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連載小説「李王家の縁談」#9 |林真理子

【前号まで】
韓国併合から十六年経った大正十五年(一九二六)。佐賀藩主の鍋島家から嫁いだ梨本宮伊都子妃には娘が二人いた。長女の方子は、韓国併合後に皇室に準ずる待遇を受けていた李王家の王世子、李垠に嫁ぐ。続いて次女、規子の婚姻に伊都子は奔走する。が、山階宮武彦王の縁談は流れてしまう。

★前回の話を読む。

 梨本宮家の次女、規子(のりこ)女王と広橋真光(ただみつ)伯爵との婚儀は、大正十五年十二月二日にとり行なわれた。

 山階宮家から破談を言い渡されたのが七月であったから、わずか五ヶ月後の早技ということになる。

 我ながらよくやったものだと伊都子(いつこ)は思う。婚儀までほとんど間を置かなかったことから、規子にさほどの醜聞は立たずに済んだのである。

 実のことを言うと、ある事件によって伊都子は大きな教訓を得ていたのである。

 それは二年前、皇太子と久邇宮良子(ながこ)女王との婚儀が行なわれた直後である。皇族、華族だけではなく、多くの政治家まで巻き込む大事件が発生した。

 皇太子妃の兄にあたる、久邇宮家の嫡男、朝融(あさあきら)王が、酒井伯爵家の娘、菊子との婚約を破棄したいと言い出したのである。これには皇族の面々も宮内省の者たちも仰天した。長年にわたって良子女王との婚約をめぐり、さんざん問題を起こした久邇宮家である。あのとき当主の邦彦(くによし)王は、

「綸言汗のごとし」

 と言い張り、良子と裕仁皇太子の婚約を絶対に破棄せぬよう皇后に直接訴えた。そして最後には、

「婚約を破棄された場合には、娘を殺して自分も死ぬ」

 とまで言ったのである。その彼らが、今度は被害者から一転して加害者の側に回ったのだ。菊子の貞操に問題がある、いや、そんなものは言いがかりだと、元の姫路酒井家藩士たちまで出てきて、宮内省では一時、朝融王の臣籍降下を求める声さえあったほどだ。

 結局は酒井家の方から辞退ということで結着をみたのであるが、ここで近しい者たちが奔走して、菊子の新たな婚約話を決めた。相手は前田利為(としなり)侯爵である。なんと婚約解消発表から三ヶ月足らずで内輪の結婚式が行なわれた。前田家は元金沢藩主で、裕福なことで有名である。妻に死なれた利為は再婚になるが、夫婦仲もよくすぐに子をなした。

 すばやく次の結婚相手を決めたことで、破棄された側の女は体面を保つことが出来たのである。そして世間の同情も買うことが出来るという好例を、伊都子は久邇宮家から学んだのだ。

 幸いなことに、広橋との縁談は、すべてこちらが主導出来た。一日も早い婚儀をという要求も、すぐに呑んでくれたのである。

 その代わりすべてを簡略化した。花嫁道具も最低限のものを三越で揃えた程度である。念入りにつくらせた食器、調度品や呉服の類は、山階宮家の紋が入っているためすべて蔵の中に入れた。ティアラやローブデコルテはそのまま持たせたが、伯爵家ならば使うこともあるまい。外遊に出かける身分ならともかく、真光はいち内務官吏なのである。

 救いといえば、規子が無邪気に幸せに酔っていることであろう。

 広橋家は代々続いた公家の名家の家柄であるが、真光は現代風の、目が大きく愛敬のある顔をしている。帝大の庭球部で鍛えた体は、胸板が厚くがっちりしていた。早く父親を亡くし苦労したわりには明るい性格で、たえず冗談を口にし、規子はそのたびに笑いころげる。二十四歳と十九歳の二人は、相手に夢中で、親の前でも、うっかり手をつなぐのには驚いた。まるで自由恋愛で結ばれた二人のようである。

 伊都子はつくづく思い知らされた。

 やはり娘というのは、若い男が好きなのだ。あたり前といえばあたり前であるが、伊都子の時代は、そんな気持ちが芽生えることさえ罪だと思った。結婚の条件は、まず身分が釣り合うかどうかということで、それは親が吟味する。

 好きな者同士が結ばれるのが幸せ、などというのは、何も持たぬ庶民の価値観だ。天皇家のすぐ下にいる皇族の結婚は、最終的にはお国のためにあらねばならぬ、と伊都子は考えていた。このたびの真光と規子の結婚は全くの偶然だ。山階宮の発病、破談がなければ、結ばれるはずがない相手であった。

 ただ母の栄子(ながこ)は、この縁を大層喜び、

「固苦しい宮家よりも、貧乏な華族の方が気軽でよかったのではないか」

 と口にしているのであるが、そう割り切れる伊都子でもなかった。

 昔、留学中の守正の元に行くべく、欧州へ向かったときのことを思い出す。皇族ということになると警備が大変になる。よって伯爵夫人という肩書きで日本郵船の船に乗った。船には留学生が何人もいて、美しい貴婦人に狎れ狎れしく近づいてきたものだ。彼らは「奥さん」と呼んで、酒をすすめたりする。マルセイユで下船した時、初めて皇族妃ということがわかり、彼らの代表者が青くなってわびを入れた。伊都子は笑って許し、迎えに来た守正に彼らを紹介した。このことは旅の楽しい逸話として思い出に残っているのであるが、今となってみれば皇族と華族の差を、まざまざと見せつける記憶となった。女王殿下と呼ばれていた規子は、これから「伯爵夫人」と呼ばれるのである。しかもこの伯爵は、大層貧乏だ。これといった財産もなく、学生の弟もいる。

 伊都子は人に頼んで、貸家を探してもらい、ようやく梨本宮邸の近く神泉に、牧野伸顕の家を見つけた。同じ伯爵でも、家柄だけの公家と違い、こちらは明治の元勲の家系である。大金持ちの伯爵は、都内に使わない邸宅を幾つか持っていて、それを貸してくれることになったのだ。若い官吏の新婚生活といっても、女王が降嫁するからには、使用人の数人も置かなくてはならない。規子には月々五十円の化粧料を渡すことにした。

 それから鍋島家を継いだ、腹違いの兄直映(なおみつ)から五万円、母栄子から二万円、皇后陛下から五万円という大金が下賜された。ここから式と披露宴の費用一万五千円をひいたものを若夫婦の財産とした。これを梨本宮家の資産担当者が運用してやることにしたのだ。帝大卒の初任給は七十五円とされているが、これでかなり余裕のある生活が出来るはずだ。

 十二月二日、牧野伸顕伯爵媒酌で、神泉の新居において結婚の儀がとり行なわれた。そして夜は、久邇宮、朝香宮夫妻、鍋島栄子といった人々で本当にささやかな宴を持ったのである。

 このような質素なことをしても許されたのは、天皇の死が刻々と迫っていることを誰もが知っていたからである。そしてもうひとつ、規子の姉夫妻が喪に服していたこともあった。今年の四月、王世子(おうせいし)の兄・純宗(スンジヨン)王は長い療養の末、息をひきとったのだ。死を見取った王世子であるが、そこで即位の礼が取り行なわれたわけではない。日本に併合されて朝鮮という国はなくなっていたため、朝鮮王室も存在しないからである。ただ二十八代の王を継ぐ、という立場だけは残った。

 六月に二人は帰国したが、喪中ということで規子の結婚式には出られず、伊都子はつらい思いをした。

 しかし十二月二十一日、方子(まさこ)は王になった男の妃殿下ということで、急きょ勲一等宝冠章が下されることになったのである。宮城(きゆうじよう)での拝授式には皇后が立ち会ったが、その日のうちに葉山の御用邸に帰られた。その厳しい顔つきから、陛下の容態が予断を許さないものだと、まわりのものは感じとった。

 実はその前から、伊都子たちは宮内省から、

「皇族の方々は、なるべく早く葉山にいらした方がよろしいかと」

 という連絡をもらっていたのである。逗子ホテルを借り切り、梨本宮家の一行は待機していた。

 二十四日夕刻、電話で知らせを受け、皇族たちは御用邸に詰めることとなった。広い座敷に集まり、“寝ずの番”をするのである。いくら葉山といっても、師走の日本家屋は大層寒い。しんしんと体に伝わってくる冷気の中、伊都子は天皇との淡い記憶を、いくつか思い浮かべる。

 昔、鍋島家の別邸は日光にあり、幼なかった伊都子は毎夏、そこですごしていた。東宮時代の天皇にもよく会ったものだ。娘時代、毎日のように別邸にやってきたり、突然愛犬のダックスフントを押しつけたこともある。あきらかに伊都子の美貌に惹かれていたのだ。これには伊都子自身も両親も困惑した。東宮はとうに節子(さだこ)妃と結ばれていたし、伊都子は既に梨本宮家との婚約が整っていたからだ。

 もし梨本宮家との婚約前に、皇太子から所望されていたら、自分はどうなっていただろうか。皇后となり、奥の襖の向こうで、天皇の枕元にはべっていただろうか。いや、そんなことはあり得ない。節子皇后は最良の方だとみなが言う。大層美しかったけれど病弱の、ある皇族女王を、明治の皇后ははねつけられたのである。まず健康でなければならぬと選ばれたのが、陰で「九条の黒姫さま」と呼ばれていた節子姫であった。色黒で活気が体中にみなぎっていた姫は、やがて誰からも誉め賛えられる皇后となられたのである。男子を四人もおあげになった。その聡明さで、ご病弱だった天皇を支えられた。美子(はるこ)皇后はすべておわかりになっていたに違いない。鍋島の娘だった自分など眼中にはなかったのだ。皇室の方々の妃選びは、ほとんど神がかっていて間違いはないのだ。ずっと昔から……。

 やがて奥の部屋で小さなざわめきが起こり、それは皇族たちの部屋にも伝わってきた。

「ご崩御あそばされました」

「ご崩御……」

 その時短かかったが輝やかしい、大正という時代が終わった。

 夜が明けると昭和という時代がやってきた。

 新天皇の朝見の儀、大正天皇の大喪の礼と続いた後、伊都子は疲れからしばらく気が抜けたようになってしまった。

 あまりにもいろいろなことが一時にやってきたのである。山階宮との婚儀に向けて三年かけて準備をしたのに、突然破談を言い渡された。その後必死に相手を探し、わずか五ヶ月で婚礼を挙げたのである。そして、長女方子の義兄が亡くなり、次女の結婚から二十日ほどで天皇が崩御された。

 我ながら本当によくやったものである。言いかえれば、規子の結婚があと一ヶ月遅ければ勅許はもらえず、式はぐっと延期されたはずだ。

 大あわてで新居を探し、媒酌人を頼み若夫婦のために生活もたっていくようにした。

 あまりの疲れから伊都子は二日間、家に閉じこもり、人にも会わなかった。幸いなことに、テーブルには一昨年本放送を開始したラジオがあった。スイッチをひねれば、山田耕筰作曲の歌や、学者の講話などが流れてくる。三浦環の歌声も聞ける。伊都子はすっかり夢中になった。

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