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2021年12月の記事一覧

大谷翔平 彼の天井は見えない 栗山英樹 100周年記念企画「100年の100人」

メジャーで歴史的な活躍を続ける大谷翔平(27)。日本ハムの監督として二刀流を育てた栗山英樹氏がいま明かす“怪物”との秘話。/文・栗山英樹(元日本ハムファイターズ監督) 栗山氏 翔平とは二度と一緒に野球をやりたくない——。それが僕のいまの正直な気持ちです。 僕は、初めて高校生の彼を見たときから「投打どちらかを無くす選択は絶対にありえない」と考えていました。当時から最高の投手に、そして最高の打者になる可能性を秘めていた。ただ、それだけに僕は、翔平と野球した5年間「この才能を

藤井聡太 一瞬で見抜く少年 杉本昌隆 100周年記念企画「100年の100人」

史上最年少で四冠を達成した藤井聡太竜王(19)。師匠の杉本昌隆氏は、およそ10年前、その才能を目の当たりにした。/文・杉本昌隆(将棋棋士・八段) 杉本氏 10年ひと昔と言われるが、時の流れが速い現代なら「ひと昔」は5年ぐらいか。感じ方は人それぞれだが、昨日のように鮮明に思いだす10年もあるものだ。 あれは2010年のこと。将棋を本格的に学びたい少年少女が集う東海研修会、幹事の私は新しく入会してきた小学1年生の聡太少年と出会った。彼の将棋を見てすぐに分かった。外見こそまだ

大坂なおみ 「ジョークよ、ジョーク!」 内田暁 100周年記念企画「100年の100人」

4度のグランドスラム優勝に、社会的な発信力。日本人の母とハイチ系アメリカ人の父を持つ大坂なおみ(24)は今や多様性の象徴と言える。フリーライターの内田暁氏が、7年前のインタビューを回想する。/文・内田暁(フリーライター) 「私のお母さんは、スピードスケートのトップ選手だったの」 そう聞かされて「そうなの!?」と驚くこちらの反応に、彼女は慌てて「ジョークよ、ジョーク!」と前言撤回した。日本のメディアから取材を受ける機会は、まだ少なかった時分だったろう。たどたどしい英語で質問

川口淳一郎 はやぶさを救った悔し涙 的川泰宣 100周年記念企画「100年の100人」

2003年に打ち上げられ、7年越しに地球へ帰還した探査機「はやぶさ」。小惑星に着陸しサンプルを持ち帰るプロジェクトを世界で初めて成功に導いた川口淳一郎(66)の功績を、チームでともに闘った的川泰宣氏が語る。/文・的川泰宣(JAXA名誉教授) 的川氏 宇宙科学研究所に入ってきた川口くんに初めて会ったときは、「ちょっと神経質そうだな」という印象でした。実際に一緒に研究をするようになると、すぐ彼が大変優秀だとわかった。しかも相当な負けず嫌い。自分にも他人にも厳しかった。 けれ

上野由岐子 金属バットをへし折った 宇津木妙子 100周年記念企画「100年の100人」

東京五輪で金メダルを獲得したソフトボール日本代表の絶対的エース、上野由岐子(39)。元日本代表監督の宇津木妙子氏が、出会いから今日までをふり返る。/文・宇津木妙子(元ソフトボール日本代表監督) 宇津木氏 上野由岐子投手との出会いは、彼女が高校3年生の時に遡る。もともとはその1年前、シドニー五輪の日本代表選手に抜擢すべくスカウトに行く予定だったが、前日に体育の走り高跳びで腰の骨を折る重傷を負い、高校への訪問は中止に。代表入りも断念せざるを得ない事態となったが、上野の身体能力

浅田真央 ソチ五輪での激励メール 小塚崇彦 100周年記念企画「100年の100人」

フィギュアスケート女子の浅田真央(31)は、金メダルを狙ったソチ五輪で初日16位と出遅れたが、翌日には会心の演技を見せて6位に入賞し、感動を呼んだ。元フィギュアスケート選手の小塚崇彦氏が語る。/文・小塚崇彦(元フィギュアスケート選手) 小塚さん 初めて会ったのは、確か僕が小学2年生、真央が5~6歳の頃です。たまに同じスケートリンクで練習することがあり、母親同士が仲良くなったのがきっかけでした。小さな頃から真央の練習にかける情熱や探求心は人一倍で、僕も刺激を受けました。地元

澤穂希 レジェンドは不言実行 佐々木則夫 100周年記念企画「100年の100人」

日本女子サッカー界が誇るレジェンド・澤穂希(43)。その記録と記憶は、現役引退後も多くの人の心に深く刻まれている。元日本女子代表監督の佐々木則夫氏が語る。/文・佐々木則夫(元サッカー日本女子代表監督) 佐々木氏 澤穂希は間違いなく日本女子サッカー界の“顔”でありレジェンドですが、実は突出したテクニックがあるわけではありません。堅実なプレーはもちろん上手ですが、技術だけで言えば、もっとうまい選手もいます。けれど彼女には誰よりもボールを奪取する力というか、ゴールを奪う嗅覚があ

桑田佳祐 ボウリングで復活 矢島純一 100周年記念企画「100年の100人」

2010年、54歳の時に食道がんの手術を受けた桑田佳祐(65)。彼の復活の裏には、少年時代から続く「ボウリング愛」があった。交友を続ける矢島純一プロが語る。/文・矢島純一(プロボウラー) 矢島さん 50年近く前のことです。パシフィックホテル茅ヶ崎にボウリング場が併設されていて、そこに通っていた桑田さんのお父さんと知り合いになったんです。佳祐くんはまだ中学生か高校生だったのですが、お父さんに連れられて来ていました。 それからまた、二十数年前のことです。六本木のジャズクラブ

森英恵 赤ワイン一杯と少しの牛肉 森泉 100周年記念企画「100年の100人」

ファッションデザイナー・森英恵(95)は1977年に東洋人として初めてパリ・オートクチュール組合に加盟し、2004年の引退までパリでオートクチュールコレクションを発表した。孫でモデル・タレントの森泉氏が、その素顔を語る。/文・森泉(モデル・タレント) 森泉さん 物心ついた頃から「ママモリ」と呼んでいます。私は5人きょうだいで喧嘩も多かったのですが、そんな時は同じ屋根の下で暮らすママモリに話を聞いてもらっていました。どちら側にもつかずに喧嘩を収めてしまう、森家みんなのママな

金子みすゞ 26歳で逝った幻の童謡詩人 矢崎節夫 100周年記念企画「100年の100人」

今では誰もが口ずさむ、金子みすゞ(1903~1930)の詩。没後、長らく作品は埋もれていたが、童謡詩人の矢崎節夫氏の手によって現代に蘇った。/文・矢崎節夫(金子みすゞ記念館館長) 大漁 金子みすゞ 朝焼小焼だ 大漁だ 大羽鰮の 大漁だ。 浜は祭の ようだけど 海のなかでは 何万の 鰮のとむらい するだろう。 大学1年の時、岩波文庫の『日本童謡集』で『大漁』を読み、強い衝撃を受けた。もっと読みたいと思ったが、金子みすゞの作品と生涯は童謡を愛する人々の間で幻の童謡詩人と語

武豊 還暦で5000勝宣言 片山良三 100周年記念企画「100年の100人」

史上最多の4310勝(11月21日時点)を誇る武豊(52)。2位岡部幸雄騎手の2943勝という数字をみると、驚異的なペースで勝ってきたことがよくわかる。デビューから取材をつづける競馬ジャーナリストの片山良三氏が上昇志向の原点を明かす。/文・片山良三(競馬ジャーナリスト) 「家ではオカンに叱られてばかり」の父・武邦彦は、外に出ると誰からも尊敬を集める存在だった。その父のカッコ良さに憧れて、騎手になると決めたのが10歳のときだ。身近なお手本をなぞることでジョッキーとしての正しい

小澤征爾 名演は人柄が作る 堤剛 100周年記念企画「100年の100人」

「世界のオザワ」として知られるカリスマ指揮者・小澤征爾(86)。同じく世界で活躍するチェロ奏者の堤剛氏が、“盟友”小澤との思い出を語った。/文・堤剛(チェリスト) 堤さん Ⓒ鍋島徳恭 小澤征爾さんは桐朋学園音楽科の1期生で私は7期。少し年齢が離れてはいるものの、ともに桐朋学園オーケストラで、齋藤秀雄先生の指導を受けていたという間柄です。 齋藤先生の指導は誰もが縮み上がるほど厳しいのですが、当時からやんちゃだった小澤さんと私は叱られる頻度で他を圧倒していました。 のちに

山田太一 二流と三流の違いとは 中井貴一 100周年記念企画「100年の100人」

数々の名作ドラマを手がけた脚本家・山田太一(87)。人気シリーズとなった「ふぞろいの林檎たち」で主人公を演じた中井貴一氏が山田作品の魅力を語る。/文・中井貴一(俳優) 中井さん 「ふぞろい」は、時任三郎さん、柳沢慎吾さん、手塚理美さん、石原真理子さん、中島唱子さんなどが演じる若者たちの群像劇でした。台本には小説のように読める「読み本」と役者が演じて面白い「演り本」があります。 山田先生の脚本は「演り本」ですから、撮影中に実際芝居をしながら「あ、こうなるんだ」と驚くことが

高峰秀子 大女優が書いた2時間ドラマ 石井ふく子 100周年記念企画「100年の100人」

エッセイの名手としても知られた女優の高峰秀子(1924~2010)は、生涯に1本だけ脚本を書いている。それは、テレビプロデューサー石井ふく子氏の母をモデルにしたテレビドラマだった。/文・石井ふく子(テレビプロデューサー) 石井さん この写真(左下)は、私の母の葬儀のときのものです。高峰秀子さんと母は「かあちゃん」「秀ちゃん」と呼び合う仲で、私より親娘のようでした。昭和51年に母が亡くなったときはすぐに病院へ駆けつけてずっと付き添ってくださり、葬儀では位牌を持ってくだすった