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社会が震えた芥川賞作家の肉声 鵜飼哲夫 創刊100周年記念企画
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社会が震えた芥川賞作家の肉声 鵜飼哲夫 創刊100周年記念企画

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既成の価値観をぶち壊し、文学の枠を超えて世に衝撃を与えた。/文・鵜飼哲夫(読売新聞編集委員)

「新人」たちの言葉

慎太郎刈りの太陽族とスター石原裕次郎を生んだ「太陽の季節」。フツーの価値観を転倒させ、世界30ヶ国以上に訳された村田沙耶香「コンビニ人間」……。紙とペンさえあれば老若男女誰もが候補になりうる新人賞の芥川賞が、文学の枠を超えて社会に衝撃を与えてきたのは、ベテランの域にあってもなお新しい文学を拓こうとする作家たちが、新しい戦慄をもたらす作品を徹底して議論し、見出そうとしてきたからである。

一朝目覚むれば、わが名は世に高し――。無名の新人を一躍有名にする賞は、「芥川賞金と云うものを制定し、純文芸の新進作家に贈ろうかと思っている」と、菊池寛が昭和9年(1934年)、「文藝春秋」4月号に掲載したこの一文に端を発した。菊池の亡友、芥川龍之介の名を冠した賞は、従来の公募の懸賞小説ではなく、新聞雑誌(同人誌を含む)に発表された新人作品から候補を選び、10人前後のベテラン作家が選考、選評を公開したのが特色だった。

しかし「真の新人」として読み継がれるのはひと握り。しかも未知の世界を冒険する作品を選ぶ賞レースには陸上競技のタイムのような基準

がない。そこにドラマが生まれ、事件が起きた。

読者の度肝を抜く受賞者が誕生するのも、選評が波紋を呼び、世間を揺るがす論争が起こったのも、「新しさ」を巡る新旧の作家たちの真摯な議論の結果である。

1938年 第6回受賞作 
「糞尿譚」火野葦平

歴史的にみれば芥川賞は大成功のスタートをきった。第1回は、ロングセラーとして読み継がれる石川達三「蒼氓」である。この回では若い日、「傑作を一つ書いて死にたいねえ」が口癖だった太宰治が落選、川端康成の「作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みあった」という私生活にまで踏み込んだ選評に憤怒し、「刺す。そうも思った。大悪党だと思った」と雑誌で抗議し、文壇の話題になった。

とはいえ、インパクトとなると、いまだしであった。石川達三が「人間の壁」「金環蝕」などで社会派作家としてベストセラーを連発、芥川賞選考委員となるのは戦後で、第1回選考会のときには石川の存在を選考委員の誰1人知らなかった。

新聞の扱いも地味で、読売新聞の見出しは「最初の“芥川賞”無名作家へ」。報じなかった社もあり、菊池寛は、「文藝春秋」の連載コラム「話の屑籠」に「1行も書いてくれない新聞社があったのには、憤慨した」と怒りをとどめている。

現役兵士の受賞が話題に

そこに登場したのが日中戦争勃発の2年目、1938年の第6回を「糞尿譚」で受賞した火野葦平だ。受賞作は、日支事変のため火野が一兵卒として入営する直前に脱稿した小説。政争に巻き込まれ、悪戦苦闘する糞尿汲み取り業者の哀感を伸びやかに描き、「題は汚ならしいが、手法雄健でしかも割合に味が細く、一脈の哀感」を感じると菊池寛らに絶賛された。ラストは、主人公が、柄杓で糞尿を敵対者たちに撒き散らし、「さんさんと降り来る糞尿の中にすっくと立ちはだかり、昂然と絶叫するさま」で終わる。

社会にインパクトを与えたのは受賞作そのものよりも、出征中の兵士だった火野葦平の存在だった。

「芥川賞は、別項の通り、火野葦平君の「糞尿譚」に決定した。(中略)作者が出征中であるなどは、興行価値100パーセントで、近来やや精彩を欠いていた芥川賞の単調を救い得て十分であった。(中略)我々は火野君から、的確に新しい戦争文学を期待してもいい」(「文藝春秋」1938年3月号「話の屑籠」より)と菊池寛は率直に書いている。

「文藝春秋」に発表された(戦地よりの最近の消息)との副題がある火野の「受賞のことば」も目を引いた。

「戦争の壮烈さは到底想像だにもおよばぬ、その戦場の想念の中でよい勉強をしている。明日にも支那の土となるかもしれぬ」

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火野葦平

戦争報道で部数を伸ばしていた新聞はこの話題に飛びつき、東京朝日新聞は、中国・杭州にいた葦平伍長の訪問記で、「ペンの戦士は見事剣の勇士でもあった」と記し、文芸評論家小林秀雄が使者となった陣中での贈呈式も写真付きで報じた。

軍も火野を放っておかず、中支派遣軍報道部に転属を命じた。そうして生まれた「麦と兵隊」「土と兵隊」「花と兵隊」である。勝った勝ったの提灯行列の裏側で、戦況は泥沼化し、検閲は厳しくなる時代。制約下で戦場のリアルを日記形式などで伝えた兵隊三部作はミリオンセラーとなり、火野は、洋画壇の鬼才、小磯良平らとともに1940年に朝日賞を受けている。

だが、栄冠は悲劇の始まりだった。戦後、GHQ(連合軍総司令部)から公職追放された火野は、指定解除後に名作「花と龍」を残すが、60年に52歳で没した。72年に遺族が睡眠薬自殺だったと明らかにした。

「或る「小倉日記」伝」で1953年、第28回芥川賞を受けた北九州・小倉育ちの松本清張のもとに、同郷の火野からこんな手紙が届いた。「あなたの才能と方向を自由にのばして下さい。芥川賞に殺されないように」。同じ53年の「文藝春秋」12月号に火野は、「鬼と兵隊 戦犯問題について」を発表、「鬼は戦争そのもののなかにいるのであって、人間が鬼なのではない。戦火によって鬼になり得る人間こそ、呪うべきものであるとともに、悲しむべき資質だ。その自覚と反省なくしては真の平和への祈りは得られない」と記し、自身の戦犯問題と向き合った。

アフガニスタンで支援活動を行っていた医師の中村哲(2019年12月、ジャララバードで銃撃され、73歳で死去)にとって火野は伯父にあたり、幼少時から著作に親しんだ。菊池寛賞も受けた中村は、その著『天、共に在り』で、伯父の生き方について、「表向き剛毅を装い、酒に耽溺するデカダンを装い、独特のユーモアで笑わせる楽天主義者を装い、しかしそれでもなお、繊細な詩人の魂と戦争の影との相克は、彼をさいなんでいたに違いない」としたうえで、火野の故郷、若松港を見下ろす高塔山に刻まれた文学碑のもとになる文章を紹介している。

「泥によごれし背嚢に/さす一輪の菊の香や/異国の道をゆく兵の/眼にしむ空の青の色」

この詩句に中村は、異国にかり出された伯父の郷愁と悲哀を感じ取っている。

1951年 第25回受賞作 
「壁―S・カルマ氏の犯罪」安部公房

「感想 安部公房

意外だった。/まるで想像もしていなかった。/しかしそれはぼくだけでなく、ほとんどすべての人がそう思ったに相違ない」
(「文藝春秋」1951年10月号「芥川賞受賞のことば」より)

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安倍公房

芥川賞は、遅れて爆発する時限爆弾のような作品も見出してきた。「幽霊はここにいる」という戯曲もある安部公房の1951年、第25回芥川賞受賞作「壁―S・カルマ氏の犯罪」はその代表格。ある朝、名前を喪失し、自分の名刺に席をとられてしまった男の不条理寓話は受賞当時、それこそ幽霊のように扱われ、その爆発力は理解されなかった。

真価が認められたのは、読売文学賞受賞作『砂の女』(1962年)が不条理小説の傑作として海外で評価され、芥川賞作品が新潮文庫の短編集『壁』に収録された69年以降である。文庫は現在105刷約150万部というロングセラーだが、発表当時は、「ひどく不遇な作品だった」と、安部は受賞3年後のエッセイ「「壁」の空想力」(読売新聞)に記している。「書きあげてから半年だったか1年だったか、ほとんど全部の雑誌社を転々としたあげく、どうにか近代文学にひろってもらった。つまりそれだけ型破りで、新しかったわけである。発表されてからも、だれも批評らしい批評はしなかった」

宇野浩二は選評で、「写実的なところなどは、ほとんど、まったく、ない。一と口にいうと、『壁』は、物ありげに見えて、何にもない、バカげたところさえある小説である」と酷評し、「こんどの芥川賞は、『無』から『有』を無理に生ました」と結論づけた。舟橋聖一や川端康成の賛成票はあったが、新しさを前にした困惑がありありとしていた。受賞を知らせる新聞記事も切手大、氏名と受賞作があるのみであった。

時代の落とし子

この時点で、安部が後にノーベル文学賞を決めるスウェーデン・アカデミーの委員長から、「急死しなければ、ノーベル賞を受けていたでしょう」と証言される作家になると予想した者はいない。

では、「『無』から『有』を無理に生ました」という選評が誤りだったかといえば、そうとも言えない。1924年に東京で生まれた安部は、戦争中、外地の満州(現中国東北部)で育つ。敗戦による故郷の喪失と価値の転換を21歳で体験した安部にとって、帰属する場所を失ったところから新しい文学を作り出すのは必然だった。

安部は「文學界」1959年3月号のエッセイ「ある朝の記憶」で、「壁」を書いた頃を回想しつつ、「既成の芸術観をこわしながら、しかも芸術でしかやれないものだけを、今後もやっていくつもりである」と表明している。91年の記者インタビューでは、「ナンセンスの情熱にとりつかれて書いてきた」と証言している。「無」は、前衛作家、安部のキーワードでもあった。

1956年 第34回受賞作 
「太陽の季節」石原慎太郎

「いつも冗談で、「俺は芥川賞で有名になったんじゃない。俺のおかげで芥川賞が有名になったんだ」と言うんですよ」
(「文藝春秋」2015年1月号 石原慎太郎~戦後70年「70人の証言」より)

石原慎太郎

石原慎太郎

「もはや戦後ではない」と英文学者中野好夫が文藝春秋に書き、それが経済白書にもうたわれた1956年、第34回芥川賞に選ばれた石原慎太郎「太陽の季節」ほど騒がれた受賞作は空前絶後だ。ただ、その始まりは思いのほか静かで、第一報は事実のみ伝える小さな記事だった。

デビュー作「日蝕」で1999年に第120回芥川賞を、石原慎太郎、大江健三郎、村上龍につづく現役大学生として平野啓一郎(京都大)が受賞した時の初報は読売新聞社会面トップ。「現役学生23年ぶり 高い評価「三島の再来」」「今風……左耳にピアス」と大扱いだったのとは格段の差である。

石原の受賞時は、芥川賞は世間の関心事ではなく、受賞者にスポットライトを当てる記者会見は開かれていなかったため、地味な扱いも当然だった。余談だが、記録上確認できる最初の会見は、「鯨神」で受賞した第46回の宇能鴻一郎からである。

しかし、史上初の学生受賞で、スポーツ好きな現代的な若者である石原にマスコミはにわかに注目した。読売新聞は受賞決定の2日後、「五尺七、八寸、すらりとした浅黒の美男子。理知的なひとみがナイーブな光を放つチョット三島由紀夫ばり」と写真付きで紹介した。「型破りの若い男女の生態をえがく」「古いモラルを否定したアプレ世界の小説に「私は息子がこわくなりました」と母光子さん(四七)はいっている」との談話を載せ、アプレゲール(戦後派)の登場を印象づけた。記事の末尾には「母、弟裕次郎君(二一)(慶大法学部2年)との3人暮し」とあり、裕次郎の名が初登場している。

そして、「遂に出現した戦後文学の決定版!!」との広告で発売された「文藝春秋」3月号が話題に火をつけた。受賞作と同時に掲載された選評の激しさに世間は瞠目した。

「私は石原氏のような思い切り若い才能を推賞することが大好きである」(川端康成)、「その力倆と新鮮なみずみずしさに於て抜群」(井上靖)と高く評価する声もあったが、否定意見も相次ぎ、急先鋒は文壇の重鎮、佐藤春夫だった。「こういう風俗小説一般を文芸として最も低級なものと見ている上、この作者の鋭敏げな時代感覚もジャナリストや興行者の域を出ず、決して文学者のものではないと思ったし、またこの作品から作者の美的節度の欠如を見て最も嫌悪を禁じ得なかった」

受賞に納得せぬ佐藤は読売新聞に「不良少年的文学を排す」という文章まで発表している。

選評は、それから始まる社会の狂騒曲を先取りしていた。車やヨットに乗って遊び回り、恋人がいる部屋の障子に、若い男性のシンボルを突きさす「障子破り」のシーンや兄弟で恋人を金で売り買いする場面もある受賞作は、大人たちの反発を招き、映画版「太陽の季節」はPTAからボイコット運動まで受け、若者が事件を起こすと、新聞は「太陽族暴れる」と書き立てた。

一方で、若者たちは「慎太郎刈り」で街を闊歩、映画版にやたら存在感のあるボクシング部員のちょい役で出演し、直後に兄慎太郎原作の映画「狂った果実」に主演する足の長いナイスガイ裕次郎の姿に憧れ、「太陽族」を支持した。

「背徳か、新しいモラルか、芥川賞が世に投じた一大波紋! 大人への不信を真向から叩きつけて不逞にも躍り出た、悪漢小説!!」と宣伝した単行本も大ヒット。出版各社は、時代に新しい風をもたらす新人は商売になると気づき、公募の新人文学賞が林立するきっかけとなった。

テーマは愛と青春

戦後復興を象徴するヒーロー誕生に複雑な感情をもつ若者もいた。東北から上京し、浅草フランス座の文芸部で生活費稼ぎをしながら上智大学生として苦学していた井上ひさしは、「太陽の季節」に登場する同世代の若者が昼はヨット遊び、夜は自家用車つきの金持ち令嬢と楽しむ姿をみて、「単純にいえば、太陽の若者たちを、そして彼等の親玉と思われる石原慎太郎を嫉妬していた」(『ベストセラーの戦後史』文藝春秋、1995年刊)と告白している。しかし同時に、「文学修業、すなわち人生修業」だの「苦節十年」だのを金看板にした文壇に23歳の若さで颯爽と登場した慎太郎のブームは「想像を絶するほどの騒動だった」と回想している。

小説には特記すべきことがある。それはブレザーコートを着て、「夜な夜な銀座に出かけ、散財を繰り返していた」のは慎太郎ではなく、弟・裕次郎で、高校時代に父親を亡くし、新家長として一橋大学で会計や簿記の勉強をしていた慎太郎は、学生服を身にまとい、「弟の口から聞く彼らの風俗を、羨望をもちながらも、第三者的に客観的に眺めてはいた」のだという。そして、「弟の周辺から聞かされた印象深い挿話を題材にとり、若い2人の男女の愛の逆説的な形で描いて」みたのが、2日で書き上げた「太陽の季節」だったと「文藝春秋」2006年5月号に発表した「「太陽の季節」と弟・裕次郎と」で証言している。

世間を顰蹙させた風俗を題材にしながらも、テーマは不遜さとピュアさが入り交じった青春と愛の逆説だった。「太陽の季節」は、「文藝春秋」1998年3月号で発表された「読者アンケート 思い出に残る芥川賞作品」では堂々1位に輝いている。

参考までに以下順位を記すと、(2)「忍ぶ川」三浦哲郎(3)「月山」森敦(4)「或る「小倉日記」伝」松本清張(5)「蒼氓」石川達三(6)「螢川」宮本輝(7)「エーゲ海に捧ぐ」池田満寿夫(8)「されど われらが日々―」柴田翔(9)「闘牛」井上靖(10)「限りなく透明に近いブルー」村上龍

10位の「限りなく透明に近いブルー」は、高度成長を支えた集団就職列車が廃止となった翌年の1976年受賞作。米軍基地のある街での乱交、クスリなどの描写が拒否反応を呼び、選考会が揉めに揉め、受賞を知らせる毎日新聞は、延々2時間激論し、最後は表決となった選考を終えたばかりの中村光夫の「こんな形でもめたのは石原慎太郎の“太陽の季節”以来ですよ」という言葉を伝えている。

顰蹙を買った受賞作には、時代の変転を生き延びる文学の力がある。

1964年 第50回受賞作 
「感傷旅行(センチメンタル・ジヤーニイ)」田辺聖子

「昭和38年に『感傷旅行(センチメンタル・ジヤーニイ)』で芥川賞をいただいて、40年代はひたすら書いてました。(中略)なぜそんなに沢山書けたかいうと、その頃、私が読みたい小説がなかったから。ならば自分が書いてやろうと思って」
(「文藝春秋」2004年7月号 田辺聖子・綿矢りさ「芥川賞」先輩後輩対談より)

田辺聖子

田辺聖子

「私が読みたい小説がなかったから、自分が書く」。まさに新しい文学を拓く新人作家らしい戦闘的な言葉ではないか。事実、田辺は芥川賞受賞以降、男の作家たちが書く恋愛小説、サラリーマン小説にはなかった普通のOLの普通の恋愛を、大阪弁を活かした文体で柔らかに描き、広く女性読者を開拓、昭和62年、平岩弓枝とともに女性初の直木賞選考委員に就任した。このとき同時に、女性初の芥川賞選考委員となったのは河野多惠子と大庭みな子で、読売新聞は、「文壇女性時代 芥川賞直木賞 選考委員に初登場」と一面でスクープした。前年に男女雇用機会均等法が施行されたとはいえ、女性の社会進出はまだまだこれからという時代。女性選考委員の就任は社会を驚かす一大ニュースだった。

戦前・戦中に芥川賞を受けたのは中里恒子(第8回)と芝木好子(第14回)のわずか2人、戦争末期から敗戦後の中断期を経て、1949年に再開してからも第21回で由起しげ子の受賞以降は、曽野綾子、有吉佐和子、倉橋由美子といった文学史に名が残る作家が選に洩れ、ようやく誕生した次の女性受賞者が1963年、第49回の河野多惠子、つづく50回が田辺だった。

『新源氏物語』でも知られる田辺は、「惚れる」「首ったけ」など、ひらがなでたおやかな表現をした平安朝の女流文学を現代風にした表現で、後進の作家にも影響を与えた。高校1年の時、母親からもらった『言い寄る』を読み、ファンとなった綿矢りさをはじめ、『田辺聖子全集』の月報には山田詠美、小川洋子、川上弘美と現在の芥川賞の女性選考委員がそろい踏みしている。

田辺の読者が文壇に登場する平成時代には、小川洋子(第104回「妊娠カレンダー」)が女性の20代作家としては戦後初めて受賞したのをはじめ、多和田葉子(第108回「犬婿入り」)、柳美里(第116回「家族シネマ」)、川上弘美(第115回「蛇を踏む」)ら近年世界的な評価も高まる作家が相次いで受賞。女性の登場は当たり前となり、「主婦作家」というマスコミの表現はいつしか消えた。

これまでの芥川賞受賞者は、計177人で、うち女性は3割程度だが、平成になってからは4割以上にアップしている。

池澤夏樹(第98回「スティル・ライフ」)は、2020年3月26日、朝日新聞の朝刊に「平安時代までは、紫式部、清少納言ら文学者の半ばが女性でした。その後は明治期に樋口一葉が出るまでほとんどいなくなる。この20年は女性作家の活躍がめざましい。ようやく平安時代に戻りました。男女格差の甚だしい国で、文学だけはフェアです」との談話を寄せている。

「何が純文学や」

田辺聖子が受賞の際、石川達三は「軽薄さをここまで定着させてしまえば、既に軽薄ではないと私は思う。(中略)そのアラベスクの面白さは「悲しみよ今日は」を思い出させる」と評価し、おかたい印象もある純なる文学の世界を田辺が飛び出すことを予見している。

脱純文学の背景には大阪人の心意気があった。「大阪っ子は口から先に生まれてきたといわれるくらいで、相手をいくら笑わせたかで勝負が決まる(中略)「大阪っ子に何が純文学や。もっとおもしろい小説が書きたいんや」というのが誰にも言えない私のホンネでした」。これは2009年5月20日の読売新聞「時代の証言者」での田辺の告白である。

1965年 第53回受賞作 
「玩具」津村節子

芥川賞が社会へ与えるインパクトが強くなるにつれて、受賞作は売れるようになり、受賞作家への注文も増えた。その経済効果で、有名な作家になったのが、芥川賞作家の津村節子の夫、吉村昭である。

吉村が学習院大学、津村が学習院女子短大時代に、同人誌活動で知り合った2人は、丹羽文雄主宰の同人誌「文学者」に参加、同人仲間の瀬戸内寂聴、河野多惠子らと切磋琢磨しながら、結婚後も書き続けたが、なかなか芽が出なかった。1959年の第40回以降、4度も候補になりながら夫があと一歩で手が届かなかった芥川賞を津村が受けたのは1965年の第53回である。

小動物を愛玩し、働きながら小説に没頭し、家庭を顧みない夫との関係を描く「玩具」で津村が受賞したのは、NHK教育テレビ「おかあさんといっしょ」が1959年に放送開始されてから6年。時代は、母親の育児、介護を当然視する空気が濃厚で、受賞作は、家庭を大事にしない夫の姿を、平凡な主婦の視点でフィクションにした。

小学校4年の息子と5つになる娘の母でもある津村の受賞をマスコミは放っておかなかった。受賞翌日はNHKをはじめ、「木島則夫モーニングショー」や「小川宏ショー」など民放朝の人気番組から昼の番組まで次々出演、オシドリ夫婦作家の夫のこと、主婦との両立の大変さなど質問攻勢にあった。

妻に賞を先んじられた吉村のことも話題になり、津村には、心からの喜びがわいてこなかった。しかし、津村の受賞に、「しめたっ!」と思ったのが夫の吉村昭で、妻に「1年間、おまえのヒモになる」と宣言した。津村は友人の瀬戸内寂聴との対談で、当時を振り返っている。

「私が賞をいただいてから、吉村は専務取締役を務めていた兄の会社を辞めたの。おまえのヒモになるって(笑)。兄は「“髪結いの亭主”はイヤなもんだよ。1年経って、芽が出なかったら、また戻ってこい」と言ってたんだけど、それからほどなくして『星への旅』(新潮文庫)で太宰治賞をもらって、『戦艦武蔵』(同前)を書いて、戻らずにすんだ」(「文藝春秋」2011年9月号「吉村昭没後5年追悼対談」より)

吉村は以降、戦史小説や歴史小説、『三陸海岸大津波』など記録文学の秀作を残し、1973年、芥川賞をつくった作家で実業家の名を冠した菊池寛賞を受けた。

「玩具」の主人公は専業主婦だが、津村は結婚し、赤子を背負いながら原稿用紙に向かった作家でもある。小説で世に出たい吉村の焦慮をわかりすぎるほどわかっていた。夫のヒモ宣言に、津村は異存がなかった。

2006年に79歳で死去した吉村は生前、「妻は確かに小説を書くが、その前に完璧な女房です」と感謝していた。

津村節子

津村節子

1969年 第61回受賞作 
「赤頭巾ちゃん気をつけて」庄司薫

「女の子にもマケズ ゲバルトにもマケズ 男の子いかに生くべきか─/これは、実は僕の本『赤頭巾ちゃん気をつけて』の表紙の帯に書かれたキャッチフレーズです。僕の解釈では、このキャッチフレーズは「女の子もくどけずゲバルトもできないと、男の子はどうなるか?」とでもいった設問を、より詩的に表現してくれたものと思うのですが、とすると答えは明らかのようです。要するに、それじゃあサマにならない!」
(「文藝春秋」1969年11月号 「若者はいつもサマにならない」より)

庄司薫

庄司薫

いい文学は時代を映すクリアな鏡である。読み継がれる小説は鮮度の落ちないニュースである。芥川賞は、これまでいくつかの大ヒット作品を生んできた。このうち昭和のミリオンセラーには特徴がある。柴田翔「されど われらが日々―」(1964年、第51回受賞作)しかり、「女の子にもマケズ ゲバルトにもマケズ」のキャッチフレーズで出た庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」しかり、学生運動が背景にある。

いずれも運動の旗を振り、時代の先端を走る学生を描いたものではない。「されど われらが日々―」は、1950年代後半、武装闘争路線を放棄した日本共産党の方針に挫折した学生達の青春群像を描いている。「自由」「純粋」をひたむきに求め、観念にがんじがらめとなる若者の姿は時代を越えて読み継がれ、直木賞作家、小池真理子は「柴田翔は青春のバイブルでした」という。

「私たちの世代は、きっと老いやすい世代なのだ」という末尾近くの文章が有名な「されど」が鈍色の青春小説なのに対して、「赤頭巾ちゃん気をつけて」というちょっと人を食ったタイトルの小説は、東大闘争で東大受験が中止になった年が舞台で、主人公の語り手はエリート高校の3年生「薫くん」。情報洪水と価値相対化の真っ只中で困惑する青春の姿を軽やかに描いたものだ。目指す東大の入試がなくなり、「可哀そうだ」と世のママたちから紋切り型のレッテルを貼られて、やれやれと思いながらも愛想よくし、足の親指の爪がはがれ、診てもらった色っぽい女医さんにカーッとしても身動きもできず、結局どこに行っても「ジタバタ」「モタモタ」。要するに何をやってもサマにならず、「つまりお行儀のいい優等生で、将来を計算した安全第一主義者で、冒険のできない卑怯な若者で、きざな禁欲家で、(中略)保守反動の道徳家でetc etc etc ……(あーあ、ぼくはほんとに自分への悪口にかけちゃ誰にも負けないってわけなんだよ)。」と饒舌に内省するさまを描いている。この作品は1969年の「中央公論」5月号に発表されるや、編集部には「庄司薫とは、いったい何者であるのか、知りたくてうずうずしているのです」(学生 17歳)などの投書や電話が殺到した。

実は、主人公と同じ名前の著者は、若者ではなく、1958年の第3回中央公論新人賞を、東大在学中に本名で書いた「喪失」で受賞、それから10年近く沈黙していた32歳の作家だった。ペンネームの姓は、本名の福田章二からとり、名前は主人公と同じ「薫」にした。

三島由紀夫が推奨

火野葦平が向き合った戦争もそうだが、騒乱に発展する運動や大災害も、その真っただ中にいると、なかなか言葉は熟成しない。いい小説を書くには文学表現を発酵させる時間がいる。「赤頭巾」は、「若々しさの真っただ中」ではない庄司薫が、ゲバ棒を振り回し、「他者を否定」するのでも、当時流行ったフリーセックスに走るのでもなく、ジタバタしながら、「大きくて深くてやさしい海のような男になろう」と「他者を肯定」する物語にしたからこそ、長い間、若者に大きな支持を受けてきた純文学にして面白い小説となった。

選評で「才気あふれる作品」と評した三島由紀夫は、単行本に帯文を寄せている。

「過剰な言葉がおのずから少年期の肉体的過剰を暗示し、自意識がおのずからペーソスとユーモアを呼び、一見濫費の如く見える才能が、実はきわめて冷静計画的に駆使されているのがわかる。「若さは一つの困惑なのだ」ということを全身で訴えている点で、少しもムダのない小説というべきだろう」

庄司薫は、都立日比谷高校で芥川賞作家古井由吉(第64回「杳子」)や『ローマ人の物語』などで知られる作家、塩野七生と同級生。「赤頭巾」の中で、「中村紘子さんみたいな若くて素敵な女の先生について(中略)優雅にショパンなど弾きながら暮そうかなんて思ったりもするわけだ」と書いたのがきっかけとなり、本当にピアニストの中村紘子と結婚、マスコミの注目を集めた。ここにも芥川賞の力があった。

1976年 第74回受賞作 
「岬」中上健次

「力を貸してくれたすべての人々に、感謝したい。死んだ人と生きている人の、激励の声を、ぼくは、いま、耳いっぱいに聴く。声に、はじらうことも、すくむことも、てらうこともなく、小説家として、しっかり、大地に立ちたい」
(「文藝春秋」1976年3月号 中上健次の受賞のことば)

中上健次

中上健次

一夜にして有名になる新人の人柄を知りたいのは人情である。稀代のジャーナリストでもあった菊池寛は、第1回の発表から「受賞のことば」を書かせている。いかにも新人らしく、おおむね殊勝である。

時に29歳。戦後生まれでは初の芥川賞を受けた中上健次は荒ぶる作家として記憶に残るが、受賞のことばは意外なほどおとなしい。が、受賞決定当日、新橋第一ホテルで行われた記者会見はマスコミの度肝を抜いた。それを伝える読売新聞「人間登場」(1976年1月16日朝刊)は、のっけからすごい。

「ホテルの受賞者会見場にあらわれたとき、すでにできあがっていた。知らせを待つ間、近くで飲んでいた酔いが決定でどっと回ったのだろう」

受賞作「岬」は作者の故郷の岬を舞台に、複雑な家庭に生まれ、肉体労働をする若者の鬱屈を、スコップで土を掘り起こすような荒々しく、瑞々しい文体で描いた。それは紀州・熊野の神話につながる、大地とへその緒がつながったような小説で、そこには高度成長で取り残された世界があった。文体そのままの生きのよさで一気に語る中上の会見のことばに、ホワイトカラーの報道陣は息を呑んだ。

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