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山内昌之「将軍の世紀」 本当の幕末――徳川幕府の終わりの始まり(4)将軍の収賄犯罪

歴史学の泰斗・山内昌之が、徳川15代将軍の姿を通して日本という国のかたちを捉えることに挑んだ連載「将軍の世紀」。2018年1月号より『文藝春秋』で連載していた本作を、2020年6月から『文藝春秋digital』で配信します。令和のいま、江戸を知ることで、日本を知るーー。

※本連載は、毎週木曜日に配信します。

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 幕府高官の機微に通じた『しづのおだまき』は、老中・水野忠成が「学識もなく、当時あての才気」だけなので文武は地を払い和歌・蹴鞠・乱舞のみ盛んになり、三佞人のうち若年寄・林肥後守忠英と側用取次・水野美濃守忠篤も忠成と同じで賄賂が流行った様を、西晋の風刺文学者・魯褒の『銭神論』でいう孔方兄(こうほうひん)万能の時代に変えたと凝った表現で厳しく咎めている。孔方(銭)に親しむ様子はまるで兄に親しむのと同じであり、これを失えば貧弱、得れば富強、翼が無くても飛び、足が無くても走るという表現が『銭神論』に見られる(『続日本随筆大成』12所収)。たとえば、盛岡の南部家は少将の官位を得るために三万両を費やし、水野忠篤だけでも三千両を遣ったという(『三川雑記』)。

 三佞人の残りは、小納戸頭取・美濃部筑前守茂育(もちなる)である。石翁は隠居なのでそこには入らない。長崎奉行・大坂町奉行・堺奉行といった利権にからむポストが空くと、人びとがそわそわする様子に人事を左右する要路を絡めた歌は、腐敗の興味深い。「大手の爺さん(水野忠成)、林の叔父さん(林忠英)、駿河台の坊さん(中野石翁)、小川町から桜田辺り(側用取次・水野忠篤らの屋敷)を、まごつき歩行て、のめつてころんで、勤た計ぢや、今時きやいけすの、鯉や鰻は、おんてもない事、一寸時候の、御見廻なんどか、羽二重縮緬、(金の)五疋十疋、菓子折、袴地、なんのかのとて、名目計りで、お金でにぎらせ、百や二百の、小判はチヤアフウ」。この歌を紹介した幕末きっての外務官僚となる川路聖謨は、水野忠成が幕政を担った文政以来十余年のうちに綱紀が大きく乱れても、大久保加賀守忠真が老中にいたので何とか幕府も長らえたが、忠成の死に続いて忠真が天保八年に病死することで「国脈の長短に拘らんこと必定す」と、忠真の死が国家(幕府)の命を一挙に縮めた原因としている。山田三川は「コレヨリ御政事ハ必賂(まいない)行レテ下レル世トナルベシ」と正確に幕府政治の堕落を予見している。こうした見方は、藤田東湖も含めて同時代の人びとが多く共有していた(『遊芸園随筆』八。『三川雑記』天保八年丁酉、十年己亥。『丁酉日録(天保八年)』三月廿七日)。

 石翁が賄賂を取るのは家斉の自由になる遺棄金(つかいすてきん)の不足を補うためだったという説がある。歴代の将軍はひと月、二、三百両であり、多くても綱吉が六百両を使ったのが目立つくらいで、家斉の八百両は破格であった。また大奥の老女が賄賂を貪るのも御台所の小遣銭をつくるためだったというのだ。天保八年の頃、多くの少将任官者が出た時、石翁は千両取っても八百両は大御所の内へ消えていく算段だと内情を打ち明けたことがある(『想古録』1、三九四。同2、六八一、八〇二)。

 ありそうなことだ。長年の君臣関係のアヤからも家斉は石翁の収賄に気づかぬはずがない。それどころか、収賄の一部を上納させていたとすれば至高の君主が売官汚職の共犯者だということになる。譜代大名の家では藩主の老中など幕府要職への就任や加増の御礼だけでなく、「内願」「内々」の段階から家齊の嗜好にかなう品を用意せねばならなかった。加えて、家斉のほうから珍品の鯉や松の鉢や椿の花などを平気で所望した。その希望を大名に取り次ぐことで三佞人と石翁が権勢を振い、時には大名の官位昇進を左右するシステムが成立していた。古河藩主・土井大炊頭利厚は老中首座でありながら、しばしば「内々」に石翁を通して家老や用人に伝えられる家斉の希望を叶えた。たとえば、文政三年九月二十九日に中野から「松御鉢植御内々御望」と伝えられた。すると土井家では十月四日に「御望の松、平作に申し付け御風呂や口へ相廻し候」と早速に届けた。平作とは中野石翁出入りの植木屋でありながら、家斉所望の品々を石翁の命で時には安房で鯉、駿河で真竹をわざわざ得るなど、家斉への献上品を調達する役割を果たした。また、「御風呂や口」とは江戸城奥の「風呂屋門」を指し、その玄関は石翁の御小納戸番部屋や同西部屋のすぐ前であった。いずれも将軍の寝所「御休息」と御座之間に近いことは言うまでもない。石翁は手ずから将軍に所望品を届けるシステムを平作を利用しながら作り上げていたのだ。もっとも家斉は献上品なら何でも受けるほど軽くない。たとえば、文政四年三月五日、石翁の使いとして平作が古河藩邸に来て、椿の上花を「数品御望ニて御ねたり」の由を伝えた。すぐに植木屋たちに手配したが上花はもはや入手できず、石翁が見る分として届けたところ、家斉の「思し召しに叶い候品にはこれなく」、何故か鶺鴒を替りに献上すると気に入り、受け取ったというのだ。旬を過ぎた椿が気にいらない時の備えを先回りして考えておかないと権力者の側御用は務まらない。馬鹿々々しいことだが、体制が衰亡するとはそういうことだ。

 天保十二年十月頃に御膳奉行が川路聖謨に語るところでは、家斉はこれまでになかった琉球芋を加えた御鉢や、御吸物も何もかも、材料は諸大名からの献上品であり、「御買上といふもの一品もなかりし」ということだった。しかも献上の干魚や「かれたる貝」ではなく、或る時は浅野家に嫁いだ末姫献上の蛤を使おうとした。すると奥医師から朝御膳には初茸もあり、食い合わせが悪いとあった。家斉に尋ねると、それでは干鮑を薄くつきて御吸物に使えとの御意である(『遊芸園随筆』十一)。晩年の家斉は毎食の献立にも五月蠅くなっていたのだろうか。江戸近辺で新鮮な素材を求めるため、「おねだり」は続柄の大名家にも負担であった。おねだりは『邦訳日葡辞書』の「ねだれ」「ねだるる」に通じ、それは「猫かぶりで詐欺を常習」を意味した。家斉の時代でも、少なくとも無理に請求する・ゆすり求めるのニュアンスは残っていたのではないか。おねだりは文政五年に家斉秘蔵の鯉が替り(変り)数多く死んだのでその替りを「御ねたりの御沙汰仰せ下され候」につき吟味して鯉三匹を早速上覧に供したところ、一匹だけ手元に留めたという記述にも出てくる。さて、花や鯉や小鳥や植木だけでなく、掛物や火鉢までもほとんど石翁を介して家齊に献上されている(「御内用日記(文政三~同七年)」文政三年二月一日、二日、文政四年九月五日、十月二日各条)。その都度、家斉は鯉一匹くらいでは「御満足之旨」「御満足之段」と安易に満足を表すことはない。しかし、中野はよく家斉のツボを心得ている。家斉が鯉を一匹だけ手元に置いた四日後、古河藩は石翁の手から家斉に変り鯉を八匹献上すると、ようやく家斉は七匹を手許に留めて「殊之外御満足之旨」を表した。真竹の斑入(ふいり)が駿河にあると聞いて平作を遣わすと金明竹だったという笑えない苦労話も含めて、進物の「おねだり」と献上は、大名家にとって真剣な営みであった。果たして、この真竹の斑入騒ぎのすぐ直後に土井家は一万石の加増を受けている(「御内用日記(文政三~同七年)」文政五年三月十六日、廿五日、廿八日各条)。石翁や平作を介した土井家の意思伝達や献上は、あきらかに内々の賄賂的な性格をもつやりとりであった(荒木裕行『近世中後期の藩と幕府』)。

 将軍も形式的とはいえ、下賜品を与えることで一方的な収賄でなく互酬的な装いをもたせようとした。家斉は、石翁を介して、吹上で育てた金魚一桶を土井家に下賜している(「御内用日記(文政三~同七年)」文政四年七月四日条)。とはいえ、家斉の貪欲ぶりには際限がない。土井家から林忠英を介して献上された枝珊瑚樹を気に入った家斉は石翁に「一品別段ニ御望の旨」を命じた。いやもおうもない。土井家はすぐ四日後に献上すると「殊之外御満足之旨」が伝えられた。枝珊瑚は古河藩が「御加増ニ付御内献」とあるように御礼の意味合いが強かったのだろう。逆にいえば加増の礼物追加を将軍が催促したといえなくもない(「御内用日記(文政三~同七年)」文政五年四月八日、十二日、五月一日各条)。

 こうした機転や献上のタイミングは、家斉の気質や機嫌に通じた石翁なればこそ可能であり、植木屋平作を御用聞の腹心として役立てる濃密な利権ネットワークを十全に活用した。老中首座でさえ将軍と個人的に親密な関係をもつために、奥の側用取次や小納戸頭取の取り持ちを欠かせなかった。もちろん、石翁くらいになればもらうだけでない。相応の返しもしている。天保十年に居屋を類焼した松浦静山の見舞にすぐ駆け付けた石翁は、間青色(オナンドチャ 御納戸茶)の縮緬と浅黄裏に葵御紋を小型に染め出した小袖、萌黄と白糸縦横なる小格子の縮緬に浅黄裏をつけた小袖、素(シロ)の琥珀地に紫で二引輌を織り出した帯を見舞として届けた。小袖は家斉、帯は将軍家慶からの拝領物である。静山は先年西之丸火事に際して家斉見舞として石翁と「謀り、其内慮に随て」小判金二百枚を献上したので、あるいは大御所のお返し見舞いかと喜んだところ、そうでなく碩翁の懇ろな配慮からだと分かった。それでも、この非常の機会に「尊者の貴服を獲しは天なり」と図に描いて喜んだ。新築祝いとして石翁が贈った刀架は凝っていた。干網の形に作り、つなぎを霞の象(カタチ)として、鵆(ちどり)の群れ飛ぶ状を、白木で彫った「頗る美物」だったという(『甲子夜話三篇』5、巻六十五の一〇『甲子夜話三篇』6、巻七十二の一三)。

 奥の役職者が家斉と築き上げた濃密な人間関係の綾には、老中や若年寄でさえ及ばなかった。中野石翁と林忠英はともに明和二年の生まれであり、忠英が小納戸役になった二年後の天明三年に石翁も小納戸役となった。忠英は寛政九年に小姓頭(取)になるまで十年間も小姓役職に留まった。同七年には忠英の四女が中野の養女となったように、二人は私的にも密接な縁戚であった。しかも、林家は上臈御年寄の高岳や万里小路の宿元であり、中野家はお美代の父として将軍の閨閥に連なった。大奥の二つの実力者ともいえる側室と老女の核心を握ることで、互いの役割を分担し特権領域を侵さなかったともいえるだろう(『徳川政権下の大奥と奥女中』)。

 隠居した松浦静山でさえ、お美代の方には「世に連て、折には石翁に憑て進物抔せしことなりし」と語っている(『甲子夜話三篇』6、巻七十七の十五)。三百俵取から出発した中野石翁は、文政十年には二千石の新番頭格を最後に、天保初年に時服三領と御手元金より黄金二百両を拝領して引退した。石翁と号した後にも、幕府役人としては異例にも白服白綸子の十徳を着て出仕して夜直までした。坊主や医師・画工の黒十徳とまぎれぬようにと家斉の命で白十徳を着たというから威勢は強まるばかりだ。すると、「猪の隼太鵺を捕へて当番日」と石翁の当番日、亥寅巳申を記憶する歌が流布した。この実力者との出会いで幸運を掴もうという輩が引きもきらなかったわけだ。面白いのは、その註である。「猪(亥)の隼太曰く。鵺の状は、頭は猿(申)、尾は蛇(クチナワ 巳)、足手は虎(寅)の如くなり」と。陽は隠居であっても、陰は権力者の石翁の妖怪ぶりを巧く言い当てている(『しづのおだまき』。『甲子夜話続篇』5、巻五十七の三。同6、巻七十の一二)。家斉の側にも手許金や贅沢品の調達で石翁を重宝する理由があった。家斉の時期になると、大名たちも賄賂と認識して品物を授受する感覚を汚らわしいと思わぬようになったのではないか。越前の松平春嶽は、家斉の甥で田安家の出身であったが、拝借金を願うために将軍家慶(従兄弟)の上臈御年寄・姉小路への「賂賄」として贈る多葉粉盆を実見したと日記に書いている(「政暇日録」弘化二年十一月二日、『松平春嶽全集』第三巻)。

 林忠英は、父・忠篤が家治・家斉の二代にわたって大奥で権勢を振った高岳のマタイトコであり宿元であった。何人もの女中の身元保証と宿を引き請けたなかでも、京都の岡崎三位の娘・初代万里小路は家斉の将軍期を通してずっと御年寄と上臈御年寄を務めた大奥の実力者である。二代万里小路は、忠英が上総・貝渕藩一万八千石の大名になり若年寄に累進すると、ふちという小上臈を上臈御年寄にして万里小路を名乗らせた人物である。忠英は表の若年寄と奥向を兼帯し、大奥を支配する政治装置として由緒ある老女名が必要だったからだ。つまり、官職の上昇や加増の実現のためには、どうしても表と奥と大奥を貫く人脈と権力を築く必要があったのである。家格制度が崩れて、将軍あるいは大御所が内願の可否を判断する時代は、内願による賄賂の横行を必然化させたということだ(『徳川政権下の大奥と奥女中』)。優秀な廉吏といってよい同役の堀田摂津守正敦は退役に際して、林忠英を我意が強く御為にならず、これまでは自分が抑えてきたが、これからは必ず羽翼を伸ばすので早期に罷免あるべしと強く主張したほどだ(『想古録』2、七七八)。

★次週に続く。

■山内昌之(やまうち・まさゆき)
1947年生、歴史学者。専攻は中東 ・イスラーム地域研究と国際関係史。武蔵野大学国際総合研究所特任教授。モロッコ王国ムハンマド五世大学特別客員教授。東京大学名誉教授。
2013年1月より、首相官邸設置「教育再生実行会議」の有識者委員、同年4月より、政府「アジア文化交流懇談会」の座長を務め、2014年6月から「国家安全保障局顧問会議」の座長に就任。また、2015年2月から「20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会」(略称「21世紀構想懇談会」)委員。2015年3月、日本相撲協会「横綱審議委員」に就任。2016年9月、「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」の委員に就任。

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