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中国共産党と文藝春秋の百年 河本大作、司馬遼太郎、山崎豊子… 城山英巳

荒ぶる大国の本質を透視し続けた100年間——。歴史の証言者たちの視点は今も色褪せない。/文・城山英巳(北海道大学大学院教授)

※表記の一部を現代風に改めています。〔 〕内は筆者による註釈

日中関係の真の姿

日本の近現代史は「中国」とどう向き合うかを問われた歴史だったと言っても過言ではない。中国が弱かった100年前も、強国として横暴に振る舞う今も本質は変わらない北京冬季オリンピック・パラリンピックをめぐり、日本政府は、新疆ウイグル自治区や香港での人権問題を理由に「外交ボイコット」に踏み切った同盟国・米国に同調し、政府高官を派遣しなかったが、「ボイコット」という言葉を使わず、東京大会組織委員会会長の橋本聖子参院議員を出席させた。五輪開幕3日前に衆院が人権問題に懸念を示す決議を可決したが、「中国」を名指ししなかった。そもそも日本政府は本格的な「人権外交」を実践した経験はなく、岸田文雄首相も林芳正外相も、遠く離れた新疆ウイグル自治区や、近い香港でさえも、その悲惨な弾圧の現実への関心は乏しい。本音では、権力が集中する習近平国家主席との対話ルートを築き、尖閣諸島や経済交流拡大など日中間の懸案を解決する必要性を痛感している。

しかし自民党対中強硬派やインターネット世論で、岸田も林も「中国に弱腰すぎる」という批判が渦巻く中、野望を露わにする共産党との「対話」や「協力」を国内向けにアピールすれば、政権基盤の安定や支持率に悪影響を与えかねないと懸念する。だから安全保障を頼る米国に顔を向けつつ、最大の貿易相手国・中国の「報復」も怖くてその顔色も窺わざるを得ない。米政府と国内で縛られ、対中外交は前進しない。

実は日本政府が一番恐れているのは、対立を深めるように見える世界1位と2位の米中が裏でがっちり手を結んでいることで、裏切られまいかと疑心暗鬼に陥っている。これが9月に国交正常化50周年を迎える日中関係の真の姿である。

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毛沢東(左)と田中角栄(右)

見えない権力構造に迫る

1928年の張作霖ちょうさくりん爆殺事件の処理で昭和天皇の逆鱗に触れ、内閣総辞職を余儀なくされた田中義一たなかぎいち首相しかり、38年、蒋介石しょうかいせきに「爾後じご国民政府を対手あいてとせず」声明を出し、日中戦争を泥沼化させた近衛文麿このえふみまろ首相しかり、「中国」で失敗したリーダーは政権を失い、深刻な場合には国家を破滅の淵に追いやった。

『文藝春秋』が創刊された100年前、日露戦争を戦い「流血」で獲得した満州権益を維持・拡張するために満蒙(満州と内蒙古)を中国と認めず分離させるか、あるいは中国と協調する道を選ぶかで激論となった。結局、前者の道を突き進んだことが日本の命運を分けた。日中戦争が始まった85年前は、「拡大派(一撃論者)」と「不拡大派(対話派)」が激突し、勇ましい声が勝った。

日本敗戦後も共産党政府と国交正常化すべきか否か、つまり「北京か台湾か」で政界・世論とも二分した。今も、尖閣諸島や人権問題などで米国をはじめ民主主義陣営と連携して中国包囲網を強固にすべきか、それとも政治対話や経済協力を重視して中国を国際社会に取り込む「関与政策」を続けるべきなのかが問われ続ける。

中国の権力内部で何が起こっているかは窺い知れない。特に秘密主義を徹底させる共産党体制に変わり、昔は毛沢東、今は習近平が何を考えているのか、日本をどう認識しているのかさっぱりつかめない。

こうした中、『文藝春秋』が100年間にわたり誌面で問い続け、提起し続けたのは、中国内部で一体、何が起こっているのか。そして日本は、中国にどう向き合っていくべきなのか、という視点であった。

1954(昭和29)年12月号「私が張作霖を殺した」河本大作
1931(昭和6)年10月号「満蒙と我が特殊権益座談会」
1937(昭和12)年9月号「話の屑籠」菊池寛
同年11月号「支那民族性について」松岡洋右
1955(昭和30)年「臨時増刊・風雲人物読本」「先覚者・石原莞爾」辻政信
1950(昭和25)年7月号「石原莞爾の悲劇」田村眞作
1949(昭和24)年8月号「中共に科学ありや」阿部良之助
1955(昭和30)年5月号「中共に自由ありや」明石勝英
1956(昭和31)年11月号「差し向いの毛沢東」土居明夫
1967(昭和42)年3月号「毛沢東は間違っている!」
1976(昭和51)年11月号「毛沢東の偉大と悲惨」マーク・ゲイン
1970(昭和45)年7月号「『日中交渉』は屈辱外交か」司馬遼太郎・古井喜実
1971(昭和46)年4月号「毛沢東とつきあう法」司馬遼太郎・貝塚茂樹
同年5月号「国交回復をなぜ急ぐか」武田泰淳・中嶋嶺雄
1972(昭和47)年4月号「中国報道・日本と世界の新聞」衛藤瀋吉
同年2月号「日中復交の“虚”と“実”」永井陽之助
1989(平成元)年7月号「胡耀邦さんにもう一度会いたい」
1985(昭和60)年5月号「“虱”だらけの指導者・胡耀邦」山崎豊子
1989(平成元)年8月号「『血で書かれた事実』は隠せない」陳舜臣
1997(平成9)年11月号「日中激突『NO』と言えるのはどっちだ」石原慎太郎・張蔵蔵
2005(平成17)年8月号「決定版 日vs中韓大論争 靖国参拝の何が悪いというのだ」櫻井よしこ・田久保忠衛vs劉江永・歩平
2021(令和3)年9月号「『まさかの時の友が真の友です』」蔡英文
1961(昭和36)年5月号「台湾は必ず独立する」邱永漢
1972(昭和47)年10月号「中華民国 断腸の記」蒋経国
1998(平成10)年10月号「日本よ、江沢民『三不政策』にのるな」李登輝

1954(昭和29)年12月号
「私が張作霖を殺した」河本大作

1928(昭和3)年6月4日、満州の実力者である奉天軍閥の領袖・張作霖の乗った列車を爆破し、暗殺した関東軍高級参謀・河本大作こうもとだいさくの手記である。『文藝春秋』が創刊されて5年後の大事件。当時の中国はどのような時代だったのか。

中国大陸は、軍閥が割拠する「戦国時代」であり、中国近現代史で中国が弱かった時代の真っただ中。こうした中、軍国主義の道を突っ走る日本政府・軍部は、イケイケ状態で大陸を目指した。この時期、陸軍は「支那通」と呼ばれる中国スペシャリストを大陸に派遣し、軍閥領袖の「軍事顧問」に就かせた。軍閥と密接な関係をつくり、日露戦争で獲得した満蒙権益の維持・拡大のため中国をコントロールしようと狙った。

河本が、張作霖暗殺の首謀者であると公になったのは46年、東京裁判で元同僚を次々と告発した支那通軍人・田中隆吉たなかりゅうきち元陸軍省兵務局長が証言したからだ。当時、河本は中国山西省太原で存命。3年後の49年、太原を攻略した共産党軍が河本を「戦犯」として連行し、太原の戦犯管理所に収容した。河本が病死したのは53年8月25日とされるが、尋問は死去直前まで続いた。下手人による生々しい肉声は『文藝春秋』誌上で初めて伝えられた。

張作霖暗殺前、河本が現地で見たものは、日本の対華二十一カ条要求(1915年)以降、満州全体を覆う反日の嵐だった。

「張作霖が威を張ると同時に、一方、日支二十一ケ条問題をめぐって、排日は到る処に行われ、全満にはびこっている。日本人の居住、商租権などの既得権すら有名無実に等しい。在満邦人20万の生命、財産は危殆に瀕している。(中略)日清、日露の役で将兵の血であがなわれた満洲が、今や奉天軍閥の許に一切を蹂躙されんとしているのであった」

当時の田中義一首相は、満州の実力者・張作霖を抱き込もうと画策した。日本陸軍の援助を受けた張は北京に進出し、27年6月、中南海で「中華民国陸海軍大元帥」を宣言。ついに北京の支配者となった。一方、「革命の父」孫文の死を受け、国民革命軍総司令・蒋介石は南の広東から「北伐」と称して張作霖軍の討伐を目指し、北上していた。蒋介石軍の優勢は明らかであり、28年5月下旬、敗走する張作霖軍が満州に逃げ込めば、大混乱となり、日本の満蒙権益を脅かすと懸念が高まった。ここで河本はこう考えた。

「北京に出て、大元帥を誇号している張作霖は、30万の大兵を擁して今は関外〔満州の外〕にある。この30万の兵が、ゾロゾロ敗れて関内〔満州の内〕へ流れ込んだら、またまたどんな乱暴をやるかわからない。といって、これを助けたところで、一生恩に着るような節義はない」

日本の援助のおかげで北京まで進出できたのに欧米に依存して日本を駆逐しようとする張作霖への強い失望と不満、怒りがあった。河本は何のためらいもなく決断した。

「巨頭をたおす。これ以外に満洲問題解決の鍵はないと観じた。一個の張作霖を抹殺すれば足るのである。(中略)張作霖を抹殺するには、何も在満の我が兵力をもってする必要はない。これを謀略によって行えば、さほど困難なことでもない」

北上する蒋介石軍に対して戦意に乏しい張作霖軍は後退し、張作霖は6月1日、満州帰還を発表し、3日未明、悲壮感あふれる中、特別列車で北京を後にした。

河本は爆薬を用いて奉天に入る列車を爆破することを決め実行した。

「轟然たる爆音と共に、黒煙は200メートルも空へ舞い上った。張作霖の骨も、この空に舞い上ったかとも思えたが、この凄まじい黒煙と爆音には我ながら驚き、ヒヤヒヤした。薬が利き過ぎるとは全くこのことだ」

泥沼に向かう転換点

河本は軍法会議にかけられず、行政処分で予備役となって事件の真相は闇に葬られた。その後も満州で暗躍し、地下資源が豊富な山西省で「大炭鉱王」として君臨した。戦後、太原の獄中にいた河本の手記がなぜ『文藝春秋』に届けられたのか。

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