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藤原正彦 的外れにつぐ的外れ 古風堂々39

文・藤原正彦(作家・数学者)

私がイギリスにいた頃、教えていたケンブリッジ大学クイーンズカレッジの学長をしていた地球物理学者が、私の帰国後10年ほどして我が家を訪れた。彼は学長を退いた後、爵位を授かり上院議員として政府の科学技術政策に携わっていた。夕食後の団欒の中で彼が、「イギリスでは若者たちの理数離れがひどい。読書離れも進んでいる。原因についてはいろいろ言われているが、マサヒコ、真の原因はいったい何だろうか」と深刻な顔で私に訊いた。「我慢力の欠如」と即答した。数学の問題は粘り強く考え続けないと解けないし、本を読むにも、テレビやインターネットなどに比べ忍耐が必要だからだ。彼はハッとしたようにしばらく黙ってから、2度ゆっくりとうなずいた。

教育とは人間を作るものだから、教育改革こそがすべての社会改革の原点となるべきなのは自明である。ところが困難の本質が何なのか容易に見えないから、何をどう改革したらよいのか分からない。ほとんどの国で教育改革がうまく行かない所以だ。教育に関してズブの素人はいない。自らが何年も教育を受け、子供にも教育を受けさせたりしているから誰でも一家言ある。「親が悪い」「先生の質が落ちた」「文科省が悪い」「社会が悪い」「時代が悪い」……などと言う。すべてある真理を含んでいるがこれでは具体策にはつながらない。

専門家も同様だ。ここ30年ほどを振り返っても、「ゆとり教育」「人権教育」「個を育てる」「グローバル人材」「自主性や創造性を育む」「生きる力」「指導でなく支援」「勉強や学習でなく学び」「新しい学力観」「フィンランド教育」などの処方箋が唱和された。こんな言葉遊びをしていたから、2000年頃まで、恐らく江戸初期の頃から、ずっとダントツに世界一だった日本人の基礎学力は著しく低下してしまった。

先日の新聞に「小中高で起業家精神」とあった。起業に成功した人をよんで起業の仕方や素晴らしさを啓発したりするという。米英に比べ起業する人間が少ないという理由かららしい。米英人の基礎学力の低さは目を覆うばかりなのに、なぜ米英の教育を真似るのだろうか。アメリカの大学には½+⅓=⅖と答える学生さえいた(長い金髪の美少女、マーシャ)。日本人の私が、学生達のレポートのひどい英語を添削していたほどだった。海軍新兵の25%が武器の取扱書を読めないと大騒ぎになっていた。イギリスでも、4人に1人が-2度と-10度のどちらが寒いか分からないという統計がある。

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