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「演出家としては限界だった」フジテレビ電撃退社の明松功氏が“なぜ君”大島新監督に明かした“めちゃイケ”でブチ当たった厚い壁

業界を騒然とさせたフジテレビ社員大量退職のニュース。「ネクストキャリア支援希望退職制度」という名称で、昨年11月に「勤続10年以上、50歳以上」を対象に退職者を募ったところ、約100人が手を挙げたことが報じられた。中にはフジテレビの黄金期を築いた有名社員や人気アナウンサーも複数含まれていた。

そのひとりが、明松功氏(51)だ。2018年に終了した名物バラエティ「めちゃ×2イケてるッ!」のプロデューサーだった。恰幅のよさと独得のキャラクターで、自ら出演する“ガリタ食堂”などの人気コーナーも手掛けた名物テレビマンだ。

「楽しくなければテレビじゃない」というキャッチフレーズで1980年代に一世を風靡したフジテレビ。その王道を継いできた明松氏の退社は、フジテレビに限らず、テレビ業界の現状を象徴する“事件”だ。明松氏はなぜ退社という決断をしたのか。彼はどこに行こうとしているのか――。映画「なぜ君は総理大臣になれないのか」などで名高いドキュメンタリー監督の大島新氏が、明松氏に2時間のロングインタビューを敢行した。

大島氏はフジテレビOBで、明松氏と同期の1995年入社。友人だからこそ聞ける、明松氏の本音に大島監督が迫った——。(前後編の前編/後編はこちら

「ガリタ」こと明松功さん」 (1)

「ガリタ」さんこと、明松功氏 ©KAZA 2 NA

大島新_写真 (1)

大島新監督 ©ネツゲン

「あんなにいい会社を辞めるなんて、正気か?」

2021年11月、フジテレビが勤続10年以上で満50歳以上の社員を対象に早期退職者を募集したという一報がネットで流れると、テレビ業界がざわついた。「ついにあのフジテレビが……」というのが、多くのテレビマンが抱いた思いだっただろう。

私がフジテレビを退社したのは1999年8月、29歳の時だった。多くの人に、「あんなにいい会社を辞めるなんて、正気か?」と言われた。それほど、当時のフジテレビは輝いていたのだ。

あれから二十余年、テレビ業界を取り巻く環境は激変した。Netflixに代表される配信や、YouTubeなどの映像コンテンツが溢れる時代に、栄華を誇った地上波テレビは苦境に陥っている。これは決してフジテレビだけの問題ではないのだが、同社の場合その輝きがあまりにも眩かっただけに、凋落するテレビの象徴のように見えてしまっていた。

そんな折の早期退職者の募集……多くの業界関係者の注目が集まる中で、100人近くの社員が会社の求めに応じ、2022年3月末に退職したということがわかった。その中には、著名なバラエティの演出家である片岡飛鳥氏や、ドラマ監督の宮本理江子氏や武内英樹氏の名もあった。

出回った退職者リストの中に、私は同期入社(1995年)の男の名前を見つけた。明松功(かがり・いさお)。前述の片岡飛鳥氏が総監督を務めた「めちゃ×2イケてるッ!」のスタッフとして、ディレクター・プロデューサーを歴任し、同番組のコーナー企画「ガリタ食堂」では出演者としても活躍した名物テレビマンだ。同期といっても、部署が違ったので(私は情報・ドキュメンタリー番組のセクションだった)、研修期間以降は交流がほとんどなかった。お互いに50を超え、久しぶりに会った明松に、フジテレビへの思いと退社に至った経緯をじっくりと聞いた。

 「HEY!HEY!HEY!」から「めちゃイケ」へ

大島 改めて入社後の経歴を聞きたいんだけど、明松が最初に配属されたのは「HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP」(以下、「HEY!HEY!HEY!」)だったよね?

明松 そう、最初は「HEY!HEY!HEY!」。研修で報道・情報・ドラマ・バラエティを回ったなかで、「ドラマは俺には合わんだろうなあ」「報道や情報もそんな興味ないなあ」「やっぱりバラエティがいいなあ」と思っていたから。

大島 95年頃の「HEY!HEY!HEY!」は、飛ぶ鳥を落とす勢いだった印象があるな。

明松 スゴかった。番組が企画した浜田(雅功)さんと小室(哲哉)さんがコラボした「WOW WAR TONIGHT ~時には起こせよムーヴメント」が出たばっかりで。あのシングル、200万枚超えたのよ。番組キッカケで「H Jungle with t」というユニットが出来て、番組の収録終わりにそのセット使ってディレクターがPVを監督するんだからね。実際に作品として世に出ると「うおー!」って思ったよ。

大島 本当にフジテレビの「いい時代」っていう感じだな。それで「HEY!HEY!HEY!」には何年いたの?

明松 2年半……3年目の「27時間テレビ」の後に異動を希望したんだ。もちろん「HEY!HEY!HEY!」は楽しかったんだけど、音楽番組という葛藤があったね。工夫して良い画を撮るっていうことに、俺はそんなに興味が湧かなかった。「音楽映像って、やっぱアーティストのもんじゃん!」って、思っちゃうから。それで、上に「お笑い番組に行かせてくれ」って言ったら、じゃあ「めちゃ×2イケてるッ!」(以下、「めちゃイケ」)だって。

大島 「めちゃイケ」との運命の出会いだな。

ガリタ食堂の栄養士・ガリタガリ子としてプロ野球ヤクルト対阪神の始球式を務めたことも

ガリタ食堂の栄養士・ガリタガリ子としてプロ野球ヤクルト対阪神戦の始球式を務めたことも

明松 そう。それが97年の秋。

大島 その時「めちゃイケ」はどういう状況だったの?

「ぐいぐい入っていくな!」緻密すぎる台本の凄さ

明松 96年に始まってちょうど1周年。スタッフルームに行って挨拶をしようとしたら、がらんどうで。ホワイトボードを見たら「大阪ドーム」って書いてある。岡村さんがジャニーズJr.としてSMAPライブに出演した日だった、たまたまね。で、ADさんの机を見たら、分厚い台本があって。パラパラめくったら、ト書きがものすごく丁寧で驚いた。

「ここはこういう設定」「このタイミングから立ち位置が逆転する。大事なポイントがこのブロック」ってワーッと書いてあって、スゲえ入念に……ゆっても“ノリ”であの空気感を出していると思っていたから「こんなに決まってたんだ!」っていう驚き。「ぜんぜん違うんだな」って思った。

というのも、「HEY!HEY!HEY!」では、ダウンタウンさんの“地肩”で面白くなるトークを見てきたから。「芸人さんの領域には、制作ってあんまり入り込めないんだな」っていうことを思っていた俺からしたら「ぐいぐい入っていくな!」っていう衝撃の台本だったの。「うわぁ、やりてえ!」と思った。スタッフが誰もいなかったのに、ズッと座って読みふけった。「ああ、これはやりがいあるわあ」と思ったのが、97年の秋。

大島 実際にスタッフになったら、どうだった?

 明松 会議に出たら“長考”の時間がたくさんあった。みんなで闊達に意見がガンガン飛び交う瞬間ももちろんあるんだけど、「う~ん」ってやってる時間が長くて。「すごいな、こんだけ考えてるのか」っていう会議の長さとか。まあ、初めて触れるわけだよね。「HEY!HEY!HEY!」の会議とは違う、どよーんとした会議が、月曜の夜8時から翌朝まで続くという、その衝撃があったね。この場で皆で、知恵を出し合ってるんだなという。

「楽しくなければテレビじゃない」というキャッチフレーズで1980年代に一世を風靡。「軽チャー路線」とも言われた

「楽しくなければテレビじゃない」というキャッチフレーズで1980年代に一世を風靡。「軽チャー路線」とも言われた

どよーんとした会議が、月曜夜8時から翌朝まで続く衝撃

大島 明松は若い頃から目立ってたと思うけど、番組にはすぐになじんだ?

明松 そうね……若手スタッフにあんまりゴリゴリの体育会系みたいなのがいなかったから、俺はこの体型も含めて、面白がられたかな。その頃、光浦(靖子)さんが河野(まさと)さんっていう俳優さんに告白する「河野少年愚連隊」っていう企画があって。その河野さんが、「そもそも女性が好きな人かどうかをチェックする」っていうことで、(片岡)飛鳥さんから「お前行け」みたいに言われて、俺がゲイの役で投入されたのよ。「めちゃイケ」に入ってわずか数カ月で。演者と一緒にロケをやるわけじゃん。ダウンタウンさんなんかは、2年半で二言三言しか喋れなかったから、演者と直接絡むっていうことも新鮮だったし。

大島 じゃあ、割とはじめから出役候補だったんだ。

明松 そうそう。それが俺がテレビに出た最初。ハード目のゲイでね。

大島 もともとフジテレビのバラエティにはスター制作者がたくさんいたけど、我々が若手の頃って、片岡飛鳥さんと小松純也さんの2人は特別な存在っていう印象があったんだよね。その片岡さんの下についたわけじゃん? 業界ではよく言われるけど、片岡さんというのは、やっぱり狂気の才能というか、異才というか……。

片岡飛鳥の信じられない「記憶力」と「分析力」

明松 やっぱあんな人はいないよね(笑)。なんと言っても信じられない記憶力。「ドリフのナニナニさんが、なんとかをして振り向いたら、タライがドーンッと落ちる映像を探して」みたいな。「あるのかな、そんなん?」って思ったら本当にあって。どんな記憶力してんのかなって。

大島 昔のバラエティの細かい演出を覚えてる。

明松 そうそう、記憶力と、それを基にした分析力。まあ、俺はそこが一番スゴいと思うけど、“面白いの真理”を掴む部分。「何が面白くてこのシーンで笑うんだ?」という分析力がピカイチ。演出手法の引き出しの量もすごかったな。最後のほうは武器が入っている引き出しを開けて、以前使った演出を使うなんていうのは、もう興奮しなくなったって。開けたら空で「うわ! どうしよう!」っていう時のほうがワクワクして作れるから、「入ってない引き出しを開けたくなる」みたいなことを言っていて。「スゲえところまで行ったな」と。

1984年には年間売上高でキー局トップに。視聴率でもゴールデン・プライム・全日・ノンプライムでトップの「4冠王」を獲得した

1984年には年間売上高でキー局トップに。視聴率でもゴールデン・プライム・全日・ノンプライムでトップの「4冠王」を獲得した

大島 バラエティの突出した演出家のそういう能力って、天性のものっていう感じがするよね。

明松 あとはナレーション。飛鳥さんのナレーション力は、ケタ外れで凄かった。

「めちゃイケ」でダサいとされていたこと

大島 それは笑いのツボみたいなこと?

明松 笑いのツボと語彙力の豊富さ。「めちゃイケ」って、テロップで入る文言と同じことをナレーションで言うのはダサいとされていて。「なぜ情報を提供するチャンスが2つあるのに同じにするの? もっと立体的に広げたほうがいいんじゃないの」って。でも、テロップとは違う言い方で、ベストな方法をなかなか思いつかないって、凡人はなっちゃうの。俺らみたいな凡人は。飛鳥さんっていうのは、平気で2個目3個目を、ナレーションとテロップで分厚くしていく。

大島 ああいうのって“芸”みたいなもんだよね。

明松 もう現世では追いつけない、とすら思ったよ。2000年の幕開けミレニアムに、お台場を5キロ走ってゴールするっていうのを、岡村さんがゴールしないでお台場を飛び出して、そのまま42.195kmを走って戻ってくるみたいな、岡村オファーシリーズの生放送があったんだけど、それの完全版だったかな……ラスト10分ぐらいのところで、今までやってきた岡村オファーシリーズの名シーンがスローで流れて。「奇跡! それはなになに……」って、5つぐらいのテーマで奇跡を語るわけ。そんなナレーション、俺は一生書けない。奇跡を5つの切り口で分厚く表現するナレーションは、ホント痺れたね。

大島 そういう時って、笑って泣けるんだよな。

明松 いや、逆。「泣いて、笑う」っていうのが大事だったんだ。ゴールしてフィニッシュして、相当いい感じになってるからこそ、「なんかラストない?」みたいな。「誰かの存在を忘れてる、みたいな小笑いでいいから」って。だから大感動は、笑いの最大のフリですよ。ちょっとした面白いことでも、超面白くなるから。

「プロデューサーをやらせてください」

大島 そうか。笑いで終われるっていうことに、視聴者の安心感があったんだ。

明松 演出部もそうだし、演者の皆さんも、そこは共有できていたから。お笑い番組の意地みたいなところでもありつつ。泣きながら、最後は笑わされたっていうのが一番好きだったな。

大島 それにしても、明松は20代半ばから40代半ばまでを「めちゃイケ」に捧げたんだよな。ADからディレクター、そしてプロデューサーと歴任して。

明松 そうよ。辞めたいとか逃げ出したいとか、1回も思わなかったし。飛鳥さんを中心に、皆で同じ方向を向いてるっていう稀有な番組だった。普通はスタッフがあれだけいると、色んなベクトルが混ざってギクシャクしたりするじゃん。全員が同じベクトルで「これが面白い!」っていうのはそんなにないのかなって。あの純度の高さが好きだったな。

大島 プロデューサーになったのはどういう経緯で?

明松 作り手として、上の人との差は、努力すれば絶対に抜けると思ってたんだけど、「抜けないな。あれ? 広がってるんじゃないの」っていうのが2008~09年頃。2010年に、「プロデューサーをやらせてください」って言うんだけども。

大島 なるほど。じゃあ演出の方向ではもう……。

明松 そう、壁にブチ当たりまくってて。演出家としては、もう限界かなっていうのがあって。

台場にフジテレビの本社が移転したのは1997年のこと。同年に東証一部上場を果たす

台場にフジテレビの本社が移転したのは1997年のこと。同年に東証一部上場を果たす

異動か……

大島 これは世間で思われていることとは違う部分で、なんとなくプロデューサーのほうがエラいっていう空気があるじゃない。でもバラエティ……少なくとも「めちゃイケ」班とかだと違うんだよね。

明松 そうだね。演出部の方が上。

大島 やっぱり演出できてナンボ、みたいな感じだったんだろうなあ。結局、我々の同期もバラエティに5、6人いたけど、プロデューサーとしてブイブイ言わせたいとかじゃなくって、圧倒的な「総合演出」をやりたいっていう感じだよね。

明松 そうよ、演出家として大成したかったっていうのが今でもあるけれども、「いや、ちょっとこれは」っていうのが、痛いほど解って。でも「めちゃイケ」を離れるっていう選択肢はなかったから、飛鳥さんに「プロデューサーにしてくれたほうが番組に貢献できます」って言ったのよ。

大島 納得してもらったんだ。

明松 それからはプロデューサーをずっとやって、俺の番組のラストは2016年7月30日の、山本圭壱10年ぶりの復帰の回。

大島 異動か……。

明松 そうそう。7月に営業部に異動することになったんだけども、そのオンエアの収録直前だったから、営業にわがまま言って「今やってる企画が730のオンエアなんだけども、俺がいないと立ちゆかないから、1カ月延ばしてください」って、8月合流にしてもらって。それが最後。

大島 営業に異動って、すごく大きな転機っていうか。それまでは制作畑に20年いたわけじゃない。明松はどう受け止めたの?

明松 最初は受け止めきれなかった。


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