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美智子さまと緒方貞子さんの「絆」

10月29日に営まれた緒方貞子さんの葬儀には、美智子さまがお忍びで来られたという。一民間人の葬儀場に足を運ばれるのは異例である。実は2人の間には深い絆があった。「サダ」「ミチ」と呼び合った“真の友人”の物語がここにある。/文・奥野修司(ノンフィクションライター)

異例の弔問

 女性初の国連難民高等弁務官を務めた緒方貞子さんが亡くなった。92歳だった。葬儀は糠雨が降る10月29日、東京・大田区のカトリック田園調布教会で営まれたが、「うちうちに」というのに150人ちかい人が弔問に集まり、美智子上皇后もお忍びで来られたという。

 葬儀に参列した人物が言う。

「葬儀が始まる30分ほど前でしょうか。上皇后さまが弔問に訪れました。特別扱いをしないで欲しいというご希望だったそうで、最初に棺の中の緒方さんとお別れなさいました。時間はほんの10分ほどです。じっと見つめられていました。お立場上、他の方もいる中で感情をあらわすのは難しかったのでしょうが、涙ぐんでいるようにも見えました」

 この教会は、5年前に亡くなった日本銀行元理事の夫・四十郎と挙式した場所でもあり、クリスチャンでもあった緒方が日曜日のミサにやってくる場所でもあった。

 それにしても、皇后から上皇后になったとはいえ、偲ぶ会のようなものでなく、一民間人の葬儀場に足を運ばれるのは異例である。ここ数年では、2017年に亡くなった元国際児童図書評議会(IBBY)会長の島多代ぐらいだろうか。

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 上皇后と緒方は聖心女子学院の先輩と後輩という関係だけでない。緒方の方が7歳年上にもかかわらず、「サダ」「ミチ」と呼び合い、上皇后が皇室に嫁がれた後も交流が続いていた。そのことをうかがわせる発言がいくつかある。たとえば、平成4年(1992年)の〈皇后陛下のお誕生日に際し〉で、「この1年で印象深かったことは何ですか」と問われた美智子皇后(当時)は、「緒方貞子さんの難民高等弁務官のお仕事」と、個人名を挙げて回答している。

 前年に国連難民高等弁務官に就任したが、その直後に湾岸戦争が勃発してクルド人難民の保護にイラクへ向かい、この年にはボスニア紛争の現場へ飛んだ。小さな体で戦場を駆ける姿が世界に喧伝されたからだろうか。オリンピックなどを差し置いて冒頭で述べるあたり、上皇后の喜びが伝わってくる。また、緒方がお茶の水女子大学名誉博士称号を授与されたときのレセプション(2002年)にも、スウェーデン政府から勲章を授与された時も、上皇后自らが臨席され、わがことのように喜ばれた。一方の緒方も、上皇后との関係についてこう綴っている。

使用_2001042200076緒方貞子と美智子さま_トリミング済み

スウェーデン国王から授与された勲章を見せる

〈ご結婚後は、国際的行事や会合にお出ましになる際、またプライベートにも時折お目にかかっております。私が国連難民高等弁務官を務めていたときは、帰国するたびに報告に上がりましたが、難民やその地域について、恐らく日本で一番ご理解をいただいていると申しても過言ではないでしょう〉(『文藝春秋』03年11月号)

 こうしたエピソードからも、ただ親しかったというだけでは収まり切れない結びつきを感じる。「5フィートの小さな巨人」と言われた緒方と、皇室のイメージを大きく変えた美智子上皇后は、いかにして強い絆を培われたのだろうか。

日中戦争の記憶

 昭和2年、外交官の中村豊一と妻・恒子の間に生まれた長女は、母方の曽祖父・犬養毅によって貞子と命名された。犬養は、昭和7年、5・15事件で暗殺された首相である。

 緒方が3歳になる直前、父の豊一がサンフランシスコの日本国総領事館に赴任することになって、一緒にアメリカへ渡る。アメリカでは8歳まで過ごした後、父の転勤で中国へと向かった。父が広東総領事に就任した頃だろうか、こんな出来事があったという。

〈上海で寄港した時に、父の友人が会いに来てくださって、『北で大きい事件が起こりましたね』とおっしゃったのを憶えています。日中戦争というものが、最初に私の意識に入ったのはそれです〉(『戦争が終わらないこの世界で』)

 盧溝橋事件だった。総領事館の公邸に住んでいたとはいえ、日中戦争が泥沼化していくのを、子供心にどう感じたのだろうか。

 緒方が中国から帰国したのは小学校5年生の時だった。帰国して聖心女子学院に入学したが、数年後には太平洋戦争が始まり、緒方も勤労動員にかり出されている。だが戦況は悪化するばかりで、昭和20年3月の東京大空襲では逃げまどった。

 この年に聖心女子学院を卒業すると、家族と共に軽井沢へ疎開。終戦の詔勅を聞いたのは軽井沢の別荘だ。緒方は17歳だった。

 同じころ、当時の正田美智子も戦火を逃れて軽井沢に疎開し、軽井沢第一国民学校に転入した。当時は子供達と群れて遊ぶより、読書に夢中だったというから、おそらく2人は出会うことはなかっただろう。

テニスが2人を結びつけた

 戦争が終わって東京に戻った緒方は聖心の専門学校に入った。7歳下の正田美智子は昭和22年に雙葉小学校から聖心女子学院中等科へ入学。2人は先輩と後輩の関係になったが、「サダ」「ミチ」と呼び合うようになったのはいつからだろう。戦争が終わると、緒方も美智子も軽井沢へやってきてはテニスに夢中になっていて、このテニスが2人を結びつけたと緒方は書いている。

〈皇后陛下がまだ高校生でいらした頃、軽井沢のコートでテニスをしていらしたのをよく存じ上げているのです。私自身、かつては大の運動好きのお転婆な女学生で、高校から大学にかけてはテニス三昧。その後も、軽井沢滞在中にお天気がいいとなればすぐにコートに繰り出すというあんばいでしたから、活発にコートを駆け回る女学生の美智子様に、たいそう共感を覚えたものです〉(前出『文藝春秋』)

 昭和23年に聖心女子大学ができると、緒方はその1期生として入学する。1期下の後輩で緒方と親しかった澤田正子はいう。

「聖心の運動会で足の速い方がいらっしゃると思ったら美智子さまでした。サダも運動神経がよくて、私と一緒にテニス部を立ち上げました。ローラーで土を均すところから始めたんですよ。でも戦争が終わってすぐですから、テニスボールもシューズもなくて、2、3人しかいないから試合にはなりませんでした」

 初代学長は、緒方の生き方に大きな影響を与えた「マザー・ブリット」である。名前はエリザベス・ブリット。彼女について緒方は〈これから女性がどうあるべきか、そのためにどんな教育をすべきかについて明確なヴィジョンをお持ちで、私も大きな影響をうけました。私がカトリック教徒になりましたのも、彼女の存在に負うところが大きかったと思います〉(『聞き書 緒方貞子回顧録』)と述べている。緒方の洗礼名は「マリア・エリザベス」だそうだが、マザー・ブリットの名であるエリザベスがつけられたのは偶然だろうか。

 マザー・ブリットが学生達にどんなことを語りかけたのか、いくつかその言葉を引用してみる。

「自立しなさい! 知的でありなさい! 協力的でありなさい!」

「鍋の底を磨くだけの女性になってはいけない」

「社会のどんな場所でも、その場に灯を掲げる女性になりなさい」

「自分ができることをしようとしないのは罪なのだ」とも語った。昭和20年代という時代背景を考えると、かなり刺激的で先取的な教えだ。

岡義武の門を叩く

 もう1つの転機は、選挙で学生自治会長に選ばれたことだ。全学年の自治会長になることで、マザー・ブリットからリーダーシップを学ぶことを期待されたのだ。そんな期待に、緒方は十分に応えたのだろう。緒方に対し、聖心女子大の後輩である鈴木秀子は「当時のマザー・ブリット学長は後に、『私が教えた生き方の神髄を徹底して実践してくれた人』と、とても称えられていました」という。

 そんな緒方は、当時の学生たちから憧憬の的だったようだ。

「美智子さまは聖心の先輩でもある緒方さんに憧れて、同じ英文科に進学し、のちに緒方さんが務めた学生自治会の会長に選ばれています」(聖心女子大学関係者)

 昭和26年、緒方は聖心女子大学を卒業すると、アメリカのジョージタウン大学に留学する。大学院で国際関係論を学ぶのが目的だったそうだが、この大学は自分で積極的に選んだのではないというから、研究テーマもはっきりしたものではなかった。ただ、当時の学生の多くが、なぜ日本はあの戦争に突入してしまったのかと悔いたように、敗戦の記憶が残っていた緒方は、とてつもなく豊かなアメリカを見たことで、研究テーマを「日本はどうして戦争をしたのか」に向け始める。

 昭和28年に帰国すると、さらに太平洋戦争への道を研究しようと、東大法学部の岡義武の門を叩いた。〈文字どおり、先生の研究室に飛び込んだのです。本当に怖いもの知らずでした〉(前出『緒方貞子回顧録』)と語っている。岡は、師が吉野作造で弟子が丸山眞男という、東京大学政治史の主流を担った人物である。この出会いが、結果的に緒方を、美智子上皇后のみならず、上皇とも近づけることになった。

上皇の思い入れが深い戦前史

 2014年10月、東京日本橋高島屋で「天皇皇后両陛下の80年」特別展が催された時、上皇が皇太子時代に小泉信三とともに読んだ『ジョージ5世伝』の原書と並んで、岡義武の『近代日本政治史Ⅰ』(創文社)が展示されていた。ジャーナリストの佐藤章によれば、上皇はその理由について、「教科書で使ったとかという意味で並べたんじゃありません。自分が影響を受けた本として陳列したんです」と述べられたという。

 小泉信三が上皇の皇太子時代に東宮御教育常時参与として進講したことはよく知られているが、実は岡義武も日本政治史を進講していた。その経緯を、岡の孫である芳賀直子が語ってくれた。

「小泉信三さんからの依頼でお受けしました。祖父は、様々な役職を断り、そういうことは避けていた節があるのですが、小泉さんとは遠い血縁でもあり、断れなかったようです。御所では、小泉さんが立ち会っての講義だったそうです。1年以上は務めたと聞いています」

 上皇が岡に大きな影響を受けたことは、佐藤が語るこんなエピソードからもわかる。

「現在の天皇が、1983年に英国オックスフォード大学に留学する前に、日本の近現代史を勉強するプランがあり、岡さんに相談しました。徳仁天皇は明治の政治に興味があったそうですが、上皇は『それは適当な文献を読めばいい。なぜ戦争が起きたかを講義してもらうことが重要だ』とおっしゃって、満州事変以降の戦前史を勉強させたんです」

「日本はなぜあの戦争をしたのか」が忘れられようとしていることに危機感を持たれたのかもしれない。そのことを忘れるべきではないという上皇の強い決意だろう。緒方は、岡義武を介して、天皇家と価値観を共有することになったともいえる。

 話を戻す。岡と出会ったことで、緒方は太平洋戦争の出発点を知るために満州事変の研究を始めた。芳賀によれば、「祖父は教え子の学徒出陣も見送っていましたから、自分より下の世代がそういう研究をするなら、全力で手伝ったと思います」という。かつて緒方が「私の学問的なスタートは岡先生の指導にあった」と述べたことからも、岡が熱心に緒方を指導したことはうかがえる。

 緒方は岡に学んだあと、カリフォルニア大学バークレー校に留学し、そこでまとめた論文が『満州事変 政策の形成過程』である。この本の末尾に記された〈満州事変以後に残されたものは、合理的で、一貫した外交政策を決定、実施することの出来ない「無責任の体制」だけだった〉という指摘は、まるで今の政治を皮肉っているようで不気味だ。

 岡義武のゼミに、緒方四十郎という貞子と同年の学生がいた。ジャーナリストから政界に転じ、自由党総裁になった緒方竹虎の3男である。のちに日本銀行理事になる四十郎は、関係者によれば「彼がしゃべると止まらない。日銀の人とは思えないような陽気で本当に楽しい方でした」という。やがて2人は交際を重ね、美智子が皇太子明仁親王と成婚した翌年の昭和35年に結婚する。

軽井沢の南原が育んだ友情

 それから約10年後、緒方家は軽井沢の「南原」に別荘を建てた。これが後々まで緒方と上皇ご夫妻とのひそやかな出会いの場所となるのだが、それを演出したのが、「南原」の特殊な環境だった。

 財団法人軽井沢南原文化会が出した『南原の創世記「75周年記念講演」我妻堯』という冊子に、アメリカに留学していた市村今朝蔵が「将来、自分が軽井沢に所有している土地を別荘地に分譲して学者中心の村を作りたい」という構想を描き、帰国すると我妻榮、蝋山政道、松本重治らの学者を誘って実現に向かったと書かれている。

 別荘の建築が始まったのは昭和8年だが、旧軽井沢の別荘地に反発して、まっすぐな道は面白くないと弓型に曲げ、垣根をなくし、中央にテニスコートとゴルフ場を作った。ここで勉強することを第1の目的にしたというから、はなから本来の別荘地と違っていたのである。

 市村の孫で南原文化会理事長の小林徹はこう言った。

「南原は特殊な場所で、軽井沢にいる人でも知らない人がけっこういます。宣伝は一切しませんし、会員になっていただくのも2人以上の推薦が必要です。ちなみに、南原は最近の豪華な別荘と違い、だいたい木造の山小屋です」

 さらに、テニスコート周辺は私有地のため、第三者は入れないという。緒方は、松本重治から土地を譲ってもらった。緒方が挙式したのはカトリック田園調布教会だが、披露宴は松本が理事長をしていた六本木の国際文化会館だった。緒方は、この披露宴で松本にずいぶん世話になったと語っているから、その縁で別荘地を紹介してもらったのだろう。

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