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なぜ目黒にヱビスビールの工場が降ってきたのか|門井慶喜「この東京のかたち」#24

★前回の話はこちら。
※本連載は第24回です。最初から読む方はこちら。

 目黒といえば目黒不動門前〔桐屋〕の黒飴。これはもう『鬼平犯科帳』ファンには常識だろう。じつはこの黒飴は半実在した。

「半実在」などと言うと何やら意味ありげだけれども、かの徳川後期に刊行された『江戸名所図会』にもちゃんと記事や挿絵が……などと、私もファンであるからして、ついつい身をのりだしてしまう。

 おのずから説明も急ぎ足になる。ここはいったん落ちついて、まずは『鬼平犯科帳』の復習から。

『鬼平犯科帳』は池波正太郎による時代小説シリーズである。昭和42年(1967)から20年余にわたって「オール讀物」に連載され、作者の死により中断されたが、いまも全24巻の文庫版(文春文庫)で手軽に読める。電子版の合本もある。

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池波正太郎氏

 中村吉右衛門主演のテレビドラマを見た人も多いだろう。主人公の長谷川平蔵は火付盗賊改方という一種の特別警察の長官で(この「長官」はぜひ「おかしら」とルビをつけたい)、その捜査の有能さから、江戸の街に暗躍する盗賊どもに、

 ――鬼の平蔵。

 という異名をたてまつられている。

 その略称がつまり「鬼平」というわけだが、この鬼の奥方である久栄(ひさえ)さんがまた凛然としていて、読者にファンが多いのだ。

 ドラマでは多岐川裕美が好演した。夫の仕事へ口出ししたりはせず、あくまでも手料理をつくるとか、話し相手になるとかの後方支援しかしないのだが、それでいて家中(かちゅう)ではたらく奉公人はもとより、夫の配下の与力や同心までもがおのずから心服してしまう。長男の長谷川辰蔵など、父よりも、

「おふくろさまのほうがおそろしい」

 とまで言うほどで、その彼女にしてからが、

「あの飴を口にすると、何やら幼い日の事どもが、おもい出されてなりませぬ」

 顔をほころばせる。それが〔桐屋〕の黒飴なのだ。

 そんなわけで同心たちも、鬼の平蔵も、市中巡回などで目黒不動へ行く用があるおりには〔桐屋〕へ立ち寄り、おみやげに一袋をお買い上げとあいなる。久栄はよろこぶ。読者はそこに、息づまるような捕物の日々における心あたたまるワンシーンを見ることになるのだ。

 この黒飴が「半実在」したと冒頭で言ったのは、まず〔桐屋〕そのものは実在した。目黒不動門前のおみやげ屋としてよほど有名だったらしく、徳川後期に刊行された名所案内本『江戸名所図会』にも記事や挿絵が掲載されていることは、これまた前述のとおりである。

 ただしその「目黒不動堂」の項より、当該部分を現代語に訳して引用すれば、

   この地ははるかに江戸府内を離れるけれども、参詣者は絶えぬ。ことに1月、5月、9月の28日などは前日から終夜にぎわっている。(中略)門前は5、6町にわたって道の左右に店が軒をならべている。粟餅、飴、および餅花のたぐいを売る店が多い。

 つまり「飴」としか書いてない(この引用はこれから何度か言及します)。しかも挿絵をよく見ると、〔桐屋〕の店の奥には長い台があり、何本もの棒状の飴が置かれている。

 それをチョンチョンと切って店頭に盛り、袋に入れて売っているらしい。飴にはどういう模様もなく、黒く塗りつぶされておらず、つまりは白の表現である。

〔桐屋〕の黒飴は、じつは白飴だったのだ。半実在とした所以(ゆえん)である。もちろん作者の池波正太郎はこういう史実を知った上で、あえて創作をほどこしたわけだ。

 この創作は、同業者として、まことにたくみと言うしかない。「目黒の黒飴」と同義反復ぎみの設定にしたことで語調もよくなるし、味の様子もはっきりするし、何より名物というものの俗っ気というか、大衆性があらわになる。さながら東京名物「東京ばな奈」みたいなものである。ちょっとちがうか。どうだろう。もっとも、逆のほうから見れば、この目黒の名物は、いじりやすいということでもあるのだが。

 すなわち、改変の手を加えやすい。なぜならもともと江戸時代においても、飴などというのは、水飴と火と職人があればどこでも作れるしどこでも売れる、そういうものだったからだ。

 目黒という土地のどんな地勢的特徴をも前提としていない。どんな地場産業にも立脚していない。飴とはつまり、いってみれば、本籍がない商品なのである。こんにちの選挙になぞらえていうなら落下傘候補。その土地にどういう地縁も血縁もない、とつぜん降ってきた候補者。

 これがもしも伏見の酒とか、桑名の焼きはまぐりなどのような、その土地の特徴に完全に依存している商品だったとしたらどうだろう。

 伏見では良質の地下水が得られたし(だから酒が良質になる)、桑名には大きな干潟があった(だから大粒のはまぐりが取れる)。さすがの池波正太郎でも白を黒にするのはむつかしかったのではないか。鬼平の奥方の久栄さんは、史実どおりに白飴を口にするほかなかった。

 しかしそれならば、地縁も血縁もないならば、どうして〔桐屋〕の飴はそんなに有名になったのか。これへの答はかんたんで、目黒不動そのものが落下傘だったのだ。

 目黒不動は、正式には泰叡山滝泉(りゅうせん)寺という。

 平安時代の大同3年(808)、天台宗の高僧・円仁が旅の途中でこの地にとどまり、不動明王を夢に見たという寺伝があるけれども、まあ寺伝である。こんにちの隆盛はまず江戸幕府三代将軍・徳川家光の帰依にはじまると見ていいだろう(ついでながら「滝」というのは正字は「瀧」、音(おん)ではロウ、ソウなどと読み、ふつうリュウとは読まない)。

 或る日、家光がこのへんで鷹狩りをしたところ、愛鷹がどこかへ飛んでいってしまった。それをこの寺の住職がみごと祈祷により帰って来させたところから家光の帰依がはじまったとか。

 なるほど円仁の場合とは異なり、こちらのほうは、それに類する事実もあったのかもしれない。しかしながらいくら何でも天下の将軍ともあろう者がたかだか鷹一羽のために寺ひとつに金をつぎこんで江戸随一の不動堂にまでしたというのは考えにくいから、察するに、家光には、べつの意図があったのではないか。この目黒という何もない江戸城の南西の郊外の地に、

 ――庶民信仰の場を、ひとつ作ろう。

 そんな意図が。

 庶民信仰というと何やらご大層だけれども、要するに娯楽の提供。その意味において、目黒不動というところは、日本初の観光地といえるかもしれない。観光地だから、その後の発展も、おのずから俗っ気とともにあることになる。

 何しろ先ほどの『江戸名所図会』の引用からも察せられるとおり、1月、5月、9月の28日には縁日が立って大にぎわいだったし(現在は毎月)、そうでない日も参道ではたくさんの店が客をむかえた。

 その距離は、やはり先ほどの引用に「5、6町にわたって」とあるから、だいたい500~600メートル。当時としては異例の長さだったろう。ほかにも境内では富くじ(一種の宝くじ)の抽選会がおこなわれ、幕府もそれを認可した。公営ギャンブルとまでは呼べないけれども、それに近いイベントの会場になっていたわけだ。

 もちろん寺の僧たちは至極まじめに勤行していたにちがいないが(現在もそうだろう)、それはそれとして大衆性はふんだんにあった。そうして縁日も、富くじも、やはり飴と同様「どこでもできる」もの。目黒不動という家光の手によって落とされた落下傘観光地がこうした落下傘名物によって有名になるのは、或る意味、当然の帰結というべきだろう。それが目黒にあることは、いわば「たまたま」にすぎないのである。

(ちなみに言う、当時の目黒不動門前では、ほかに「たけのこめし」も有名だった。目黒には竹林が多かったからである。これなどは地勢と関係ありそうに見えるけれども、じつはやはり落下傘だった。近隣の農家が、これまた近隣にあった薩摩藩邸から孟宗竹の株を分けられたのがきっかけなのだ。薩摩藩は中国から輸入したらしい。孟宗竹はたけのこがたいへんおいしい種である反面、繁殖力がつよく、全国どこでも採り得るものだった。)

 とはいえ、観光地は目黒不動だけではない。江戸時代というのはまた名所があちこちへ人為的につくられた時代でもあるので、その例としては、さしあたり第八代将軍・吉宗によって桜の苗木がたくさん植えこまれた北の郊外の飛鳥山、および南の郊外の御殿山あたりを挙げておこう。そうして、それよりもさらに巨視的に見るならば、そもそも江戸という都市自体がもう徳川家康という三河出身の、それこそ地縁も血縁もない究極の落下傘候補によって建設された落下傘首都といえる。

 江戸そのものが「よそ者」なのだ。しかしそのなかでも日本橋や、神田や、上野や、浅草や、本所や深川などがそれなりに地勢を生かし、産業を育ててその土地らしさを身につけていったのに対し、目黒には、目黒らしさはついになかった。

 あくまでも落下傘の落ちどころでありつづけた。幕末に幕府の煙硝蔵(火薬庫)が設けられたのもしかり。その煙硝蔵が維新後、海軍に引き継がれ、目黒火薬製造所となったのもしかり。競馬場もしかり。のちに府中へ移転したが。

 しかし何と言っても存在感があるのはビール工場だ。目黒の地には、明治22年(1889)、日本麦酒醸造会社が巨大な製造工場をこしらえたのだ。

 そこで生み出されたのは「恵比寿麦酒」、こんにちのヱビスビールである。おりからの国内におけるビール需要の高まりを受けて、よほど意気軒昂な出発だったと思われるが、どうして目黒をえらんだのかについては、昭和36年(1961)刊の『目黒区史』ですら、

 工業用水として三田用水を利用することができるという立地条件を買われたにすぎなかった。

 とそっけない。

 醸造会社の出資者にも目黒の人はいなかったらしい。まさしく落下傘工場だった。のちにこの工場が出荷専用の貨物駅をつくるにあたり、駅名をあっさり「恵比寿」としてしまったのも、逆に見れば、元来この地には、それに文句をつけるだけの地名の力がなかったということになる。

 その後もやっぱり抗えず、結局のところ、いまは客扱いもして山手線「恵比寿」駅になっている。商標名が駅名になったというのは東京ではここだけではないか。コラムニストの泉麻人氏は、中学生のころ、慶応義塾中等部への通学のために山手線を使っていた。

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泉麻人氏

 おそらく新宿から乗りこんで、途中、恵比寿の先にさしかかると、ツウンと苦い酵母のにおいがしたとか。昭和40年代のことと思われる。その工場も現在はすっかり取り壊され、恵比寿ガーデンプレイスという複合施設になって久しい。そこには店舗あり、レストランあり、オフィスあり、美術館あり、毎月いろいろのイベントあり……目黒不動の現代版ともいえる。

 江戸・東京の中心地から遠くもなく近くもなく、したがって都会にも農村にも宿場町にもなることができず、良質の地下水もなければ干潟もない、そのくせ人が来やすい目黒には、こういう便利屋になることが唯一の生きる道だったのだ。

 私は以前、やはり東京の便利屋的な街として日比谷を挙げたことがある。

 だがあれは皇居前の一等地で、そこに建ったのも鹿鳴館や、国会議事堂や、帝国ホテルのような施設だった。

 こちらは郊外。それが土地柄の差になった。目黒という街はあるいは日比谷を俗にくずしたものと見れば理解しやすいのかもしれず、さらに言えば「日比谷-国家=目黒」という数式も成り立つのかもしれない。国家の色が薄いぶん、大衆の色が濃いわけだ。

(連載第24回)

■門井慶喜(かどい・よしのぶ)
1971年群馬県生まれ。同志社大学文学部卒業。2003年「キッドナッパーズ」でオール讀物推理小説新人賞を受賞しデビュー。08年『人形の部屋』、09年『パラドックス実践』で日本推理作家協会賞候補、15年『東京帝大叡古教授』、16年『家康、江戸を建てる』で直木賞候補になる。16年『マジカル・ヒストリー・ツアー』で日本推理作家協会賞(評論その他の部門)、18年『銀河鉄道の父』で直木賞受賞。その他の著書に『定価のない本』『新選組の料理人』『屋根をかける人』『ゆけ、おりょう』『注文の多い美術館 美術探偵・神永美有』『こちら警視庁美術犯罪捜査班』『かまさん』『シュンスケ!』など。
新刊に、東京駅を建てた建築家・辰野金吾をモデルに、江戸から東京へと移り変わる首都の姿を描いた小説『東京、はじまる』。
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