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#オヤジとおふくろ

ちらし鮨 阿刀田高

著名人が母親との思い出を回顧します。今回の語り手は、阿刀田高さん(作家)です。 ちらし鮨母には孝行らしい孝行をなにもしなかった。人生を省みて痛恨の極みである。 母はこよなく私を愛してくれた。なによりも大切と考えていただろう。ベタベタとかわいがるのではなく、深く愛し、期待し、幸福を願ってくれていたにちがいない。私は5人兄姉の末っ子。高校2年のときに父を失い、兄姉たちはおおむね家を去り、私は大学の文学部に進んだものの、2年生のときに肺結核にかかり、入院生活を余儀なくされていた

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三方善し 田原総一朗

著名人が父親との思い出を回顧します。今回の語り手は、田原総一朗さん(ジャーナリスト)です。 三方善しオヤジを表す言葉は、優しい、お人よし、能天気……。僕が楽天的なのは、明らかにオヤジの遺伝だと思う。逆に、おふくろは、すごく厳しい人だった。僕とオヤジの2人が、いつもおふくろから怒られていたものだ。 小学校の時、授業中に窓の外を見ると、なぜかオヤジが立っていたことがあった。オヤジは外から窓をあけ、私に向かって「映画を観にいこう」と。そのまま授業をさぼって、2人で映画を観にいっ

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名古屋の実家 フィフィ

著名人が父親との思い出を回顧します。今回の語り手は、フィフィさん(タレント)です。 名古屋の実家数ヶ月前、名古屋の実家を売った。私たち家族が30年以上住んだ家。母はエジプトと日本を行ったり来たりの生活だったので、最後は父だけが独りで住んでいる状態だった。 その父も6年前に他界して、それからはほとんど誰も使っていない状態だった。ただ、外国人が所有している不動産を売る時は、日本の法律ではなく、所有者の国籍の法律に合わせなければいけなくて、これが司法書士さんを苦労させた。エジプ

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文化大革命で見た姿 毛丹青

著名人が母親との思い出を回顧します。今回の語り手は、毛丹青さん(作家・神戸国際大学教授)です。 文化大革命で見た姿2020年4月8日、北京に住む母、劉志琴が病気のため死去した。その頃、新型コロナの世界的な感染拡大が始まり、日本と中国を結ぶ飛行機や客船は全面停止に。私は中国に渡れず、母の最期を看取ることが出来なかった。 最後の会話は亡くなる2週間前。携帯電話のテレビ通話を通してのものだった。通話の最後に、母は私に「你好、我就放心了」と。あなたが元気なら、私は安心です。それが

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平行線 IKKO

著名人が父親との思い出を回顧します。今回の語り手は、IKKOさん(美容家・タレント)です。 平行線私は1962年、福岡県で生まれました。当時は戦後の高度成長期で日本が沸き立つなか、東京と地方には10年の差があると言われていた。そのような時代において父は「男は男らしく、女は女らしく」という考えを持った、典型的な昭和のオヤジだった気がします。 親戚が女の子ばかりのなか、ようやく生まれた男の子。父はもちろん、祖父も大喜びだったようです。父は私の物心がつきはじめると、「野球に行く

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フラットに、淡々と 為末大

著名人が母親との思い出を回顧します。今回の語り手は、為末大さん(為末大学学長・元陸上選手)です。 フラットに、淡々と「これをしなさい」「あれをしなさい」と細かく指示するタイプではありませんでした。教育方針がなかったんだと思います。一つだけ言うとすれば、「なにか運動はしてほしい」くらい。 母は僕のすることを、いつも黙って見守ってくれていました。僕の人生の岐路において、アドバイスすることもなければ、応援することもなかった。高校・大学の進路は相談しませんでしたし、会社を辞めるの

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トランクの中|髙樹のぶ子

著名人が父親との思い出を回顧します。今回の語り手は、髙樹のぶ子さん(作家)です。 トランクの中あと数年で、父が死んで50年になる。 父が旅立つ夜、葉書を書いていたが、宛名は白紙だった。いつもの金釘文字が少し乱れていた。死の数時間前なのは確か。 思い返すとき、娘は良い記憶ばかりを収集する一方で、思い出したくない事を、暗いトランクに詰め込む。このトランクを開ければ、とんでもないものが噴出しそうなので、そっと鍵をかけたままにしている。 このトランクの中では、戦争や特攻隊の生

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母のこと|ちばてつや

著名人が母親との思い出を回顧します。今回の語り手は、ちばてつやさん(漫画家)です。 母のこととにかく厳しい人でした。 そして「漫画」が大嫌いで、我が家には童話や世界文学全集など図書館みたいにどっさり揃っていたのにマンガ本は1冊もありませんでした。食べるとベロが染料で真っ赤に染まる、昔の駄菓子に近い感覚で見ていたのだと思います。子供たちは大好きで夢中になって欲しがるけど、身体には良くなさそうだと。 小学校に通い始めた2年生の秋。杉浦茂さんの「魔法のランプ」の豆本を道でたま

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宿敵|田中慎弥

著名人が母親との思い出を回顧します。今回の語り手は、田中慎弥さん(作家)です。 宿敵いまに至るまで、母は私の小説を、なんだか難しい、よく分らない、と言うばかりで一度も誉めたことがない。考えてみれば、難しい、というのはいわゆる純文学に対する世間一般の、感想でもあり批判でもあるだろう。母はそういう、世間一般の人間だ。ごく若い頃から世の中に出て、真面目に、まともに働き、自分の人生を作り上げてきた。その母から見れば、高校を卒業して以降、進学も就職もせずにぶらぶらし、親の金で本を買っ

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印象的な父の姿|小島よしお

著名人が父親との思い出を回顧します。今回の語り手は、小島よしお(お笑いタレント)です。 印象的な父の姿久しぶりに実家に帰って当時の父の選挙ポスターを見て驚いた。 父はまだ35歳だった。今の自分の5つも下。ポスターの父の満面の笑み。 そういえば、思い出す父の顔はいつも笑っている気がする。 父は国会議員選挙に計6回立候補しているが全て落選している。言葉にするとあっけないけど毎回相当な労力があったと思う。母が僕を里帰り出産(久米島)したのも選挙運動が忙しい影響だ。ストレスか

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2つの祖国|冨山和彦「私の父、冨山久二は昭和6年に和歌山からの日系移民2世としてカナダ、バンクーバーに生まれた」

著名人が父親との思い出を回顧します。今回の語り手は、冨山和彦(経営共創基盤グループ会長)です。 2つの祖国 私の父、冨山久二は昭和6年に和歌山からの日系移民2世としてカナダ、バンクーバーに生まれた。やがて日本と米英両国の関係が悪化する中、昭和16年の夏、10歳の時に家族とともに日本に戻っている。 戦後、父は神戸大学を卒業して名門商社、江商に就職する。単身での海外勤務が多かった父と長く一緒に過ごす最初の機会が、昭和41年、西オーストラリアのパースに家族で駐在したときのこと。

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自分のことは自分で|谷川俊太郎

著名人が母親との思い出を回顧します。今回の語り手は、谷川俊太郎さん(詩人)です。 自分のことは自分で母をおふくろと呼んだことはない。友人との会話で呼んだことはあったが、どこか不自然だった。ずっとお母さんと呼んでいて、変わったのは私に子どもが生まれてからで、それから母はおばあちゃんになった。 一人っ子だったせいもあって母との結びつきは強かったが、私がそれを意識したのは、20代のはじめに結婚してからだ。私が子ども時代と同じに当然のように母と風呂に入るのを、妻がひどく嫌がったの

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父との距離感|杉山愛

著名人が父親との思い出を回顧します。今回の語り手は、杉山愛(元プロテニスプレーヤー)です。 父との距離感私は、母よりも父に似ている。 母は発想や行動が柔軟なタイプで、新しいこともすぐにキャッチアップして自分のものにしてしまう人だ。常に前へ前へ行こうという、大きなエネルギーに満ち溢れている。一方の父は真面目にコツコツと頑張るタイプ。現在は引退しているが、父は歯科医だった。自身の歯科医院を開業後も専門知識の勉強を絶やさず、医師向けの講習を受けにいったりしていた。常に自分を磨い

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私の応援団長|はな

著名人が母親との思い出を回顧します。今回の語り手は、はなさん(タレント・モデル)です。 私の応援団長5人姉妹の4番目に産まれた母。父親が中国人、母親が日本人のハーフで、子供の頃は「中華街の美人5人姉妹」と呼ばれていたそう。娘の私から見ても、おばも母もみんな美人でスタイル抜群。今年74歳になる母は週3回、近所のバレエ教室に通っています。トウシューズを履いてクルクルと回っている動画を見せてくれたり、実家に帰ると180度の開脚スタイルで迎えてくれる母は、いくつになっても元気で陽気

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