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佐藤優 ヘーゲルを通してプーチンの思考を読み解く ベストセラーで読む日本の近現代史

ヘーゲルを通してプーチンの思考を読み解く

2月24日のロシアによるウクライナ侵攻は歴史を画する事件になった。ロシアの侵攻を力で阻止するためには、米国が地上軍を含む正規軍をウクライナに派遣しなくてはならない。そうなると第3次世界大戦に発展する可能性がある。米国が核戦争のリスクをはらんだ派兵に踏み込めないと読んでロシアのプーチン大統領は戦争を決断したのだ。岸田文雄首相は、米国と連携し、ウクライナを支援する腹を括った。ロシアに対してもG7諸国(日米英独仏伊加)で連携してかつてない制裁を加えた。

特にプーチン大統領の日本における資産凍結を決定したことの意味が大きい。「どうせプーチンは日本にたいした資産なんか持っていないので、実質的な打撃がない」という見方は間違っている。外交的に個人制裁は「お前とは付き合わない」という意味を持つからだ。3月21日にロシア外務省が声明を出して北方領土交渉が停止されることになった。北方領土とのビザなし交流も停止された。日ロの軍事的緊張も強まる。欧米や日本による対ロシア経済制裁の影響で、天然ガス、石油、小麦などの値段が上がり、5月頃にもその影響がかなり及んでくる。この状況で、ロシアの脅威を多面的に研究する必要がある。

そこで重要になるのがヘーゲル哲学だ。プーチン氏は、思想的に亡命ロシア人の反共思想家イワン・イリイン(1883~1954年)の影響を強く受けている。イリインは新ヘーゲル派の学者で、現代ロシアの保守思想のバックボーンを形成している。イリインはヘーゲル(1770~1831年)の『法の哲学』(1821年、1833年増補版)の解釈を得意とした。従って、『法の哲学』を読み解くことで、プーチン氏の思考様式がかなりわかるのである。

ヘーゲルの社会像

ヘーゲルは、哲学は常に後知恵であると考える。

〈現実がその形成過程をおえ、みずからを完成させてしまったあとになって、はじめて、哲学が世界についての思想として時間のなかに現れるのである。(中略)ミネルヴァの梟は、夕暮れの訪れとともに、ようやく飛びはじめるのである〉

ミネルヴァの梟は知恵を象徴する。ある時代の終焉期になってその時代の特徴が解るとヘーゲルは考えるのだ。ヘーゲルの理解では近代が終わりを迎えているので、ようやくその全体像をとらえることができるようになったということになる。

ヘーゲルは、家族、学校、教会、協同組合、国家など人間が形成する共同体を人倫(Sittlichkeit)という言葉で括る。

〈人倫的な実体は同様に、/(a)自然的精神――家族であり、/(b)分裂と現象においてある人倫的実体――市民社会であり、/(c)特殊的意志の自由な自立性のうちにありながら同様に普遍的で客観的な自由として、国家である〉

家族や国家は古代にも中世にもあった。近代の特徴は市民社会にあるとヘーゲルは考える。市民社会で人々はひたすら欲求(欲望)を満たそうとする。市民社会は資本主義と親和性の高い社会なのだ。

〈市民社会はそれ自身の内部において絶えざる人口増加と産業発展のうちにある(中略)欲求を介してのひとびとの結合の普遍化、および欲求を充足する手段を準備し、つくりだす仕方の普遍化によって、富の蓄積が増大する。(中略)他面においては、特殊的労働の個別化と制限とが、そしてそれとともに、このような労働に拘束された階級クラッセの依存性と困窮とが増大する。この階級には、広範な自由の感得と享受が不可能になること、そしてことに、市民社会の精神的長所の感得と享受が不可能になることが結びついている〉

資本主義は経済の飛躍的成長をもたらすが、同時に格差が拡大する。格差が拡大し、社会が不安定になることを防ぐ仕組みが市民社会に含まれているとヘーゲルは考える。

〈市民社会は3つの契機を含んでいる。/A 諸個人の欲求と充足とを、自分自身の労働とすべての他のひとびとの労働および欲求の充足によって媒介すること――欲求の体系(システム)。/B 欲求の体系のうちに含まれている自由という普遍的なものの現実性、すなわち司法による所有の保護。/C 行政と職業団体による、この体系のうちに残存する偶然性に対するあらかじめの配慮と、特殊的な利益の共同的なものとしての管理〉

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