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山内昌之「将軍の世紀」 |「本当の幕末」徳川幕府の終わりの始まり(2)三方領知替と続柄大名――幕府の不公平

歴史学の泰斗・山内昌之が、徳川15代将軍の姿を通して日本という国のかたちを捉えることに挑んだ連載「将軍の世紀」。2018年1月号より『文藝春秋』で連載していた本作を、2020年6月から『文藝春秋digital』で配信します。令和のいま、江戸を知ることで、日本を知るーー。

※本連載は、毎週木曜日に配信します。

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 江戸後期の儒学者・松崎慊堂(こうどう)は天保十一年(一八四〇)十一月朔(一日)の日記にそっけなく書いた。「松平大和守は庄内鶴岡に移封す。酒井左衛門尉は越後長岡に徙(うつ)る。牧野備前守は河越に徙る」(『慊堂日暦』6)。これは川越・庄内・長岡の三方領知替のことだ。天保十一年十一月に発令された領知替は露骨な「続柄」の優遇策にほかならない。酒田港と豊かな庄内平野を支配する酒井家の表高は十四万石であるが、実高は三、四十万石に上ったといわれる。「続柄」「続合」の川越藩松平家がこの領有を望み、格段の失政もない庄内藩酒井家を長岡に移し、玉突きで長岡藩牧野家を川越に移す大型転封であった。

 三方領知替は、幕藩体制の根底を揺るがす思いがけない反応を引き起こした。それは出羽国田川郡・飽海(あくみ)郡の百姓たちが酒井家の所替沙汰に反対し、国境を越えて仙台藩伊達家領で追々に三百人も滞留しはじめたことだ。彼らの主張は「庄内領惣百姓より仙台え願出の趣」という文書から知ることができる(『藤岡屋日記』第二巻、天保十二年五月)。それによれば、二百年前に酒井左衛門尉家が入国して以来、多湿地を水災のない新田に変え、「変難」のある年には百姓に手当を施し、とくに巳の年(天保四年)の「前代未聞の大凶作にて一統餓死にも相及(あいおよ)ぶべき候ところ御領内御役場に於て御家老中様方格別の御精力を尽なされ」、余米や買上米で百姓に手当し、精力がつくように干肴や古着を与え、餓死者や他領逃亡者も出なかったというのだ。確かに、八月に秋田藩や弘前藩では米価高騰、盛岡藩では飢饉と米買占に反発して打ちこわしや御蔵と富家土蔵の襲撃が起きている。翌五年二月にも秋田藩領では米価高騰から騒擾が起きた(青木虹二『百姓一揆総合年表』)。酒井家では年貢が納められなくても、手当を下さるなど「御恩徳重畳ありがたく感涙を流し、一統農業に出精まかりあり」。そこに思いもよらぬ国替の知らせが舞い込んだ。「老若男女一統愁傷歎(なげき)に沈み」、公儀への駕籠訴、伊勢・塩釜・鹿島の神社に参詣するつもりでやってきた。「御執成」(おとりなし)を愁訴された仙台藩も困惑したであろう。しかし、元はといえば、家斉の続柄大名への依怙贔屓を伊達家としても内心不快に思っていたに違いない。

 伊達家の措置は情誼にかなっている。その説得にもかかわらず、ただ涙を流すのみで一言も申し開きをしない百姓たちに、ともかく三人だけ残り後の者は帰領するように諭した。百姓たちの願書を受け取るわけにいかずそのまま差し戻したが、「大勢挙げて領内え相越し悲歎・哀慕の情懇は容易ならざる儀にこれあり候」と仙台藩の同情を庄内藩に伝えている(六月廿一日付大浪太兵衛より庄内への御紙面、『藤岡屋日記』第二巻)。

 そのうえで仙台藩主・伊達陸奥守斉邦は大老・井伊掃部頭直亮に書状を送り、酒井家の二百二十年に及ぶ善政、飢饉の救恤などで君恩を忘れず本領再復を求める志は「神妙の企て」であり、仙台藩の郡代らはその素志は逐一主人(陸奥守)に伝え、公儀へ言上するのでまず帰国して安否を待つように申し聞かせて引き取らせたと伝えている。陸奥守は庄内藩の百姓らの「君恩報じたき旨の誠肝石胆、一朝一夕に砕くべくに御座なく」、「三軍も帥を奪うべきなり匹夫も志を奪うべからざるなり」と『論語』を引いて庄内の百姓たちの決意の固さに触れた。このあとで伊達斉邦は驚くべきことに公儀の決定に異を称え、外様第三の国主とはいえ幕政に大胆に介入するのだ。「匹夫」つまり百姓たちの「不撓の義気は良民尋常の企てにはこれ有まじく」、このような所に川越から松平大和守が新たに入国しても安定と平和のうちに領地支配を維持できるのか、できないのか、覚束なく存ずるので、所替の件はひとまず御猶予いただき心を安らかにし、後から御沙汰をするのが然るべきかと存ずると、幕府の政策決定の撤回を公然と求めた。大和守とは川越の松平斉典のことであり、斉省を養子にとらせた大御所・家斉の依怙贔屓と恣意を間接的になじっているのだ(六月紙面写、『藤岡屋日記』第二巻)。

 伊達家の姿勢は、他の外様大名にも共通しており、天保十二年閏正月の家斉死亡を機に鬱積していた不満が一挙に噴き出した感がある。譜代大名でさえ官職や家格上昇のために、善し悪しはひとまず措き莫大な冥加金を幕府に献納し、要路に鼻薬を嗅がしていたのに、続柄大名は何の苦労もなく特権や加増を手にするのだから面白くない。大和郡山の柳沢家は溜之間詰になるために天保五年に四万両を幕府に献納したが効果なく、次に中野石翁の歓心を引くために屋敷に歌舞伎舞台をしつらえ名役者を堺町から呼んだばかりか自家の美少女たちを茶屋女に仕立て上げ終日接待したという。感じいった石翁は柳沢のために尽力したがうまくいかず、ますます熱を上げた柳沢は再び四万両を幕府に献上してようやく従四位下侍従の地位を射止めた。これが四代目の美濃守保泰(やすひろ)か、その子の保興か、事蹟が混在する部分もあるが、大事なのは官位や殿席の上昇は尋常一辺倒では実現しなかったことだ(『想古録』2、一一三八)。

 大広間席の外様大大名たちは家斉が死ぬとすぐに「大広間外様方」の名で老中に伺書を出した。そこには、先祖より代々拝領の城地は、家々の格や、徳川家への御奉公が抜群だとして拝領したのに、近年になって「御老中・御出頭の御方へ、内願等申し入れ候大名衆御座候」と続柄大名へのネポティズム(身内びいき)をあてこすり、先祖代々の屋敷や城地を何故に取り上げて「願いの者」へ下賜し国替を命じるのかと疑問を呈し、私どもは理由を是非知りたいとたたみかける。庄内の酒井といえば、榊原・井伊・本多と並んで徳川家では、「御取立も格別に御座候家」ではないかと外様ながらに心配するのは皮肉以外の何物でもない(『荘内天保義民』前篇)。また同時期に「国主外様」から出された伺書や、「諸大名組合の御旗頭御役」だった藤堂和泉守高猷(たかゆき)留守居の伺書も領地替の理由を知りたいの一点張りである。そのうえ譜代として幕命を請けざるをえない酒井家でさえ、家光の時代に附家老とされた松平甚三郎家を前に出して水戸徳川家を動かそうとする。本来なら老中たちに上申すべきだが、この一件に限らず上様から出された案件について、「一々御旨申し上げ、少なくも御諫奏致し上げ候御方様あい聞こえず候」、老中に何を語っても「無益の至」と存ずるので、憚りながら水戸中納言様に「御憐慮」いただきたく願うというのだ(五月、中山備前守幷山野辺主水正宛松平甚三郎紙面写『藤岡屋日記』第二巻)。幕府の箍がゆるんできたどころか、幕藩体制のきしみが聞こえてくる。

 外様の国主大名だけでなく水戸家や田安家までが領知替に異議を唱えるか、酒井家に同情するというのであれば、とても順調に行くはずのない話なのだ。それでも、家斉亡き後、老中・水野越前守忠邦が新将軍・家慶の下で三方領知替を強行しようとしたのは、忠邦の個人的思惑を越えて、幕府の令を撤回でもしようものなら、幕藩制国家の支配原理が崩れるからだろう。大名領地の転封は将軍の基本権限であり、いかなる由緒や家柄であっても従うべきだと水野は考えた。外様大名らが一致結束して幕命を批判するのは謀叛に等しく、ましてや百姓領民の反対運動が幕議を覆えさせる行為はあってはならない。幕藩制秩序からの逸脱に厳しい水野によれば、「たとひ賢相功臣の家筋に候とも、御代々の思召次第にて、松前蝦夷の端々え所替仰せ付られ候とも、聊かも違背仕るべき筋は毛頭御座なく候」であり、「加削は御当代思召次第の処」なのだ。しかも、庄内酒井家は溜詰格という幕府中枢を支える家柄なのに、幕府の権威を貶めるのは論外と言いたいのだろう。

 しかし家慶は父や兄弟らの面子に関わっていられなかった。御三家御三卿の身内から国主大名まで幅広く批判が出るようでは、改革政治を進めるどころではなく、領知替を撤回せざるをえなかった。水野の危惧は間違っていない。一度幕府が出した令に背く前例ができれば、転封を拒否する大名も出てくる。それは天保十四年の江戸・大坂近辺の上地令が挫折に追いこまれることで再現された。また、アヘン戦争で対外危機を痛感した水野が日本海方面で新たな海防体制を試みたのも事実としても、幕府による中央集権的な実行を妨げる大名の既得権益の強さと幕府の力の低下をまざまざと示したのが三方領知替の失敗だったといえよう(藤田覚『幕藩制国家の政治史的研究』)。

 これで終われば庄内義民と酒井家との封建体制を越えた日本人ならではの美談ということになる。庄内藩主・酒井忠器が「人品アシク」と悪評を立てられたのは何故だろうか。彼が他の大名家を初めて訪れる時には、二、三百疋(金二、三分)くらいの狩野探幽ら名人のまがい物を持参して、礼金に二、三十両を取り込み、客席の珍器を無心するなど「アツカマシキ事甚シ」というのだ。また役者を集めて芝居をさせ自分で幕を引いたともいう。しかし噂は三方領知替失敗の腹癒せに幕府や川越藩あたりが意図的に流したのかもしれない(『三川雑記』天保十二年辛丑)。美談をすべて正当化する必要はない。むしろ美談を成立させるために醜聞を隠すには及ばないのではないか。

★次回に続く。

■山内昌之(やまうち・まさゆき)
1947年生、歴史学者。専攻は中東 ・イスラーム地域研究と国際関係史。武蔵野大学国際総合研究所特任教授。モロッコ王国ムハンマド五世大学特別客員教授。東京大学名誉教授。
2013年1月より、首相官邸設置「教育再生実行会議」の有識者委員、同年4月より、政府「アジア文化交流懇談会」の座長を務め、2014年6月から「国家安全保障局顧問会議」の座長に就任。また、2015年2月から「20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会」(略称「21世紀構想懇談会」)委員。2015年3月、日本相撲協会「横綱審議委員」に就任。2016年9月、「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」の委員に就任。

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