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トランクの中|髙樹のぶ子

トランクの中|髙樹のぶ子

著名人が父親との思い出を回顧します。今回の語り手は、髙樹のぶ子さん(作家)です。 トランクの中あと数年で、父が死んで50年になる。 父が旅立つ夜、葉書を書いていたが、宛名は白紙だった。いつもの金釘文字が少し乱れていた。死の数時間前なのは確か。 思い返すとき、娘は良い記憶ばかりを収集する一方で、思い出したくない事を、暗いトランクに詰め込む。このトランクを開ければ、とんでもないものが噴出しそうなので、そっと鍵をかけたままにしている。 このトランクの中では、戦争や特攻隊の生

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川の流れと人の世は|髙樹のぶ子

川の流れと人の世は|髙樹のぶ子

文・髙樹のぶ子(作家) 私の祖父は農作業をしていて、茅か何かで目を傷付けたあとの手当が悪かったのか、片目を摘出し隻眼の人となった。けれどいつも、遠くを見ていた。たとえば千年の古(いにしえ)を。 我が家の田畑に沿って南北に流れ下る小川を、平安時代の周防国の国衙(こくが)跡の東の境界だと言い張り、なぜかと問えば、小川が真っ直ぐ南まで下って、直角に曲がっているからだと説明した。 川は大がかりに人手が加わらなくては、直角になど曲がらないものなんだ。 拙著「マイマイ新子」の書き

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