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山内昌之「将軍の世紀」|北方問題の開幕 (4)「一向別々」へ、松平定信と本多忠籌

歴史学の泰斗・山内昌之が、徳川15代将軍の姿を通して日本という国のかたちを捉えることに挑んだ連載「将軍の世紀」。2018年1月号より『文藝春秋』で連載していた本作を、2020年6月から『文藝春秋digital』で配信します。令和のいま、江戸を知ることで、日本を知るーー。今月登場する将軍は、第11代・徳川家斉です。

※本連載は、毎週月曜日に配信します。

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 青嶋俊蔵の報告にはもっともな指摘が多い。しかし彼は寛政二年、定信の忌諱に触れて遠島処分を受けまもなく病死した。普請役見習の青嶋は、「内実蝦夷地騒動糺(ただし)のために候得ども、表向俵物御用として差し遣わされ」たはずである。にもかかわらず、松前藩重役の接触に応じて「間者」の身分を隠さず、松前藩の内情をじかに探った行為が越権とされた。情報収集にあたる間者が身分を明かすのは、戦のさなかに「返り忠」をしたも同然の「軽からざる義」だと定信の怒りは深い。田沼時代の天明六年出張の時、松前城下の遊女屋で「遊女買揚遊興」したのは、松前藩の警戒する「公儀役人」として軽率だったばかりでない(『蝦夷地一件(五)』一三、一五、一九、二〇、三一)。青島がもともと田沼意次の蝦夷開発論の系譜を引く人物だったのも定信には面白くなかったはずだ。

 しかし、もともと騒乱の原因を作った松前藩は家老以下三名の押込三十日、飛驒屋は藩場所交易から外される制裁を受けながら、幕府は手先・下代の「不埒の儀は相聞えず候」と咎めなかった。この問題に触れた先駆者・故照井壮助氏は哭するかのように、「功ありながら賞せられず、労多くして慰めを得られず」、囹圄(れいご)に繋がれて病死し弔いも許されずと表現している(『天明蝦夷探検始末記』)。蝦夷地問題という自分の専門領域で発言した青島は、幕閣の内部亀裂、一橋治済と定信の不和、御三家と定信の連合、定信の政権永続化への野心など、新たな権力ヘゲモニーの行方と自分の言動が関わったことを知る由もない。それは、松前藩を対ロシア防衛の最前線基地として再編する定信のリーダーシップと、ロシアの登場する大きな北方問題の新たな機微に青嶋が無意識に立ち入ったのが定信の逆鱗に触れたのだ。

 定信と本多忠籌(ただかず)は、寛政元年冬から「一向別々」になり、忠籌も今度は「錠がおりた」というのは、定信に心を閉ざしたということだろうか(『よしの冊子』十二)。忠籌でさえ「しくじるから西下ハこわい」とされたのは、蝦夷地やロシアをめぐる政策が微妙に食い違うようになってきたことも指すのか。クナシリ・メナシの蜂起後、定信はクナシリに外国の者が入れば「おひはらひ」すべきだと松前藩による今後の軍事行使を認めた。側用人となった天明八年に弾正少弼から大弼に官途名を変えた忠籌は、松前藩だけでは手にあまるので、クナシリやエトロフのアイヌが「赤人」(ロシア人)に慰撫されないように帰服を促すために、幕府も関与して二段構えでロシアに備えるのが有効だと唱えた。それでも、この段階ではまだ、定信の主張を補強する体をとっている(「寛政改革期の蝦夷地政策」)。

 実際に、本多忠籌には北方問題をロシアを防ぐ安全保障の面からますます論じがちな定信と違って、アイヌ民族問題の漸進的解決こそ北方安全保障の要だと考えていたフシもある。寛政二年三月に久世広民へ直に渡し翌日返された「蝦夷地風聞」なる文書には、定信と異なる忠籌の個性がうかがえそうだ。「もっとも命は助け遣し申すべき趣申し聞かせ候につき月ノ井(ツキノエ)と申す長、走り廻り、蝦夷人どもを三十人余召し連れ参り候由、然るところ三十人余の蝦夷どもを明き家え押込め置き候て、一両人つつ呼出し、外とにて首を討ち申し候由。右の音を承り、蝦夷は以(もって)の外驚き、俄に騒ぎ立ち、大声申し発し、既に明き家を押し破りいで申すべき勢いに狂ひ立ち候につき、松前の人数槍を以て家の外より突き死なせ候て、戸を開き、頭立ち候者七人の首を持ち帰り、松前表におゐて獄門に掛け候由」。

 結果としてツキノエが松前藩のむごい謀殺を手引きした印象を与え、彼を恨み怨を晴らそうとする者が出現して当人も困惑する。「惣て松前家政道宜しからざる趣を申し、蝦夷ども一統に遺恨を含み居り候由」という指摘は、信頼という安全保障の安定基盤を内から毀す松前藩の悪政に忠籌がすこぶる批判的だからだ。そのうえ、「彼地はアカヒトなど申す所へも通路これある儀」であり、赤人(ロシア人)との変事もこれから出来しかねないと松前あたりで噂しているという指摘は、忠籌が情報力ばかりか分析力にも秀でていたことを示唆する(寛政二年三月廿六日付、『蝦夷地一件(五)』二四)。

 忠籌の視点は、「其地を得も国ニ無益、其地を失も国に無損」という老中・松平乗完(のりさだ)の無定見な発言とは裏腹に、安全保障と国土開発と民族問題の解決を統一的にとらえるバランス感覚に富んでいるのではないか。「天のその地を開き給はざるをこそ有がたけれ。今蝦夷に米穀などおしへ侍らば、極て辺害をひらくべし」という定信の発言も地政学的危機感に随分と鈍いように思える。乗完や定信は、蝦夷地を放置するとロシアがやがてサハリンや千島列島や沿海州に南下する結果として、幕藩体制国家の防衛線が津軽海峡まで下がらざるをえない理屈を洞察できたのであろうか。とはいえ、松前藩は後に二度内地に転封させられた。定信は必要とあれば、松前藩を父祖墳墓の渡島半島から引き離すことに痛痒を感じなかったであろう。

 しかし、忠籌とまだ訣別しきれない定信は北方問題の危機に直面して、松前藩にアイヌ蜂起の総括とロシアの動きへの分析を示すように厳しく求めた。その回答は寛政二年四月に出された五条の「蝦夷地改正」である。第一条は、「東西蝦夷地場末」における交易を「旅人」(他国商人)にまかせず、自前の船と家来にアイヌを「介抱」「帰服」させる。第二条は、交易の「稼方」には他国者でなく松前領の百姓を使うこと。第三条は、場末として東のアツケシと西のソウヤに番所を置き、冬季に結氷する自然環境の厳しさを考慮し、アイヌへの手当を厚くし、「異国境」をきちんと見分しながら、場末の取締りに留意する。第四条は、家来の支配する場所まで「制度」(支配地)の最前線を守る。第五条は、「外国の儀」もあるので武備を怠らず「急変」の際には烽火で連絡すること、他に「遠境の蝦夷地幷島々異国境」まで毎年家来を派遣して地理・方角・人物を見究めて物事を定めるというのだ(『蝦夷地一件(五)』二九)。

 交易の現場はもはや「松前」でなく、遥かに離れた蝦夷地つまり「場末」まで広がっている点に注意しよう。五条から成る「蝦夷地改正」では、近世初頭の藩祖・松前慶広いらいアイヌと交易してきた場所を「場末」と認識し、その「異国境」の先に「急変」事態に即応できる軍備の必要な「外国」(ロシア)の存在が明示された。改正には、松前藩に幕府の地政学的認識につながる危機感を共有させたい定信の思惑や、アイヌ撫育や帰服の重要性を松前藩に理解させたい忠籌の信念も含まれている。これは松前藩の情報収集の成果であろうか。「場末」の番所とは国境哨点に他ならず、「異国境」の先にはロマノフ朝ロシアと清朝中華帝国という「外国」が姿を現していた。松前藩による蝦夷地統治の確認は、家康が慶長九年(一六〇四)に松前慶広に安堵した交易・商売独占権を軸とする蝦夷地支配の時代と異質な状況が到来したことを示している(『近世蝦夷地在地社会の研究』。「寛政改革期の蝦夷地政策」)。

 松前藩が須原屋の大名武鑑に大名として登場するのは、深井雅海氏と藤實久美子氏の労作『江戸幕府大名武鑑編年集成』に関する限り、享保七年刊の『享保武鑑』からである。そこには「蝦夷松前一円先祖より代々これを領す」とあり、いま話題にしている時期に近い寛政二年刊の『寛政武鑑』でも変わらない。この「一円」の範囲は曖昧であったが、寛政二年の「蝦夷地改正」に出てくる「東西の蝦夷地番所」「場末」「異国境」といった言葉で「一円」も遡及的にイメージを結ぶようになったのではないか。それは、現在の北海道にクナシリとエトロフを加えた領域、時にはそれに「異国境」が漠然としたカラフトも入れた地域がイメージされるようになったと言えよう。すると、別の厄介な問題が生じる。それは、これほど広大な陸海域を果たして松前藩という無高の大名で押さえきれるのかという疑問が再び生じるということだ。定信が松前藩の限界を知らぬはずはない。クナシリ・メナシ蜂起後に定信がアイヌの農業教化論を出し、忠籌の蝦夷地開発論に歩みよったのは、不毛の地であってもシベリアからアラスカ、カラフトから北千島まで植民地化するロシアのダイナミズムに直面していることを今や悟ったからではないか。それでも定信が幕府の直領化に消極的だったのは、蝦夷地経営の負担が膨大で寛政改革の財政健全化を妨げることを知っていたからだ。

★次回に続く。

■山内昌之(やまうち・まさゆき)
1947年生、歴史学者。専攻は中東 ・イスラーム地域研究と国際関係史。武蔵野大学国際総合研究所特任教授。モロッコ王国ムハンマド五世大学特別客員教授。東京大学名誉教授。
2013年1月より、首相官邸設置「教育再生実行会議」の有識者委員、同年4月より、政府「アジア文化交流懇談会」の座長を務め、2014年6月から「国家安全保障局顧問会議」の座長に就任。また、2015年2月から「20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会」(略称「21世紀構想懇談会」)委員。2015年3月、日本相撲協会「横綱審議委員」に就任。2016年9月、「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」の委員に就任。
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