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『赤と黒』スタンダール(前編)|福田和也「最強の教養書10」#5

人類の栄光と悲惨、叡智と愚かさを鮮烈に刻み付けた書物を、ひとは「古典」と呼ぶ。人間知性の可能性と限界をわきまえ、身に浸み込ませることを「教養」という。こんな時代だからこそ、あらためて読みたい10冊を博覧強記の批評家、福田和也がピックアップ。今回の1冊は、フランスを代表する作家による、世界的な名作小説。(前編)

 文学にさほど詳しくない人でも、スタンダールの『赤と黒』は知っているのではないだろうか。少なくとも、それが小説の題名であることは認識しているだろう。

 今から一九〇年も前に書かれた『赤と黒』は二十一世紀の現代において、世界的に最も知られた小説の一つといっていい。

 フランスの偉大な作家の代表作なのだから当たり前だと思っている人は、生前のスタンダールについて知ったならば、驚くのではないだろうか。

 何故なら、彼は職業作家ではなかったし、文筆家でさえなかったのだ。ただ自分で書きたいから書き続け、物好きな出版社が彼の書いたものを本にして出版してはくれたけれど、全くと言っていいほど売れなかった。

 一八二二年に出版された、恋の結晶作用の「ザルツブルクの小枝」で有名な『恋愛論』は、十年間で売れたのはたったの十七冊。在庫が船の重石として量り売りされる始末だった。

 彼が死んだときに記事を載せたパリの新聞は二つだけ。葬式に立ち会ったのは、友人の作家メリメを含めたった三人だった。

 まずはスタンダールの生涯について話すことから始めたい。

 スタンダールの本名はアンリ・ベール。フランス革命期の一七八三年一月二十三日、フランスのグルノーブルで生まれた。父のシェリュバンは高等法院の弁護士で市の助役も務める有力者であり、中産階級でありながら、貴族的な生活をしていた。父親は息子を上流の子弟らしく育てようと、近所の子供たちとは遊ばせず、イエズス会の司祭の家庭教師をつけて勉強させた。
心から愛し慕っていた母親が七歳のときに亡くなると、母親の妹、アンリにとっては叔母にあたるセラフィーが家庭を支配するようになり、父、叔母、家庭教師に縛られ、牢獄のような家の中で孤独であったと、後にスタンダールは回想している。

 しかしながら、これはいささか脚色が入っているようだ。妹が二人いて、イエズス会の司祭を家庭教師にして他の子供たちと一緒に勉強する環境にあった彼がそれほど孤独であったはずがない。物を書くようになった彼がことさら自分の子供時代を孤独であったかのように見せかけたかっただけであり、実際は裕福な中産階級の子供として普通に育てられたというのが実際のところだろう。

 ただ権威や束縛に対する反抗心は子供の頃からあり、十一歳のときにルイ十六世処刑の報を聞いて歓声を上げたというが、それは母方の祖父アンリ・ガニョンとその姉エリザベートの影響が強いと、自身で語っている。祖父は自由主義思想を持った医師であり、エリザベートは理想主義のロマンチックな精神の持ち主で、スタンダールをかわいがった二人は、彼の父親と叔母を俗物視していた。

 少年時代のスタンダールは頭がよく、数学が得意だった。十六歳のときに理工科学校に入りたいと希望し、父の許しを得てパリに出たが、実は家を出る口実に過ぎず、受験もせずに、遊んでいた。心配した父親が親戚のダリュー氏に頼み、その息子で陸軍の高官だったピエール・ダリューの秘書になることができた。彼はナポレオンの信任が厚く、第二次イタリア遠征にも同行したのでスタンダールもついて行った。スタンダールは要領がよかったようで、遠征中にミシューという将軍に接近して副官になった。ところが連隊の生活が退屈だったため、病気を理由にグルノーブルに帰り、そのまま退官してしまった。

 この間、スタンダールは一度も戦闘を経験していない。にもかかわらず、後年自分がこの時期の戦闘でどれだけ勇敢に振舞ったかを吹聴するようになる。

 三か月故郷で過ごした後、父親から支援を得てパリに出た。モリエールのような劇作家になりたいと思い、熱心に観劇し、『ルテリエ』など戯曲を書くがいずれも未完に終わった。

 ある演劇学校に入ったところ、彼より二、三歳年上の女優メラニー・ギルベールと知り合い、恋仲になった。仕事を得た彼女がマルセーユに行くというので、ついていき、食料品問屋の店員として働き日銭を稼いだ。メラニーとの仲は一年もたたずに終わり、一八〇六年、スタンダールは再びパリに出た。二十三歳だった。

 またもやピエール・ダリューのはからいで陸軍経理補佐官の地位を与えられたスタンダールは劇作家になることをあきらめ、官僚として立身出世していこうと心に決めた。

 男爵となり、レジョン・ドヌール勲章を授かり、フランスの何処かの県知事となって、王侯にも等しい莫大な収入を得て優雅に暮らすことを夢み、熱烈な共和主義者を自認していたにもかかわらず、父親に金で爵位を買ってくれとせがんだり、勝手に自分の名前に貴族の称号の「ド」をつけて、アンリ・ド・ペールと名乗ったりした。

 愚行の一方、行政官としては有能だったようで、一八一〇年にはパリの廃兵院に豪華な部屋を持つまでに出世した。相当な額の俸給ももらえるようになったので、馬車や御者、下男なども雇い入れ、コーラスガールと同棲するなど優雅な生活を送った。

 しかしそれだけでは物足りず、上流階級の女性を情人にしようと、あろうことが大恩人であるピエール・ダリューの夫人に目をつけた。彼女は夫よりもずっと若く容姿端麗だった。

 とはいえさすがに勇気が要り、友人から助言を得るなどして自分を鼓舞し、夫人と一緒に庭園を散歩しているときに意を決して自分の思いを打ち明けた。

 このときの経験が後に、『赤と黒』の重要な場面に生きることになる。
「あなたは友達としてしか考えられず、夫を裏切るつもりもない」と優しくたしなめられたスタンダールは傷心を癒すためにミラノを旅行する。するとそこで、イタリア遠征時に出会い、思いを寄せていたアンジェラ・ピラトラグルア夫人と再会し、彼女の愛を獲得するにいたった。

 読者の中には、スタンダールが『赤と黒』の主人公ジュリアン・ソレルのようなイケメンだと思っている人がいるかもしれないが、全く違う。

 スタンダールは背が低くむくむく肥え太り、顔もぱっとしない、醜男といってもいい風貌だった。だから彼が女性をくどき落すのにはかなりの苦労がいった。アンジェラがなびいたのはもちろん、上級官吏(帝国財務監査官)となったスタンダールの財力によってに他ならない。

 自尊心を満足させたスタンダールはパリに戻り、気楽な廃兵院の仕事をやめて、ナポレオンのモスクワ遠征に従軍した。

 スタンダールがモスクワ遠征の兵佔部隊で活躍した話は有名だが、そもそもこの遠征に加わったのは正義や国を思ってのことではなかった。スタンダールが自分の妻に邪な気持ちを抱いていることに気づいたピエール・ダリューが、スタンダールに対して冷たくし始めたのに焦り、兵佔総司令官だったダリューの部隊に入って功を立て、ダリューの信頼を回復しようとしたのだ。

 そうした事情があったにしろ、モスクワ遠征におけるスタンダールの活躍が目覚ましかったことは間違いない。退却の際、フランス軍が壊滅的な打撃を受けたベレジナ川の戦いを生き延びたばかりか、傷ついた一人の将校の命を救うことまでしたのだから。このとき、スタンダールは三十歳だった。

 スタンダールの役人生活が終わったのは一八一四年。ナポレオンの百日天下が幕を閉じ、第二次王政復古が始まったときだった。自分では、ブルボン王家に仕えることを潔しとせず、いくつかの重要な役を与えられたが全て断ったと言っているが、あちこち働きかけたけれどうまくいかず、仕方なくミラノに行ったというのが事実のようだ。

 ミラノでは快適なアパートに住み、音楽、絵画、演劇を鑑賞するなどわりに優雅な生活を送った。それくらいの金は残っていたのだ。

 スタンダールはミラノで七年間を過ごしたが、その間に『イタリア絵画史』や『ローマ、ナポリ、フィレンツェ』を出版し、このときから「スタンダール」という筆名を使うようになった。ちなみにこの筆名は、ナポレオンとともに海外遠征をした際にとどまったドイツの小邑の名に由来するといわれている。

 そしてまた新たな恋をする。自分よりも十歳年下の美しいマチルド・デンボウスキー夫人に夢中になるが、全く相手にされなかった。

 父親が亡くなったので、グルノーブルに戻ってみると、あてにしていた遺産は全くなく、逆に父親の借財の後始末をさせられる始末だった。

 一八二一年、オーストリアの官憲からイタリーの愛国者一味との関係を問題視され、ミラノを立ち去らざるをえなくなり、パリに戻った。翌年には『恋愛論』を出版したが、前述した通り、十年間に十七冊しか売れなかった。

 誰も彼を文筆家として認めなかったけれど、話がうまかったので、上流階級のサロンでは人気者となった。そのサロンで、クレマンチーヌ・キュリアル夫人と出会い、初めて自分の愛が報われる恋愛を経験した。四十一歳だった。二人の関係は二年間続き、その間にキュリアル夫人はスタンダールに二百通余りもの手紙を書いたという。四十四歳のときに初めての小説『アルマンス』を出版するが、これもまた売れなかった。

 一八三〇年はスタンダールにとって大きな転機の年となった。七月革命によってシャルル十世が退位し、ルイ・フィリップ国王による王政が始まると、スタンダールにイタリアのトリエステの領事の職が舞い込んできた。ところが自由主義の傾向があるからと、オーストリア政府が許可状を出してくれなかったため、港町のチヴェタへ転任した。以後、死ぬまでそこの領事職にあった。

『赤と黒』が出版されたのはこの年の十一月である。

 この小説は今でこそ、文学史上初の本格的な近代心理小説にして、王政復古下の情勢を活写した政治社会小説と高い評価を受けているが、出版された当時は批評家にも読者にも相手にされず、無視されたも同然だった。

 領事の仕事は退屈で、独り身でいるのも寂しかったので、自分のところに出入りする洗濯女の娘ジュリアに求婚したところ、断られてしまった。

 仕方なく外務大臣に頼んで三年ほどパリで仕事をさせてもらい、その間また新しい恋に夢中になるも、いずれもうまくいかなかった。

 チヴェタに帰任し、『パルムの僧院』を書いて出版。バルザックが賞賛してくれたけれど、それ以外はたいした反応はなかった。

 その後、脳卒中で倒れたため、休暇をもらってジュネーヴに行き、名医に診察してもらった後、パリに戻った。サロン生活を続けていた一八四二年三月のある日、外務省で催された晩餐会に出席した帰り、大通りを歩いているときに再び卒中に襲われ、翌日死去した。五十九歳だった。

 スタンダールは、自分の作品は必ず後世に残ると信じて疑わなかった。作品が認められるようになるには一八八〇年、あるいは一九〇〇年まで待たなければならないだろうと予測し、その予測は見事的中することになる。

                ∴

 近代という自由と平等の諸権利の時代、つまりは家柄、高貴さ、信仰によって全てが隔てられることがなくなって以来、世界は金銭によって支配され、括られてきた。

 それは革命によって王政が倒れ、ナポレオンが皇帝となり、ワーテルロー戦に敗れてセント・ヘレナ島に流されて没し、王政が復活した十九世紀初頭のフランスにおいて、すでに始まっていた。

 フランスの王政復古の時代を背景に書かれた『赤と黒』は次のように始まる。

〈ヴェリエールの小さな町はフランシュ-コンテのもっとも美しい町の一つにかぞえることができる。赤瓦の、とがった屋根の白い家々が丘の斜面にひろがっていて、そこへ勢いよく成長した栗の木の茂みが、丘のごくわずかな起伏までもくっきり描き出している。ドゥー川が、昔スペイン人に築かれ今はもう廃墟になった、町の城壁の下数百尺ばかりのところに流れている。〉
(『赤と黒』桑原武夫・生島遼一 訳)

 この町の町長レナール氏は製釘工場の経営で富を築き、家族とともに切り石造りの立派な家に住んでいる。

 あるとき、町の街路樹が年二回乱暴に刈り込まれることに不満を持った老人が町長に異議を唱えた。すると町長はこう答えた。「わたしは影を大切にしたい。美しい影をつくるために、わたしの樹を刈り込ませるのです。それに樹木というものには、そのほかに用途があろうとは思われません。あの有利なクルミの樹のように、いい収入にならない限りは」。

 この町でもっとも大切なのは、儲けがあることだった。町を美しく整えているのも、旅行者を引き寄せ、彼らが落とす金で宿屋が儲け、入市税というからくりで町が儲かるからなのだ。

 街路樹の樹影のたたずまい、ジュラ山系を背にした景観をすら、「儲け」という視点からしか捉えられない人たちの精神は、まごうことなく金銭に心魂までも奪われた堕落の淵にある。それはまた、美なり趣味なりといったものが、完全に金銭によって相対化され、取引される対象になってしまったことを意味している。

 金銭に拉がれ、世論に制圧された近代社会において、魂のありどころは偽善の底に沈むことになる。

 この町に住む貧しい農家の息子、ジュリアン・ソレルの英雄はナポレオンだった。この徒手空拳の身から世界を席巻した梟雄が巻き起こしたつむじ風の余韻は、まだ青年の睫毛を震わせていた。しかし、今やナポレオンは没落し、自分が武勲によって立身する夢はついえた。そこで彼は僧侶階級に身を投じ、その才知と美貌で貴族階級に食い入り、自らの世界を作り上げていくことになる。それは彼が偽善家として生きることに他ならなかった。

 タイトルの『赤と黒』の「赤」は軍服、「黒」は僧衣を表すと言われている。つまり、ナポレオンのような軍人が英雄として活躍した時代とその後の僧侶などが陰謀をめぐらす王政復古の時代を対比しているのだ。

★後編へ続く。

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