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蓋棺録<他界した偉大な人々>

偉大な業績を残し、世を去った5名の人生を振り返る追悼コラム。

★小柴昌俊

小柴昌俊 20040506BN03360

ノーベル物理学賞受賞者の小柴昌俊(こしばまさとし)は日本の実験物理学をリードして、世界で初めて超新星のニュートリノを把捉するのに成功した。

2002(平成14)年、ノーベル財団からの電話がありノーベル賞授賞を告げられる。受話器に向かって「サンキュー・ベリー・マッチ」と小柴が礼を言うと、集まっていた記者たちが一斉に拍手した。15回目の待機だった。

1926(大正15)年、愛知県に生まれる。父親は陸軍将校で、小柴は陸軍幼年学校に入ることになっていた。ところが旧制中学1年のとき小児麻痺に罹り、毎日何時間も歩いてリハビリしたが、右腕は麻痺したままだった。

旧制一高(現・東大教養学部)では寮生活を謳歌し、自治会の副委員長を務める。何でも率直にものをいう小柴は、校長だった天野貞祐に気にいられたという。

大学進学を数カ月後に控えたころ、寮の風呂に入ると、湯気の向こうで教師と学生が進路を話し合っていた。学生が「小柴はどうする気だろう」と言い出し、教師が「まさか東大の物理とはいわないだろう」といって笑った。

小柴は成績が悪かったので軽んじられていることは知っていたが、この会話には腹が立った。寮で一番の秀才に特訓してもらい、難関の物理に合格し、人生が決まった。

卒業が迫ったころ、天野に「学部はどこですか」と聞かれた。「物理です」と答えると、天野は「仲人をした人が物理をやっているので紹介しましょう」という。その人とはノーベル物理学賞を受賞する朝永振一郎で、公私ともに小柴の師となってくれた。

東京大学では理論物理学を専攻するが宇宙線の測定を手伝ううちに実験物理学にのめり込む。53(昭和28)年、米ロチェスター大学に留学する際は朝永の推薦がものをいった。留学中も猛勉強を続け「喧嘩のやり方を覚えつつ」多くの友人をつくった。

帰国後、東大原子核研究所助教授、同大理学部助教授をへて、70年に同学部教授。78年、ノーベル賞につながる「カミオカンデ」を構想し、文部省や企業を説得して実現させる。「宇宙から来る粒子ニュートリノを捕まえる」ための巨大な装置だった。

ニュートリノを初めて観測したのは87年で、世界に向けて論文を発表する。米研究グループが観測の先取権を主張したが、小柴は電話で「バカなことを言うな」と怒鳴り突っぱねた。このときも、米グループ内の友人が小柴を支持して話がついた。

カミオカンデの成功後も、スーパーカミオカンデやカムランドを建設し弟子を育てる。「挫折というのは、もう駄目だと諦めること。僕は一度も挫折したことはない」。(11月12日没、老衰、94歳)

★坂田藤十郎

坂田藤十郎 20060518BN00098

歌舞伎役者の四代目坂田藤十郎(さかたとうじゆうろう)(本名・林宏太郎)は、若いころ扇雀として活躍し、後には上方歌舞伎の再興に挑戦した。

2005(平成17)年、上方歌舞伎の大名跡である、坂田藤十郎の四代目を襲名してファンを驚かせる。藤十郎が途絶えてから231年、「今回の襲名は継承というより、私の歌舞伎を発信することに力点があるんです」。

1931(昭和6)年、京都府に生まれる。父は二代目中村鴈治郎。9歳のときに二代目扇雀を名乗り『嫗山姥(こもちやまんば)』の公時を演じた。父から「扇雀で初舞台をしろ」と言われて、「じゃあ、でようかな」とその気になったという。

このとき端唄や踊りを集中的に教え込まれたが、端唄の「夕ぐれ」を3カ月たっても覚えない。お師匠さんに「夕ぐれどころか、もう夜が明けまっせ」と呆れられた。

しかし、49年、武智鉄二が始めた関西実験劇場の「武智歌舞伎」に加わるようになると、「自分は稽古が足りない」と痛感する。そこで、文楽の豊竹山城少掾にセリフの稽古をしてもらい、金春流の桜間道雄に能の仕舞いを習って基礎からやり直した。

53年には、250年ぶりに上演された近松門左衛門の『曽根崎心中』でお初を演じ、絶賛されて扇雀ブームを巻き起こす。阪急電鉄の小林一三に説得され、57年から東宝専属となり、長谷川一夫主演の東宝歌舞伎に女形で出演してファンを喜ばせた。

このころ、宝塚歌劇団の映画専科にいた扇千景と親しくなり、58年、突然、結婚を発表する。しかも扇は妊娠していたのでマスコミも沸き立った。「いまでいうデキちゃった婚のはしりでした」。

63年に松竹に復帰し、女形と立ち役の両方で活躍するが、81年に近松門左衛門の作品を歌舞伎で演じる『近松座』を結成。『心中天網島』の治兵衛などで高い評価を得た。90年、3代目中村鴈治郎を襲名し、94年、人間国宝に認定される。

2002年、写真週刊誌に芸妓との密会をスクープされるが、悪びれず「世の男性も頑張ってもらいたい」などと発言。当時、国土交通相だった扇も「もてない夫なんてつまらない」と応じたので、記者たちは呆気にとられた。

藤十郎を襲名した後も、挑戦への意欲を失わなかった。15年には博多座で『曽根崎心中』のお初を演じて通算1400回を達成している。(11月12日没、老衰、88歳)

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