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『わが闘争』アドルフ・ヒトラー(後編)|福田和也「最強の教養書10」

人類の栄光と悲惨、叡智と愚かさを鮮烈に刻み付けた書物を、ひとは「古典」と呼ぶ。人間知性の可能性と限界をわきまえ、身に浸み込ませることを「教養」という。こんな時代だからこそ、あらためて読みたい10冊を博覧強記の批評家、福田和也がピックアップ。まずは20世紀で最も危険な一冊から。(後編)

★前編を読む。

『わが闘争』には何が書かれているのだろうか。

 構成を見ると、「総括」と副題がつけられた上巻は自分の半生とともに自己の世界観、主に反ユダヤ主義について述べられ、十二章から成っている。副題が「国家社会主義運動」の下巻の内容は初期ナチス運動についてで、十五章立てである。

 上巻の第一章は生家の話から始まっているが、ここにヒトラーの活動の重要な目的の一つが示されている。

「今日わたしは、イン河畔のブラウナウが、まさしくわたしの誕生の地となった運命を、幸福なさだめだと考えている。というのは、この小さな町は、二つのドイツ人の国家の境に位置しており、少なくともこの両国家の再合併こそ、われわれ青年が、いかなる手段をもってしても実現しなければならない畢生の事業と考えられるからだ!」

 ヒトラーの主張は演説の過激さから、革命的なものに思われがちだが、実は古い秩序の回復、民族共同体的な復古を唱えている。その根底には、古き良き制度を崩壊させたベルサイユ体制への憎悪がある。

 民族共同体的復古は、彼の好きなワーグナーから発想したものと思われる。ワーグナーのオペラに見られる原始的な物語世界をそのまま、自分たちが生きている世界に適用させようとしたのだ。

 しかし、ベルサイユ体制以上に彼が憎悪したのはユダヤ人だった。

『わが闘争』におけるヒトラーの根本的思想はアーリア人種(ドイツ民族)至上主義である。彼は人類を文化創造者、文化支持者、文化破壊者に分けた場合、文化創造者はアーリア人種のみ、非アーリア人種はせいぜい文化支持者にすぎず、ユダヤ人は憎むべき文化破壊者であるとし、繰り返し「反ユダヤ主義」を説いている。

『ヒトラー「わが闘争」とは何か』の著者であるクロード・ケテルは、『わが闘争』の中に「ユダヤ人」あるいは「ユダヤ民族」という言葉が四六六回登場することを指摘している。

 ヒトラーは偉大なるドイツ民族がユダヤ人と混血することによって社会が没落することを防ぐため、ユダヤ人の排斥を主張する。

 ヒトラーのユダヤ人批難は徹底している。

「アーリア人種に、もっとも激しい対照的な立場をとっているのはユダヤ人である。世界のどの民族でも、いわゆる選ばれた民族より以上に自己保存衝動の強く発達しているものはない」

「ユダヤ民族は、あらゆる外見上での知性的特性をもっているにもかかわらず、なお真の文化、とくに自身の文化を持っていない。なぜならば、ユダヤ人が今日見せかけの文化においてもっているものは、他の民族のものであったのがかれらの手によってほとんどもうだめにされてしまった文化財なのである」

「かれらは遊牧民でもなく、つねに多民族の体内に住む寄生虫に過ぎない」

「ユダヤ主義とは人種ではなく宗教のことであるという、この最初の、また最大の嘘の上に、避けることのできなぬ帰結として、ますます続きの嘘が重ねられてゆく」

 人種、文化、宗教……様々な方向からユダヤ人を批判し、ヒトラーは「ユダヤ人が世界征服をたくらんでいる」と断言し、彼らの排斥を主張する。

 かくも強いヒトラーのユダヤ人憎悪は何に起因としているのだろうか。
ヒトラー自身は『わが闘争』の中で、ウィーン時代に受けた啓示としている。

「あるときわたしが市の中心部を歩きまわっていると、突然長いカフタンを着た、黒いちぢれ毛の人間に出くわした。

 これもまたユダヤ人だろうか? というのがわたしの最初に考えたことだった。

 かれはリンツではもちろんそのような外見をしてはいなかった。わたしはひそかに注意深くその人物を観察した。だがこの見知らぬ顔を長く見つめるほど、そしてその特色をさぐるように調べれば調べるほど、ますますわたしの頭の中で最初の疑問が他の表現に変わった。

 これもまたドイツ人だろうか?」

 このときヒトラーはウィーン造形美術大学の入試に落ちていて、浮浪者収容所に寝泊まりする生活をしていた。そうした生活への不満はやがて社会全体への不満となり、こうした社会になっているのは、実業、医学、ジャーナリズムなど、あらゆる分野で活躍するユダヤ人が世界征服を目論んでいるせいだという結論に達したのだった。

 これを誇大妄想と片付けてしまうのは簡単である。実際、『わが闘争』がドイツ国内で発売された当初は笑いのたねにされていた。しかしやがて、この狂信的な反ユダヤ主義と俗流ダーウィン主義を強行するヒトラーをドイツ国民は支持するようになるのだ、何故個人の妄想がかくも大きな力を創り出せたのだろうか。

 そこには第一次世界大戦が深く関わっている。

 ヒトラーはこの大戦の間、もっとも死亡率の高い伝令として従軍していた。一日で敵見方合わせて五万人が死ぬ戦場において、砲弾や銃弾が飛び交うなかを走り、命令や情報を伝達していたのである。塹壕と弾幕と硝煙と轟音のなかで、彼は戦争こそ人間世界の実相である、つまり地上で起きるすべての出来事は生存競争にほかならないこと、敵を殺さなければ生き残れないことを学んだのだった。

 生存競争、つまりは自分と自らの種が生き延び、発展するための最適の条件を追求することだけが目的となったとき、人間は完全な動物となる。
ヒトラーは、種の保存のために生きているということでは人間は動物と同じであり、ゆえに生存競争での勝利は最大の正義であり、善であり、その目的のためなら全てが許されると言っている。つまり種の発展を阻害するもの、敵を倒し、殲滅することを躊躇することは犯罪であり、あらゆる留保を取り除き、全ての手段を投入して敵を倒し、絶滅しなければならないということだ。

 下巻は第一章の「世界観と党」に始まり、最終章である第十五章の「権利としての正当防衛」の後に結語をもって終わりとなる。

 党の初期運動について述べながら示されているのは、東方、つまりロシアへの領土拡大であり、ナチスが目指す理想国家である。

「……ついには最も優秀な人類がこの地上を獲得し、地球上、地球外の諸領域で自由に活躍する道が開かれるからである。

 われわれはみんな、遠い未来に人類には問題が生ずるだろうが、それを克服するために最高の人種だけが支配民族として、全地上のあらゆる手段と可能性を支持されて、招かれるのだ、という予感もっているのである」

 そのためにユダヤ人を排斥しなければならないということは上巻と同じく繰り返し述べられているが、ユダヤ人のジェノサイドまでは言及してない、
『わが闘争』をヒトラーの犯罪の予告の書とする見方もあるが、それは正しくない。

 この本を書いたときのヒトラーは、ユダヤ人の皆殺しや絶滅が可能だとは思っていなかったに違いない。

 それを、可能だと思わせ、また実行させたのが第二次世界大戦である。

 第二次世界大戦の指導者たちの中で、ヒトラーが異彩を放っているのは、彼だけが、徹頭徹尾アウトサイダーだったことだろう。ルーズヴェルトとチャーチルは、ともにその属する世界における、生来のエリートであり、彼らの人生の目標は生まれ落ちた時からすでに決まっていた。つまり家名に恥じない人間になること、という明確な基準のもとに人生を歩み出した。その点で彼らは、その祖国におけるインサイダーの極みであり、生まれながらにして指導者たることを期待されているような人物だった。

 スターリンは、貧しい生まれではあったが、彼には党があった。党の組織的メカニズムを彼は知悉し、党の生理的血肉と化しており、その点では彼もまた、インサイダーであった。ムッソリーニの場合は、やや複雑である。彼はヒトラーと同様にその党の創始者だったが、第一次世界大戦後にドイツ労働者党のアジテーターとしてデビューする以前には全く政治活動の経歴を持たなかったヒトラーとは異なって、ムッソリーニは社会主義者、サンディカリストとしての豊富な活動経験を持っていたし、また優れたジャーナリストでもあった。

 端的に言えば、ムッソリーニは十九世紀後半に成立した、一つのタイプとしての、反体制的な活動的知識人の類型におさまる人物であり、その点では知的、政治的世界においてはけしてアウトサイダーでない。

 ニーチェを愛読し、古今の哲学から文学に通じていたインテリのムッソリーニに対して、ヒトラーの知的素養は、まことに貧しいものだった。音楽、とくにワグナーに対する熱狂と、一部の建築と美術に対する蘊蓄を除けば、ヒトラーは全く教養の世界とは無縁だった。

 軍隊においても、たとえばド・ゴールがそうであるような生粋の軍人としての教育と身分とはまったく無縁だった。ヒトラーは勇敢な兵士だったが、彼にとってふさわしい場所は、砲火とどろく前線だけであった。ただ戦場においてだけ、彼は生き生きとし、必要とされていた。

 ヒトラーを恐れるとしたら、その楽天性ではないだろうか。

 種の保存をめぐる激烈な闘争の場である戦場において、ヒトラーは厭世的になることなく、「私はこの世界が好きだ!」と叫び、世界を肯定した。この楽天性こそが彼をして世界を震撼させる恐ろしい一連の事件の指導者としたのだ。

『わが闘争』にはヒトラーの楽天性が如実に現れている、

「人類堕落の時代に自国の最善の人種的要素の保護に没頭した国家は、いつか地上の支配者となるに違いない。

 いつか犠牲の大き過ぎることが、予想される成果と比較して不安な気持に誘うようなことがある時には、わが運動の信奉者はけっしてそのことを忘れないでほしいものである」
(『わが闘争 下』結語)

(完)


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