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小説「観月 KANGETSU」#54 麻生幾

第54話
納戸(1)

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※本連載は第54話です。最初から読む方はこちら。

「まさか……田辺の身柄を確保できんかったわけじゃ……」

 涼は目を見開いて正木を見つめた。

「そんまさか、だ! クソッ!」

 正木は吐き捨てた。

「佐賀と福岡の両県警の協力もあったんですよね?」

 涼が納得できない表情を浮かべた。

「奴が運転する、もしゅうは乗った車は、途中の出口で降りたが、PC(パトカー)が間に合わんかった……」

 正木が溜息を吐き出した。

 しばらくの沈黙後、涼が明るい声で言った。

「しかし主任、これで田辺は明らかに逃亡の意図を持っち行動しちょんこたあもはや明らかです。エヌ(自動車ナンバー自動読み取りシステム)にかかると同時に、本犯としち全国に指名手配をかけましょう!」

「たまにはお前もセンスんいいこと言いなさんな」

 正木が苦笑した。

「よし、すぐにそん手配を行う」

 正木が語気強く言った。

10月8日 杵築市

 足を使わずに腰を落としたまま階段を1段ずつ降りた七海は、Tシャツとスエットズボンのまま、寝ぼけ眼をパチクリさせてキッチンとリビングを見渡した。

 どこにも母の姿はなかった。

 七海は、あっ、そっか、と、昨夜、寝る前に母が言っていた言葉を思い出した。

──明日は朝早うから、商工会女性部の事務所へ出かくるけんね。

 七海は、キッチンの壁に掛けられたカレンダーへ目をやった。

 10月に入ってから、毎日の日程の中に、母の予定がギッシリ詰まっている。

 それもこれも、ある1日とその翌日の欄に書かれた「観月祭」の準備のためだ。

 2日間に渡って開催される観月祭では、約1万個もの行燈(あんどん)や竹園灯籠(たけとうろう)の雅(みやび)で、幻想的な光が城下町の漆黒の夜を埋め尽くす。

 その行燈や竹灯籠に火を灯して廻るのが、杵築市商工会女性部の女性たちである。

 ただ彼女たちの役目はそれに留まらない。

 観月祭の本番を迎えるための広報活動に始まり、チラシの配布なども、市の観光協会と一緒にやることになる。

 だから観月祭の約1ヶ月前から毎日、忙しくなるのだ。

──母が観月祭に携(たずさ)わっちからどれくらいたつやろうか……。

 七海が物心ついた時にはすでに、9月下旬から観月祭が開催される10月中旬まで、母は朝から夕方までほとんど家にいなかった。

 だからその約1か月間、小学校の1年生の頃より自分は、いわゆる鍵っ子で、朝は一人で玄関のドアを閉めて、家に帰っても夕方に母が帰宅するまでずっと一人だった。

 父親はと言えば、1年中いつも忙しく、早朝家を出ると夜遅くまで帰って来ない。勤務先がある大分駅まで電車でも1時間ちょっとかかるので、出勤時間の2時間前には自宅を出なければならなかったからだ。

 しかも父は、土曜日や日曜日も仕事に出かけることが多かった。

 観月まえのその1ヶ月間、何かと声をかけてくれたのが、あのパン屋の熊坂洋平だった。

「七海ちゃん、お留守番、一人で偉えなぁ」

 そう言って訪ねてきてくれた熊坂洋平は、菓子パンを2つ、3つ置いていってくれたものだった。

 その時、七海の脳裡に、ストレッチャーで運ばれてゆく熊坂洋平の姿が浮かんだ。

──しょわなかったん(大丈夫だったの)かしら……。

 七海は2階の自室の机の上にある携帯電話のことを思った。

 涼の様子を訊いてみようかとふと思ったからだ。

 でもすぐに顔を左右に振った。

──よう言わるるけんど、男と女って、ほんと、細い線でしか結ばれちょらんのね……。

 小さく溜息をついた七海は、杵築名産のかまあげちりめんに大根おろしをたっぷりまぶし、刻みネギを加えた大好物のおかずだけでご飯を2膳も平らげた。

 ごちそうさま、と言って食卓に立てかけていた松葉杖を掴んだ七海は、自分の食器をシンクに片付けてから階段を登った。

 昨夜よりもそう無理をせずに階段を登ることができた。

 廊下を進んで自分の部屋へ向かおうとした、その時、七海の視線がふとそこへ向かった。

(続く)
★第55話を読む。

■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生れ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。
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