2部『広島死闘篇』(73年)で、2日間だけ「原爆スラム」のロケを敢行した。スラムの全景と大友勝利(千葉真一)と山中正治(北大路欣也)が殺し合う2つの場面を撮るためである。原爆スラムとは、原爆投下で家を失った人々が太田川河川敷に不法バラックを建てて住んでいたが、しだいに係累や血縁のある日本人が離れ、地縁のない朝鮮人が残された地域である。『団地と移民 課題最先端「空間」の闘い』(19年)で原爆スラムの歴史を詳述したジャーナリストの安田浩一は、深作がわざわざ原爆スラムでロケをした理由をこう考える。

安田 あの場所は行政にとっては「あってはならない」「早く消し去りたい」地域でした。深作さんは、そんなふうに見捨てられた場所で、社会から見捨てられたヤクザが殺し合う場面を撮りたかったのではないかと、僕は想像します。原爆スラムは撮影時にはすでに再開発が始まり、まもなく消されようとしていました。78年には「基町高層アパート」に生まれ変わるわけです。深作さんは枝川朝鮮人集住地区同様、マイノリティの生活の息吹が宿る原爆スラムと、“スラムがあった時代”を映画に残したかったのではないでしょうか。

その歌、なんちゅう歌や?

『仁義なき戦い 頂上作戦』(74年)では原爆スラムの部屋の内部が描かれる(東映京都撮影所内のセットで撮影)。チンピラの小倉一郎は、顔にケロイドがあり原爆症に苦しめられる母親や兄弟とスラムに住む。小倉は母親に楽をさせ、家族に新しいテレビを買ってやるために松方弘樹を暗殺する。スラムから抜け出そうと足掻(あが)くチンピラを深作は抱きしめるように撮った。また、この連載ですでに述べたように白石和彌も『孤狼の血 LEVEL2』(21年)で鈴木亮平のヤクザの出自を基町高層アパートとし、彼がなぜヤクザにならざるを得なかったかをアパートの風景だけを見せ、指し示した。

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