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「愛されるウェブメディアを考える」2/10イベントレポート|岸田奈美×竹下隆一郎×村井弦

2月10日、文藝春秋digital×noteのトークイベント「愛されるウェブメディアを考える」が、ピースオブケイクのイベントスペースで行われました。

▼作家の岸田奈美さん(@nami_mirairo
▼ハフポスト日本版編集長の竹下隆一郎さん(@ryuichirot
▼文藝春秋digitalの村井弦(@MuraiGen1988

登壇者は上記3名で、ファシリテーターは、noteディレクターの志村優衣さん(@yui_shim2)。また、今回のイベントはハフポスト日本版のハッシュタグ企画「#表現のこれから」とも連動して行われました。イベント当日の様子を記事として配信します。

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【テーマ1】デジタル時代の「個人とメディア」を考えよう

――本日のイベントのタイトルは「愛されるウェブメディアを考える」ということで、村井さん、竹下さんというウェブメディアを運営しているおふたりと、個人として発信している岸田さんに「個人が自由に発信や創作ができる時代では、メディアの意義は何なのか?」というテーマで語り合っていただこうと思います。

村井 このテーマは、まさに今、僕がnoteでウェブメディアを運営していてぶち当たっている壁なんですよね。

文藝春秋digitalでは、「文藝春秋」の記事をnoteで配信しています。自分で言うのも変ですが、「文藝春秋」は雑誌としては歴史がかなり長く、知名度もある。だから、noteを始める前は「文藝春秋digitalはそれなりに読まれるだろう」と正直タカをくくっていたんですよ。

ところが実際にオープンしてみると、noteでは文藝春秋digitalが配信する記事より、個人の発信する記事のほうがめちゃくちゃたくさんスキがついているんです。その典型が、岸田さんの記事ですよね。一方、こっちには全然スキがつかないぞ、と(笑)。

つまり、noteでは、メディアより個人の方が共感されている、という事実に直面しちゃったんです。これは課題でもあるんですが、すごく面白い現象だと思って見ています。

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(左から)文藝春秋digitalの村井、ハフポストの竹下さん、岸田さん

竹下 僕はこれからの時代は、個人もメディアも必要なくなるんじゃないか、と思っています。今日イベントに起こしの皆さんに聞きたいんですけど、noteを書いている方ってどれくらいいますか?

(会場の多くの人が手を挙げる)

竹下 すごいですね。パワフルですね。やはり、今は個人の方が圧倒的に有利な時代だと思いますよ。

たとえば、僕は前職で朝日新聞の記者をやっていたんですが、大手メディアの人って、色んな人からよく「雑談はめちゃくちゃ面白いのに、どうして出てくる記事はあんなにつまんないんだろう」って言われるんですよね。

一方で、個人の発信には、大手メディアでテレビ番組とか新聞記事になっていくうちに削られていくようなエモさとかディテールがあります。だから、僕は現在の職場の同僚たちには、「個を爆発させろ」と言っているんです。でも、僕を含めハフポストは新聞記者やメディア出身者が多いので、どうしても制限をかけてしまう。

ただ、最近のオリエンタルラジオの中田敦彦さんがYouTubeの歴史番組で炎上した一件などを見ていると、個人の表現には限界があるのも事実。個人だと、校閲や編集は入らないですからね。

個が失われた巨大メディアにはならないようにしつつ、校閲や編集はしっかり効かせるにはどうすればいいか。そのバランスが一番取れる体制は、チームだと僕は思うんです。強制力とかルールとか編集長の権力ではなく、チームとして組織を回していく。これが重要ではないかと。「個」と「制限」のバランスが取れているところに、クリエイティビティは生まれるんです。ハフポストは組織としてはどんどん大きくなっているんですが、今の「チームっぽさ」はどうにかして今後も維持したいと考えています。

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村井 ウチの会社では、「良い編集者とは黒子に徹するものだ」と言われて育てられるので、これまで編集者や記者は「個」をあまり出さなかったんですよ。

しかし、文藝春秋digitalをやってみて感じたのは、「編集者が個人発信をしないから、月刊文藝春秋を作っている側の想いがウェブの読者にあんまり伝わっていないんじゃないか」ということでした。それが僕のぶち当たった壁であり、今後の課題だと思っています。それもあって、僕は今まで積極的にやってこなかったTwitterやnoteでの個人発信を始めてみたんですね。

竹下 村井さんのnoteは、文章術の記事がめちゃくちゃ面白いんですよ。

たとえば、週刊文春の記者をやっていた会社の先輩に、日産のゴーンさんが逮捕されてから数時間で記事を書き上げた方法をインタビューした記事とか、すごく参考になりました。

村井 当然ですけど、僕ら雑誌の作り手側にも物語や、日頃考えていることが沢山あります。でも、今までそれを言語化してこなかった。noteで文藝春秋digitalをやっているうちに、「僕ら編集者が考えていることを活字にして、で発信したらいいんじゃないかな」と気がついたんです。

すると、予想以上に多いスキが。個人が発信することにみんな共感してくれる時代だということを実感しましたね。今後は、こういう“作り手という個人への共感”を文藝春秋digitalという「メディアの枠組み」にどうやって活かしていくかが一つの課題だと考えています。

――岸田さんは、自分でnoteを書く一方で、メディアでも発信していますよね。何か違いを感じることはありますか?

岸田 ウェブメディアの場合、私は自分のTwitterで記事の告知などをしているので、自分のnoteと比べても、読者がそこまで変わらない感じがします。紙のメディアの場合はやっぱり違いました。『文藝春秋』や『小説現代』などで書かせていただいた時は、今まで反応がなかった人たちから反響がありました。50代、60代のちょっと上の世代の方々とか。「紙の力」って、そういう人たちに届けることなのかあ、と。

読者の反応の違い、ということで言うならば、私の場合は「どこに載せるか」というより「編集の方のカラーがどれだけ入るか」ということの方が変わってくるかもしれません。

たとえば、こくみん共済coopさんのオウンドメディアで記事を書かせていただいた時は、原稿に修正がほとんど入りませんでした。私が書きたいように書いたので、自分のnoteで書いた記事と同じくらいバズったんです。

紙のメディアで書く時は、めちゃくちゃ修正されることが多いです。添削されて、私が書いた文章は5、6割が残るくらいになることもある。私は、あえて文章として成り立っていない変な文章を書いたりするんですよ。口語表現もめちゃくちゃ入れますし。好きな文章のテンポがあるんです。

そういうのが編集判断でカットされちゃって、自分で「これ、面白くないだろうな」と思いながら世に出した記事は、やっぱり伸びない気がします。

その点、『文藝春秋』さんは、紙のメディアとしては珍しいことに、編集さんの修正は、誤字脱字くらいでした。

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村井 そうでしたか。でも、岸田さんが書いた『文藝春秋』の巻頭随筆は、ちゃんと文藝春秋の味付けになっていた気がしたんですが(笑)。

岸田 いやあ、忖度ですよね(笑)。

村井 媒体によって、文体を書き分けたりしているんですか?

岸田 基本、いい人なんですよ 、私(笑)。やっぱり、「こういう風に書いたらこのメディアに喜んでもらえるだろうな」って考えてますね。自分のスタイルを曲げない範囲で。

私はもう10年間くらいミライロというバリアフリーの会社で広報の仕事をやっているんですけど、「『ガイアの夜明け』に取り上げてもらいたい!」と思ったら、『ガイアの夜明け』の過去5年分の放送を3、4日かけて全部見て、取材する人が喜びそうなネタを考えて、営業したりしていました。

今回、『文藝春秋』で書くときも、過去のバックナンバーの巻頭随筆を読んだんです。「これ面白いなあ」とか「こういう感じで書くんだ」って考えて書きました。

村井 すごい吸収力。柔軟ですよね。

岸田 それでも、自分の色は大切にしたいんです。最近は自分の色を入れることができない仕事、つまり自分が書きたいモノじゃないモノを書くのがちょっとしんどくなってきて……やっぱり、自分でその文章を愛せないし。だから、もう本当に生意気なんですが、そんな態度で食っていけるかどうかも分からないけど、そのメディアが「岸田の色」を尊重してくれるのか、くれないのか、という部分で仕事を受けるかどうか決めるようにしています。

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――「書き手の色」ということですが、ハフポストや文藝春秋が、誰かライターに記事を依頼する時には、自分たちの「メディアの色」というのを意識するものなんでしょうか?

竹下 いや、それは無いですね。むしろ、うちの色じゃない人に依頼したいな、と最近思っています。

村井 無いですね。基本的には、頼む人には、「書きたいものを書いてきてください」というスタンスでいます。「もっとこうしたら読まれるんじゃないですか?」というアドバイスをさせていただくことはあるかもしれませんが。

岸田 ニュースの「色」って、めっちゃ難しくないですか? 個人の主観が入ると、情報が正しく伝わらない場合がありますよね。基本的にニュースの読者は事実を知りたい。「鮭が乱獲で減っています! どないなんだ!?」のような記者の「怒り」というよりも……どうやって記者は自分の「色」を出すんですか?

村井 僕が週刊誌時代に教わってきたのは、「記者個人の感情は入れずにとにかくファクト。ファクトでモノを語るのが基本だ」ということでした。だから僕は、記事にどう上手い具合に自分の想い、すなわち「色」を入れたらいいのか分からない、というのが正直なところなんですよね。

ファクトと自分の思いのバランスって、竹下さんはどうやって取っているんですか。

竹下 大事にしているのは想いというより、「視点」です。「自分には世界がこう見える」って書かれた記事に価値が出てくると思います。

その部分、ウェブの世界では少し勘違いされている気がするんですね。「個人の想い」が大事というところが強すぎて、多くのウェブメディアは“想い先行型”になっているのではないかと。

本来、視点を提示することがメディアの役割なんです。メディアが視点を提示すれば、反対派と賛成派で語り合ったり、逆の視点から世界を見てみたり、色々な可能性が見えてくると思います。

【テーマ2】ウェブメディアで「伝えること」とはなにか

――次のテーマにいきましょうか。ウェブメディアの記事は「バズる」ということが一つの評価軸になっている部分がありますね。

一方で、バズることは「伝える」「届ける」こととイコールなのかという疑問もある。たとえば、岸田さんのnoteにはたくさんのスキがついていますし、ツイートにはいいねがついています。「伝わっているな」という手応えはありますか?

岸田 いやあ、わかんないですよね。そういえば、3年間一生懸命貯めたお金で、お母さんと一緒にハワイに行ったんですよ。そしたら、めっちゃいろんな人から声かけられたんですよ。それにはすごいなあ、と思いましたけど(笑)。

それはさておき、私がこれまで書いた代表的なnoteで言うと、「知的障害のある弟が万引きしたんじゃないか?」っていう通称「赤べこの記事」というのがあります。これは80万PV くらいでした。

あと、通称「ブラジャーの記事」っていうのもあります。こちらはもっと読まれて、120万PVくらいでした。

数字だけで言ったら、確かに「ブラジャーの記事」はすごいんですよ。でも、さっきの竹下さんのお話にあった「届かない人に届くこと」に絡めて言うならば、私が伝わって嬉しいな、と思ったのは数字は負けてるけど「赤べこの記事」の方でした。

中には、高校生も大学生も芸能人もいました。知的障害について調べようとも思わなかったし、知らなかった人が「知的障害のある子はこんな風に生きてるんだな」って知ってくれた。そのことが嬉しかった。私は10年間、バリアフリーの会社で働いてきたけど、こんなに多くの人に知ってもらえたことは、一度もありませんでした。

ありがたいコメントが9割くらいだとすれば、1割くらいの批判もありました。たとえば、もっと重い障害があるお子さんのお母さんたちからは「書かないで欲しかった」と言われました。

「知的障害のある子の家族は、全員が幸せなように思えてしまう記事。こういう記事は書かないでほしかった。あなたのせいで、障害者は支援しなくても大丈夫と思われたらどうするんだ」

という趣旨のメールも来ました。みんなに想いを正確に伝えるというのは、すごく難しいと思いましたね。

でも、私は「わが家みたいに楽しくしろ」って言いたいんじゃなくて、伝えたいのは、もっと単純で「うちの家族を自慢させてくれ」という想いだけなんです。ただ、この記事に「ミライロ」という会社の冠がついていたら、会社全体が批判されちゃうから、たぶん書けなかったと思います。

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竹下 そこなんですよね。今の社会問題は、個別具体的に考えないと解決できません。ところが、ライターさんがご自身のTwitterで自分の想いを発信しても、ハフポストの看板で記事を出した瞬間に、「この記事はハフポストがやったんだろ?」となってしまう。そこがすごく悩ましいです。

村井 会社の看板との付き合い方って、すごく難しいですよね。うちの会社の人の場合、ハフポストとは違って、個人の名前を出して記事を書いている人っていうのは本当に少ないです。それが故に、自戒を込めて言うならば、「看板で仕事をすること」「看板の下で個人で仕事をすること」の問題意識については、僕も含めてそんなに皆さんほど考えてこなかったのではないかと思います。

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竹下 岸田さんの「赤べこの記事」は、個別具体的なタイトルにしているのが、すごい強いと僕は思いましたね。

記事のタイトルをつけるときに、私もよく気をつけるんですが、「私たち」とか「日本は」とか「男性は」とつけて論じると、絶対に炎上するんですよね。「なんでお前が勝手に一般化するんだ」と。でも、「私はこう思った」とか「私のお母さんは」とすると、炎上しない。

岸田 主語の意識もそうですけど、私は「絶対に」とか「すべき」とかいう言葉を使わないんです。「思う」とか、そういう言葉を使ってますね。

村井 『文藝春秋』の記事は割と一般化をしてますね(笑)。

竹下 天下国家を。

村井 そうなんです。文藝春秋の視点は、とにかく上の方にあって、でかいことを論じますよね。「これはこうである」「●●は▲▲せよ」とか(笑)。文藝春秋digitalは、そういう文藝春秋の記事を一言一句を変えないで載せているから、noteではあんまり共感されていないのかもしれません。だって、Twitterで流れてきた記事がそんな論調で書かれていたら、近い距離でおっさんに演説されている気持ちになりますもん、僕でさえ(笑)。

だからこそ、文藝春秋digitalは文藝春秋記事を少しでも「個人」に近づけたい。タイトルをマイルドに変えてみたり、改行を増やしてみたり。気軽に読めるような工夫をしています。

竹下 僕は文藝春秋が天下国家を語らなくなったらダメだと思うんですよね。

他のメディアが政治や経済について目先の話をしているときに、文藝春秋は常に100年後の日本を語っている。それくらいの視座の高さだから、確かにネット時代は通用しないかもしれません。

なぜか。それはスマートフォンの影響ですよ。スマホは過渡期のデバイス。「スマホで個人で読書をする」というのはあまり良くないと僕は思うんです。

本来、読書というのはもっと公のもの。電車で文藝春秋を読んでいる。その見られた感。スマホだと、LINEをしているのかゲームしているのかニュースを読んでいるのか分からない。たとえば、朝日ジャーナルを読んでいればリベラルな人だと思われたわけですね。かつて、読書は人から見られる行為でした。つまり、読むという行為には覚悟があったわけです。でも、スマホを使った読書は人から見れば何をしているのか分かりません。ここに問題がある気がしています。

しかし、この先テクノロジーが発展して町の空間に画面が現れるようになれば、スマホを見ていた人が顔を上げるようになって、読書する姿を他人に見られる時代が再び来ると思うんです。そのとき、天下国家論は絶対に盛り上がると思う。だから、その時まで文藝春秋さんは残っててほしいですね。その方が日本のためだと思います。ちょっと偉そうですけど(笑)。

村井 ありがとうございます。なんか、勇気をもらいました(笑)。

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【テーマ3】愛される記事、愛される表現とはなにか

――次のテーマにいきましょうか。「ウェブメディアではどんな記事や表現が愛されるのか?」「愛される表現は何なのか?」ということを話していただければと思います。

岸田さんは“愛され力”がとにかく高い。なぜ岸田さんは愛されるのか。これは、村井さんがぜひ聞きたいと話していたことでして……。

村井 読者から愛されている岸田さんに聞いてみたいんです。岸田さんが書くときに意識しているポイントって何なんでしょうか。

竹下 これはすごく聞きたいです。

岸田 そんなこと言ってないです、自分で。自分でそんなこと言ってたら、やばい奴じゃないですか。女性誌の特集みたいになっちゃいますよ!「愛され力」みたいな(笑)。

村井 でも、書くときに意識しているポイントみたいなのがあったら、ぜひ聞いておきたいなあ、と。

岸田 そうですねえ…。私を担当してくれているコルクの佐渡島庸平さんという編集者から、こう言われたことがあります。

「岸田さんはたくさん傷ついてきたからどんな言葉で人が傷つくのか知っている。岸田さんの文章は近年稀に見る多くの人を傷つけない文章」

それ以降は、誰かを傷つけないことを大事にしています。佐渡島さんに言われるまで、傷つきやすさはコンプレックスだったんですけど。

人を傷つけないために、書くときは絶対に「愛とリスペクト」を持つようにしています。今、前澤友作さんにインタビューしてエッセイを書いてるんですけど、前澤さんが喋っている内容の8割は、マジでわっかんないです(笑)。でも、「この分からなさが面白い」ってちゃんと書けば、それは愛のある文章になると思います。

村井 僕が岸田さんの文章を読んで思うのは、その愛とリスペクトを抱ける人物を絶対に登場させて書いているところです。自分のことだけじゃなくて、自分の周りにいる人物の発言や動きをしっかり描いているから面白く読めるし、その物語に心動かされるんですよね。

竹下 岸田さんは、期待値コントロールが上手い。たとえば、『早稲田大学で、ズンドコベロンチョの話をしなくて済んだ』という記事。タイトルを読んだ人は、「早稲田って何? ズンドコベロンチョって何?」って疑問を持つんですけど、ちゃんと1行目から早稲田を語る理由を説明しているんですよ。

〈会社から頼まれ、早稲田大学の大隈塾で、講義をする機会をもらった。大隈塾ってなんぞやと思って夜にインターネッツで調べたら、過去の講師に、田原総一朗さん、石破茂さん、堀江貴文さんなどの名前が並んでいて、すぐに閉じた。〉

この冒頭でしっかりと読者の期待値をコントロールしているんです。

それから、だんだん、みんなが知っているような上沼恵美子さんのような固有名詞が出てきて、ズンドコベロンチョの話になる。少しずつ少しずつ出していって、その都度、期待値をコントロールしているんです。

紙メディア出身の人で多いのは、冒頭で変な謎かけをしてわざと重要な部分を後にとっておいたりとか、時事ネタや風景描写から入ったりすること。でも岸田さんはパッと期待値をコントロールしちゃう。そこがいいところだと思います。

竹下 あと、岸田さんの文章は、スマホで見たときに白いのが良い。

岸田 それはnoteの機能が良いんですよ(笑)。

竹下 文章はひらがなが6割くらいが良くて、漢字が多すぎるとスマホで見た時に記事が黒い。でも、岸田さんのnoteは白いですよね。黒よりも白を目指したのはいいですよ。岸田さんは、ひらがなが7割くらいありそう。

岸田 改行を多く入れないとか難しい漢字を使わないとか、文字を詰めないことは意識しています。弱視の同僚から「文字を詰めたら見辛いよ」って言われたことが原体験としてありまして。

でも、村井さんのような紙媒体出身の編集者から見ると物足りないかも。どうですかね?

村井 いや、まったく。物足りないっていうのは全然ないですね。岸田さんの文章は読みやすさがすごく意識されていると思いますよ。

実はスマホに最適化する文章にするための作業っていうのは、僕もやっているんです。「スマホ推敲」って呼んでいるんですけど(笑)、パソコンで書いたものをスマホに送って、読みにくかったらそのままスマホで推敲する。これオススメですよ。

岸田 ああー、確かに。昔の携帯小説の流れから言うと、絶対にそうですよね。携帯で書くから、携帯小説は、読みやすかった。

村井 長文を書くのは、辛いんですけど、推敲して、直すくらいだと、スマホは超良いんですよね。寝っ転がりながらできるし(笑)。

【テーマ4】愛されるメディアのために

――そろそろ、最後のテーマにいきましょうか。様々な視点の記事を載せる役割がメディアにはありますが、一方で、誰も傷つけないことは難しいようにも思えます。愛されるメディアを目指す上で、そのことをどう考えていくべきなのでしょうか。

村井 メディアが発信する記事で、誰一人として傷つけないっていうことは、現実的に言って、不可能だと思います。作り手側がどんなに気をつかって記事を書いても、傷ついてしまう人は多分いると思いますし。ゼロにするっていうことは、やはり、現実的に難しいのではないかと。

だからこそ、このイベントの冒頭の方で少し話題になりましたけど、書き手の「個」を出すことが大切ではないかと思っています。

記事を書くのと同時に、記者やライター、編集者が「こんな思いで書いたんだ」「自分はこう考えている」とSNSなどを通じて個人として発信をする。記事を書いた人だって、読んだ人と同じ人間です。その人間の発信を見て、救われる気持ちになる人もいるのではないかなと考えています。甘いかもしれませんけど。

竹下 メディアが誰かを傷つけてしまうことはあると思います。また、ときには愛されなくても発信するべき記事もある。例えばセクハラやパワハラの記事は、社会的問題として、当事者など傷つく人がいても、出さなければいけない状況があるからです。

ただ、noteのようなプラットフォームが出てきたことで、「傷つける意図ではない文章が誰かを傷つける可能性がある」ということが、かなり浸透してきたように思います。それはどういうことかというと、「読者が育っている」ということなんです。

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村井 デジタル時代で、noteのようなプラットフォームを使えば誰でも文章が書けるようになりましたからね。読者が自分で書くようになると、書き手の気持ちが分かるようになる。書く経験は読者のリテラシーを高めると思います。

竹下 そうなんです。みんな、自分で書いて発信する過程で、僕らメディアと同じように、自分の文章で意図せず誰かを傷つけた経験をするようになったんです。だから、読者が書き手を想像できる。僕たちも「同じ立場で読者と話ができているなあ」って感じます。読者を信頼できる。これはすごく大きなことだと思います。

岸田 どれだけ気をつかって書いても、傷ついたり、穿った見方をする人は、絶対に出てきますよね。もし書いたものに何か言われたとき、本来の意図に堂々としていられるように、私は、書き手は自分の文章に対して敬意を払う必要があると思っています。やはり敬意をもって書かないといけない。「誰も傷つけない」という結果を求めるのは難しいと思うので、まずは敬意とリスペクト。スピリチュアルな話になっているかもしれませんけど、そこが重要なのかなって考えています。

竹下 書く仕事の醍醐味は、「自分では判断できないグレーなこと」をちゃんと書くところにあるんです。中立や玉虫色とはちょっと違う。「覚悟を持ったグレー」なんですよ。今は白黒つけることが多い世の中だし、白黒つける職業もありますけど、少なくとも「書くこと」を職に選んだ時点で、「覚悟を持ってグレーの部分を書けるか?」ということは、僕は常に自分に問うているんです。

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noteディレクターの志村さん

――最後に、愛されるメディアになるために取り組んでいきたいと考えていることをお話いただけますか?

村井 「文藝春秋」が築いてきた敷居の高い「壁」を、文藝春秋digitalでは下げて、極論を言えば「みんなが参加できる文藝春秋」を作っていけたら良いかな、と考えています。

例えば、3月10日発売の「文藝春秋」4月号から、文藝春秋digitalで配信したウェブオリジナルの記事を毎月1本だけ選んで紙版に転載するという連載企画を始めます。その連載に使うイラストレーションはnoteで募集したんです。「雑誌連載の挿絵をnoteクリエイターに依頼しよう」と。

読者とみんなで雑誌づくりをやっているような感覚をデジタル上に作りたい。こちらから一方的に記事を発信するだけじゃなく、こういう企画を通じて双方向のコミュニケーションをして、文藝春秋をもっと身近な存在に感じてもらいたいんです。

竹下 僕はハフポストをご機嫌なメディアにしていきたいんです。ピコ太郎のプロデューサーの古坂大魔王さんを取材したとき、こんなことを話していたんです。

「いま芸能界に残っている人は、愛される人でも良い人でもなく、ご機嫌な人ですよね」

それ以降、ハフポストはご機嫌なメディアでいたいなと思っています。まずは自分から、ってことで、最近はすごく機嫌よくしています(笑)。

――岸田さんは、これからの目標はありますか?

岸田 今日はこのイベントで沢山褒めていただいて(笑)、文章の自尊心が上がったので、これからも沢山書こうかなと思いました。

ただ、応援してくれる人が増えれば、今後、叩かれることもあるかもしれません。だから、その前に私は絶対に「岸田村」を作りたくて。

会場 (笑)

岸田 3月で勤めている会社を辞めて独立するので、「どうやって食べていこうかな」と考えました。やっぱり、今書いているnoteの一部を有料にしていかないといけないかなとは、思っています。

私のことをいつも応援してくれて、「お金を払ってでも岸田の世界を見たいな」と言ってくれる人たちと、自給自足で大根や人参を作りながら小さな村で生きるように、活動していきたいんです。とはいえ、岸田、金儲けに走ったワケではありませんよ! 自尊心を上げつつ、食べていかなければいけないということをこの場をお借りしてお伝えしたいと思います(笑)。それも含めて「愛される」ってことで、理解していただけたら、嬉しいです!

(構成・長尾和也)

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