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塩野七生 『金色夜叉』再び 日本人へ228

文・塩野七生(作家・在イタリア)

2作目になる『チェーザレ・ボルジア』を準備中の頃だからずいぶんと昔の話になるが、映画監督のヴィスコンティに質問したことがある。「あなたは自作の主人公を常にとびきりの美男美女に演じさせますがなぜ?」。『夏の嵐』の作者は、いつもの静かな口調で答えてくれた。

「ドラマは悲劇と喜劇に分れる。喜劇(コメーデイア)ではどこにも居そうな人々の話だから、言ってみれば平面上で展開する世界。一方、悲劇(トラジエデイア)の起源は、きみも知っているように古代のギリシア。あれでわかるように、社会の上層部にいた王侯貴人が何かの理由で下に落ち、普通の人以上の悲しみと苦しみに打ちのめされる話だから、垂直線上で展開する世界になる。しかし、現代にはもはや、ほんとうの意味の王侯貴人はいない。唯一代わりうるのが、とびきりの美男美女ではないかと思っている。観客の感情移入も、より深くなるであろうから」

『金色夜叉』の主人公は2人とも、美男美女である。どちらか一方が美形という例はあっても、双方ともがとびきりの美男美女というのは日本の文学では珍らしい。

それでヒロインの宮(みや)だが、宮を妻にと望んだのは大金持の後継ぎ息子で、大粒のダイヤの指輪を見せびらかすと同じ気持で妻も見せびらかしたかったのだから、宮も大粒の美女であったにちがいない。しかし紅葉は宮を、並の美女にはしていない。女には同性同士で群れる傾向があるが、宮にはそれはない。毅然とした面も持つ美女であったのだ。

そして相手役の貫一(かんいち)も、宮以外の女という女からモテたからには美男であったろうが、紅葉はこの貫一も、日本型の優男(やさおとこ)にはしていない。横顔ならば中世英国の王を思わせる品位と美に加え、憂いさえたたえた美男にしている。

この2人は熱海の海岸での場面を最後に別れるのだが、普通ならば若い男女に起りがちな一時的なケンカ別れで済むところも、悲劇に仕立てる以上はそうはいかない。両親に言われるままにダイヤの指輪に嫁ぐ宮の心の中は、「宮は実に貫一に別れてより、始めて己の如何ばかり彼に恋せしかを知りけるなり」になっていたからだった。

オレ無しではおまえは幸わせになれないとは、これ以上に官能的な言辞もないと思うが、両刃の剣でもある。おまえ無しではおれも幸わせになれない、と言うのと同じことだから。

宮の夫になった男は、普通の夫並みには親切だった。その男との日常も、何ひとつ不自由のない上流婦人のもの。それでいて宮は、心だけでなく肉体までも衰えていく一方になる。

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