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五木寛之さんの心を打った「うらやましい死に方」2023 投稿編

404通もの貴重な投稿から選ばれた心を打つ14篇。

「日本人の死生観が大転換を遂げていたことが分かりました」。選・構成を担当した作家・五木寛之氏の言葉はこちら

長生きより7合の酒 (福岡県うきは市 82歳 矢野紀男)

 80歳を過ぎての引っ越し準備に忙しい毎日です。この準備中に、少し変わったアルバムが2冊ほど出てきました。装丁やボリュームは立派なものですが、親戚の写真の隣にご近所の方の写真が。故人の写真の下に若い人の写真が、少し曲がって貼ってありました。

 このアルバムを発見したまさにその夜に『文藝春秋』を手にし、「2022年のうらやましい死に方」に目が止りました。昭和39年に他界した祖父のことを是非紹介したいと思いました。

 このアルバムの作成者は祖父です。

 祖父イクオール酒です。一升瓶に顔と手足を付けたようなものでした。朝食前に一杯、中頃一杯、昼食前には二杯、中頃一杯、夕食前にも二杯、杯はコップですので約一合でしょう。合計すると七合になります。365日ほぼ毎日だったのではないでしょうか。家計が気になるところですが、祖父の実弟が隣町で酒類の卸問屋を手広くやっていましたので、何とかなったのでしょう。

 こんな酒浸りの祖父でも、「アル中」になることもなく野良仕事に精を出しておりました。しかし、やはり年には勝てなかったのでしょうか。

 80歳半ば前のある日、突然倒れて寝込んでしまい、酒が飲めなくなりました。それでも、何度も往診に来ていただく先生の熱心な治療と、断酒のお陰で、短期間で元気を取り戻すことができました。本人は大喜びでしたが、先生からキツーイお言葉を頂戴したみたいです。

「〇〇さん、あなたは元々頑強な身体だから、あと10年は長生きしますよ。私が保証します。ただし、このままお酒を飲まなければ、ですよ」

 実直な祖父は先生に言われた通り酒を断ち、仏間にこもり、しょんぼりと昔の写真を整理してアルバム作りなどをしておりました。

 ところが2、3か月経った頃でしょうか。孫の私に独り言みたいにこんなことを話してくれました。

「なあ△△や、わしゃ酒を飲まんで10年長生きするより、うんと飲んで、はよ迎えに来てもろた方がよか」

 それからまた七合生活のスタートです。きっちりとお迎えはおいでなさいました。母の話では、結構筆まめな祖父でしたが、遺書もなく預金など通帳さえ持っていなかったそうです。

 今日は祖父の遺影を荷造りしています。祖父と親父で建ててくれた家を残して、都会のマンションに引っ越します。ゴメンナサイ。

 ただ、晩酌だけは私も続けています。但し七合ではなく、350mlの缶ビール1本と酒五勺です。

読者からの投稿 ©文藝春秋


囲碁棋士の一生 (愛媛県松山市 91歳 髙須賀嘉夫)

 彼は中学校国語科の教師であった。後に私の無二の碁友達となる。彼は昭和20年代、教育学部を卒業し、昭和28年4月、瀬戸内の小さい島の小中併設校に赴任した。しばらく彼に代わって新任校の様子を書く。

 当時、その島の教師は現在では想像できないほど、かなり自由でゆったりと勤務できた。例えば、夏は朝釣りに出かけ、めばる、ちぬなどを釣り、それから学校に出かけるというように。昼食は、当時はまだ給食がなく、子供たちは家に帰って食事をする。島には2つの集落があり、その中間に学校があった。片道の所要時間はおよそ20分ほどであったという。教師は弁当だから、休み時間が随分ある。テレビなど全くない時代である。

 学校には碁の好きな教師が3名いた。彼は囲碁の対局を見ているうちに、2、3日もすると、ルールをなんとか解ってきた。そして、下手な者どうしで対局するようになった。彼は当時、囲碁がどんなに面白いものか、どんなに奥深いものか知らなかったに違いない。ましてや碁をしながら一生を終えることになろうとは、夢にも思わなかったに違いない。

 彼は自宅から通える市内の学校に転勤すると、次のように生活し始めた。夕食が済むと碁会所に出かける。幸い市内には小さな碁会所が幾つもあった。そこで囲碁を存分に楽しんだ。友人もでき、幸せな日常だった。彼ほど囲碁を愛好した人を知らない。それでいて、彼には節度があり常に庶民的な紳士であった。

 参考までに私のことを書く。今91歳で、ひょろつきながら生活している。週に1回、囲碁講座を受講している。受講は楽しい。前の日から機嫌が良いのが自分でもわかる。にこにこと老妻にお上手の1つも言ったりする。当日になると、杖をついて300メートルほど先の文化センターに出かける。歩くのが苦にならない。大石が生きたり死んだりするのだ。碁打ちは親の死に目にあえないと嫌みを言われたこともあるが、親の恩を忘れることはできない。今でも。

 彼と私はM中学校で知り合った。昭和50年代で、おそらく現在と同じ程度に多忙であった。ある日曜日、碁会所で碁を打つことになった。まさに人生、至福のときである。彼が白石、私が黒石。さあ対局がはじまった。親しいと、かえって緊張感は強い。

 終盤になった。私は猛然と白石に襲いかかった。

 彼の手番である。前かがみになって、白石を握り考え続けている。手先がすこし、ふるえているように感じた。彼は突然、碁盤にうつぶせになった。そして数日後に亡くなった。

 本人にとって、好きなことをしながら、生を終えるのだから、これ以上の幸せはないだろう。

 私は、91年の人生、わがままに生きてきた。せめて死ぬ時ぐらいは天にまかせたい。碁ができて、随分幸せであった。感謝のみ。


父の四十九日 (高知県香美市 53歳 高芝栄子)

 今日は亡き父の四十九日です。亡くなってからしばらくは遺影を見て、「お父さん、どうしてそこにいるの?」と思っていました。それほど突然の死でした。

 父は84歳で、8年前に心筋梗塞を患ったものの、倒れる前日には真夏の炎天下でテニスをするほど元気でした。

 しかしその日は朝から調子が悪く、予定していたテニスをキャンセルしました。夕方、しんどそうにしている父に、母が救急車を呼ぼうかと聞くと、呼んでくれとの答え。すぐに救急車が到着し、父は自分で草履を履き、ストレッチャーまで歩いて行ったそうです。救急車の中では、隊員の方の質問に自分で答えていました。15分ほどで病院に着き、母は「病院の敷地に入ったぞ! がんばれ」と声をかけました。ところが父は、ストレッチャーの上でぐーっと体をのけぞらせて、もがいたそうです。

 到着してすぐに心臓マッサージを処置していただきました。その時、20分間心臓が止まったので、「今晩か明日がヤマです」と言われました。次の日の早朝、覚悟を決めて長女と共に飛行機で石川へ向かいました。

 コロナ禍のため、長女と2人だけでICUで面会しました。元気な姿しか見たことがなかったので、人工呼吸器をつけ大きく目を見開いた父に、胸が痛みました。そんな父に、とにかく感謝の気持ちを伝えたかったです。

 夫が国家試験を受ける時、孫の面倒を1ヶ月間みに来てくれたのが父でした。「あの時、助けてくれて有難うね」と、必死の思いで伝えると、父の大きく見開いた右目の隣に涙がたまっていました。私は、あの時の言葉は父の心に届いたのだと信じています。

 父が倒れる2週間前、不思議なことに父母と、子ども3人で会うことができました。それは、普段とは違う3つの偶然が重なったからです。

 1つ目は、その数日前の夜中3時に妹から私に電話があり、父が倒れたのだと覚悟して出たら、単なる間違い電話だったこと。2つ目は、妹の「警察がスピード違反の取締りをしているから気を付けて」とのメールに、父が電話して有難うと言ったこと(普段はそんな事はしない)。3つ目は、妹から贈られた鯉のぼりの飾りの糸が切れて、鯉のぼりが傾いていたこと。それで、父に会いに行こうと思ったのです。倒れる2週間前に会えたのは、導かれたとしか言いようがありません。人知を超えた大きな力のお守りのお陰だと、感謝しています。

 父はICUで、18日後にこの世を去りました。人生の試練に遭いながらも、明るく好奇心旺盛でテニス・スキー・カラオケ・米作り・温泉そして読書を楽しみました。

 父はほぼ最後まで元気に動けていたので、一般的に見ればうらやましい死に方と思われるかもしれません。ですが、もし病気で床についたとしても、命の終わりは神様が決める領域だと感じています。どのような最期であれ、与えられた運命を生きて人生を全うした父に、畏敬の念を抱いています。


頭をポンポンと叩いてくれよ (東京都小平市 70歳 本田祐吉)

 実家で亡き父と酒を酌み交わしながら話をした中で、戦時中の話が特に印象に残っています。鹿児島県の鹿屋基地にいた父は、終戦間際に米軍機の機銃掃射を受けた際に、銃弾が体の横をかすめ、バリバリと音を立てながら地面に突き刺さる中を必死に逃げて生き延びたとのことでした。父にとって、まさに九死に一生を得た出来事でした。

 また、人生の最期については、「入院先で植物状態になるのは絶対に嫌だから、延命措置はしないでくれ」と常々言っていました。

 父の死生観は、生きる場面においては精一杯頑張るが、死に直面する最期の時は、現世に執着はしない。死ねば誰もが仏になれるという、来世への素直な想いを持つという考えであったと思います。

 父の最期の時は、「今日が山です」と、病院から連絡を受けました。急いで病院へ向かうと、病室で父は静かに息をしていましたが、時々止まった様になるので、「親父! 息をしないと駄目だよ! ゆっくり息を吸って! 吐いて!」と言うと、不思議なことに私の言葉に合わせるように呼吸を始めました。

 看護師から「本人には家族の声が分かるのね」と言われ、それ以降も話しかけました。何度か話しかけた後、父は安心して眠るように来世に旅立っていきました。91歳の生涯でした。

 母とは生前に冗談交じりで「お袋! 人間死んだらどうなるのだろうね」「死ぬと体からすっと抜け自分を見ることができるそうだよ」「それならお袋が死んだ時には、俺の頭をポンポンと2回叩いてくれよ! そうしたらお袋だと分かるから」「そうだね。忘れなかったらそうするよ」と、笑いながら話しました。

 母が亡くなる1年ほど前から、介護のために2人暮らしを始めました。夕食でおかずの品数が多いだけで、「今日は、御馳走だねぇ!」と言うのが母の口癖でした。その言葉を聞くたびに、子供の頃に家が貧しく嫌なことが多かったと、母が一度だけ漏らしていたのを思い出し、胸が痛みました。

 母は、余りにも突然であっけなく、父のいる来世へ旅立ちました。あれは、デイサービスへ迎えに行って帰宅した時の事です。着替えの最中に突然ベッドへ倒れ込み、両手で頭を抱え「頭が痛い!」と言ったと同時に意識が無くなりました。搬送された救急病院の医師からは、脳出血がひどく手の施し様がないと言われ、それから30分も経たないうちに亡くなりました。92歳でした。

 母の突然の死に際して、父の時の様に最期の話ができなかったのが心残りです。せめて、頭をポンポンと2回叩いて欲しかったのですが、それも叶いませんでした。

 ただし、両親のそれぞれの最期に立ち会えたことだけは、本当に幸せであったと思っています。合掌


長い旅に出た妻 (富山県砺波市 86歳 田上弘)

 8月のある日、妻が墓地の草むしりから帰った折り、何となく腹部に違和感があるとのことで、近くの病院で診察を受けた。結果、進行性のすい臓がんで、手術はできないとのことだった。私がおそるおそる「余命は?」と尋ねると、医師はしばらく考えて「半年くらいがやまでしょう」と答えた。

 それから、妻の本格的な治療が始まった。市外の専門病院を紹介され、約40日間の放射線治療。続いて、自宅と地元の病院での約5か月間の闘病生活。激しい痛みと、絶えることのない吐き気で、60キロ近くあった体重がみるみる40キロに落ちた。妻は次第に生きることへの執念が薄れ、元気な笑顔も失せていった。

 2人で話し合った結果、延命治療は断わることなどを書面に記し、担当医師・看護師・家族の者たちに配布した。私たちには3人の子供がおり、それぞれ結婚して市内で暮らし、折りにふれ病室に顔を出して励ましてくれた。

 私の家柄はいわゆる旧家であり、暮らしぶりも封建的であった。「男子、厨房に入るべからず」「家事、育児は女の務め」などは当然なことだと思われていた。妻との結婚も親同士が決め込んでしまっていたし、私も妻もそんなものだと思っていた。

 妻が入院することになって困ったのは、私がみそ汁も作れなければ、洗濯機も回せないことだった。子供たちは家を離れていたので頼る者がいなかった。しかし、私の決心は早かった。3か月間を見習い期間として、妻から料理や洗濯方法など、全てを聞き出すことにした。妻もいろいろ聞かれることを楽しんでいるようだった。

 体調が良い時、病室で妻の葬儀のことや家のことなど、話し合った。おかしな話だが、妻は死に向かうというより、どこか遠い所へ旅行する気分だと言ってうすく笑った。

 3月のある日の夕方、巡回中の医師が妻の顔と心電図を見比べながら、深刻な様子ですぐに子供たちを呼んだ方が良いと言った。早速電話をしたら、3人とも飛んできてくれた。息子がガーゼに水を含ませ、妻の口元に近づけるとうまそうに吸った。吸っているうちに心電図のモニターがみるみる下降し、担当医が「ご臨終です」と頭を下げた。

 枕もとの机の引き出しを整理していたら、弱々しい文字で書かれた便箋が見つかった。

「お父さん、今までいろいろとありがとう。いつ亡くなっても思いのこすことはありません。こんど、生まれ変わってもまたお父さんと結婚したいです。いつまでも元気でいて下さいね」

 私は年甲斐もなく便箋にぽたぽた落ちる涙を抑えることができなかった。


海に消えた父の寿命 (埼玉県北本市 85歳 吉田孝男)

 人の死は、その人の寿命が尽きた時に訪れるものとずっと信じてきました。母が信心深い人で、このことは幼い時から何度も聞かされていました。

 私の父は水死したのです。当時私は小学校6年生でした。新潟の家の近くにある海岸で海水浴をすることが好きだった私は、父に連れて行って欲しいと頼んでいました。学校から、父兄同伴を義務づけられていたからです。

 その日は暑くて、「連れてって」と、しつこくねだっていました。父は洋服仕立職人で、家で仕事をしていましたが、午後の仕事を止め私と妹を連れて海水浴を楽しみました。

 夕方になり家路についた時、近所の人達に出会いました。牡蠣を沢山持っていました。父が、その牡蠣は何処で獲れたのかと尋ねると、遠い突堤の先にある燈台の岩場からだと教えてくれました。

 父は和式泳法の達人で泳ぎには自信があったので、夕食のおかずにと思い私達を連れて赤い燈台に向いました。着くや否や、燈台から目の先の岩場目がけて飛び込みました。すると、あっという間に沖合に流されてしまいました。

 ここは信濃川と日本海の境で、この時間帯は強い引潮で父の泳法をもってしてもコントロール不能でした。父の姿が小さくなり、大きな真赤な太陽が水平線に沈んで光輝いていました。父は、波間から時々こちらに向って手を上げ何か叫ぶような素振りをしながら消えて行きました。私はただ茫然とするのみで、夕闇の中に取り残されました。

 でも沖合に貨物船が停泊しており、港からは漁船が照明を点けながら、父が沈んでいった方向に出港していたので、もしかすると助けられるのではないかと、一縷の望みを持ちました。妹の手を引いて家に戻り、母と姉に事情を話してから、警察に行方不明の届を出しました。

 そして2日後、警察から、遠く離れた浜の漁網で水死体が発見され、父に似ているので確認するよう連絡がありました。翌日、親戚の人とその浜に行きました。村の人達が焼けるような砂浜を案内してくれて、高く盛られた砂山を掘起しますと、棺に入った父の遺体がありました。

 私はその時、何でこんな姿になってしまったのか、海水浴を頼まなければ、近所の人に会わなければと、後悔の念が湧きました。しかしその時、母が常に言っていた「寿命」ということが思い浮び、これが寿命が尽きるということなんだなあと思い、その後悔の念を払拭しました。涙すら出ない、父53才との別れでした。

 その後、妹を若くして亡くし、母との別れも経験しました。いずれの時も、寿命が尽きたのだと心の整理をして来ました。そして、85才になった私の寿命がいつ尽きるのかは知りませんが、それまで楽しく生きようと心に決めて、日々過している今日この頃です。

「うらやましい死に方」という題には相応しくない話でしたが、これは私の父の死を通しての死生観なのです。


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