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京都・妙心寺退蔵院の襖絵を描く“現代の御用絵師”村林由貴の「新しい水墨画」

禅とは何か。自分は何を書くべきなのか。9年間、問い続け、描き続けた。京都・妙心寺の塔頭、退蔵院の襖絵を描くために全てを賭して生きる“現代の御用絵師”の人生を追う。/文・近藤雄生(ノンフィクションライター)

全てを賭した76面の襖絵

日本最大の禅寺である京都・妙心寺の法堂(はつとう)は、1657年に創建された。その天井には、画壇の名門・狩野派の中でも天才と名高い狩野探幽による巨大な雲龍図が描かれている。

これを描いた当時の探幽は55歳。彼は16歳で徳川家の「御用絵師」となり、以来、将軍家や寺社の依頼で城や寺院に数々の障壁画を描いていった。妙心寺法堂の天井画はその一つであり、探幽はこの絵に8年の歳月をかけたとされる。

時の権力者や寺社がパトロンとなって作品が制作され、その中で、探幽のような優れた画家が「御用絵師」として名を成していく。それは江戸時代や室町時代において、規模の大きな美術工芸品が多く生み出されるための一つのシステムとなっていた。しかし、それは決して、過去だけの話ではない。

使用_20121108BN00037_アーカイブより

妙心寺

探幽の雲龍図がある法堂と同じ妙心寺の境内の、そこから100メートルと離れない場所に退蔵院という塔頭(たつちゆう)(=境内にある小寺)がある。600年の歴史を持つこの退蔵院の本堂で、その現代版とも言われる試みが行われているのである。

その絵師に選ばれた村林由貴が、76面の襖絵を描くためにすべてを賭して生きてきて、今年ですでに9年となる。

使用_1_トリミング済み

村林氏

寺としてすべきこと

古き仕組みを蘇らせて退蔵院の本堂(方丈)の襖絵を作ろうというこの「退蔵院方丈襖絵プロジェクト」は、退蔵院副住職である松山大耕の発案で2011年4月に始まった。

発端は、本堂の襖絵の傷みが激しく、本尊を囲む中心部以外はすべて外さざるを得なくなったことである。その襖絵とは、400年前に狩野了慶が描いた山水画で、国の重要文化財に指定されている。2006年、それに代わる新たな襖絵を入れようという話が具体的に持ち上がった時、3年半の修行を終えて退蔵院に戻ってきたばかりだった松山は、その方法を考えた。

近年、寺が襖を新調する場合によく採用されるのは、デジタルプリントの絵を貼った襖を入れるという方法である。昨今のデジタルプリントは、近くで見ても印刷かどうかを見分けるのが難しいほど精巧だからだ。しかし松山には、そうではない方法を採りたいという思いがあった。

松山は以前から、京都の現状に対して危機感を持っていた。京都のいまの繁栄は、先人たちが素晴らしい美術工芸品を数多く残していってくれたゆえのものだ。とすれば、自分たちはただそれを守り、見せているだけでいいのだろうか。形あるものはいつか朽ちる。自分たちも後世のために、現代の最高の作品を残さなければならないのではないか。松山はそう考えていたのだ。

その彼の念頭にあったのが、かつての寺社が採用していた仕組みだった。350年前に妙心寺が、探幽に依頼して法堂に雲龍図を描いてもらったように、自分たちも、一人の絵師に、長い時間をかけて襖絵を描いてもらうことはできないだろうか。

いまは何でもすぐに結果が求められる時代であり、美術の世界も市場原理が支配する。だが寺は、その流れから比較的離れていて、何百年というスパンで物事に取り組むことが可能である。そうした立場にあるからこそできることを、寺はやっていかなければならないと松山は考える。芸術家のパトロンとなってその時代の最高の芸術を残していくことはきっとその一つであり、いまも昔も、寺が担わなければならない仕事であるはずなのだと。

そしてさらにもう一点、松山が寺で行うという観点から重視したことがある。それは、人を育てるプロジェクトにすることだった。

「襖絵を、著名な作家に依頼すれば、確かに質は保証されるかもしれません。しかしそれでは、いい作品ができたというだけになる。寺がやるべきことはそうではありません。何よりも人を育てることが寺の本来の仕事です。だから、無名の描き手に依頼しようと決めました。まだ名は知られていないけれど力のある描き手に、最高の襖絵を仕上げることを目指してもらう。その過程で描き手自身が成長する。そんなプロジェクトにできないかと思ったのです」

松山のアイディアを知って、現代美術家で京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)教授の椿昇が興味を持った。そして彼がプロデューサーとして参画することになり、プロジェクトの骨格が決まっていった。

現代の「御用絵師」となる

絵師は公募し、若くて無名で京都に縁のある人物とする。給料制で3年間退蔵院に住み込んで、禅や仏教について学びながら76面の襖絵を仕上げてもらうこととする。

公募をすると、椿の関係もあり、応募者には京都造形芸術大学の学生や卒業生が多かった。その中で絵師に選ばれたのは、当時24歳でやはり同大学の大学院に通っていた村林由貴だった。彼女を直接知る椿は、自信を持って村林を推した。彼女の力、とりわけその精神面の強さを、椿はよく知っていたからだ。

大学時代、主にアクリル絵具で描いてきた村林は、卒業後も絵の道を行きたいという思いを強く持ち、大学院進学を決意する。ただその費用を親に頼れないとなると、必死で絵を描き特待生となった上、コンペで賞金を稼ぐことで自ら学費を賄ってきた。また、大学院時代に開いた個展では、開催中も会場で描き続け、4×7メートルほどの大作群で壁から床、天井までも埋め尽くすという経験もした。そして村林自身、大きな空間に描くことこそがやりたいことなのだと感じていたのも重要だった。村林は、日本画も水墨画も未経験で、禅や仏教についてもほとんど知ることはなかったが、自分の絵が76面の襖絵として立ち上がる瞬間を見てみたいという強い思いを持っていた。

面接の時、松山は村林に聞いた。

「襖はかなりの数ですけど、描けますか?」

村林は答えた。

「描けます……いや、描きます」

そして、向日葵のような笑顔を見せて楽しそうに笑った。

そうして2011年4月、村林由貴の、現代の「御用絵師」としての挑戦が始まった。

禅の世界を生き、絵を描く

私が村林のことを知ったのは、プロジェクトが始まって彼女が退蔵院に住み込むようになって4カ月が経ったころのことだった。

初めて会った村林は、学生らしさを残すふわっとした雰囲気で、にこにこした様子が印象的だった。その姿からは、禅を学び、厳しい修行もしながら寺で一人絵を描いているというのは想像がしづらかったが、彼女の中にある強い決意は、すぐに感じとれるようになった。

兵庫県に生まれ、幼いころに絵を描き始め、漫画からイラスト、絵画へと軸足を移し、大学では、極彩色の絵を多く描いた。そうしてひたすら絵と向き合い、寺や仏教とはほとんど無縁に生きてきた彼女にとって、退蔵院での生活に慣れるのは決して簡単なことではなかった。しかし彼女は、すべてが未知の環境に自らを馴染ませようと力を尽くし、日々確実に変化していった。

毎朝6時半からの掃除では、広い庭を掃きながら、植物の様子に目を留める。池の周りにある牡丹、ツバキ、藤。庭の入口に堂々と立つしだれ桜。生で植物を見る機会が少なかった彼女は、その表情が一日一日変わっていくことに気づかされた。さらに一日の中でも光によって見え方が変わる。生命が見せる絶え間ない変化をそうして実感として知ることで、村林は自然と、その変化を絵の中に描こうとするようになった。

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寺の掃除は毎朝6時半から
写真:吉田亮人

また数カ月に1度は、静岡県三島市・龍澤寺の専門道場での坐禅修行に参加した。雲水(修行僧)とともに行う1週間の修行は厳しい。朝3時に起きて夜9時過ぎの就寝まで、ひたすら読経と坐禅が続く。退蔵院に住み出して2カ月後の11年の6月に、初めて参加したときには、村林は、足の痛みと張り詰めた厳しい空気から逃げ出したいとも度々思った。道場の後藤榮山老師には、初日「足が痛いくらいでは死なんわい。いまのままじゃ、生きた絵は描けん」と言われ、猛烈な悔しさに満たされた。しかし、4日目には、自らの思いと覚悟のすべてを、涙で顔を濡らしながら老師に告げた。

「絶対に負けるかと思い、一日一日やっています。自分との戦いです。絶対に描き切ります。そう思って痛みに耐えています」

その4カ月後、2度目の修行に参加した時には、すべきことを明確に自覚した。6月にはまだ寺に入ったばかりで慣れない様子だった雲水はビシッとしていた。その姿を見て、自分も頑張ろうと励まされた。

実験を重ね、技術を高める

そうして、日々、禅の世界に身体を浸していく中で、村林はひたすら、考え続けた。禅とは何か。自分は何を描くべきなのか、と。

仏教界を越えて巨大な足跡を残した仏教学者・鈴木大拙は、名著『禅と日本文化』(岩波新書)において、禅の根本についてこう記している。「皮相な見解を除去して、仏陀自身の根本精神を教えんというにある」。すなわち、仏教の発展とともに肥大化してきたさまざまな儀礼的、教典的なものをすべて排し、仏陀自身が直接体験したことを自らも体験することでその教えを知ることである、と。だからこそ禅は、論理や言葉を脇に置き、ただ修行を重視する。ひたすら坐禅を組み、自らと向き合うその直接体験の中からしか悟りは得られないとするのである。

そして大拙は、禅と芸術は深くつながっているとして、こうも書く。「禅はどうしても芸術と結びついて、道徳とは結びつかぬ。禅は無道徳であっても、無芸術ではありえない」。禅は、極めて人間の原始的な生得のものと結びついているゆえに、同じく生得的で原始的な芸術と深く結びつくのだと。

村林はまさに大拙の言葉を実践していた。とにかく直接体験する。禅の世界に身を投じる。そしてそこから自然に湧き出てくるものを絵にしようとした。彼女は襖絵を描こうとすることを通じて、壮大な修行の中を生きているに違いなかった。

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鈴木大拙

プロジェクトが始まって8カ月ほどが経った11年の暮れ、村林は、退蔵院の襖絵に取り掛かる前に、同じく妙心寺の塔頭である壽聖院(通常非公開)の襖絵を描かないか、という話をもらった。それは、松山の弟である同院の住職(当時)・松山侑弘が、事実上村林に、退蔵院に取り組む前の練習の場を与えてくれた形であった。まだ技術の上でも構想の上でも、退蔵院を描き出すことができずにいた村林にとってありがたい申し出だった。そして12年2月、アトリエも壽聖院内の書院に移し、まずは、その書院にある25面の襖の上に、四季をテーマに絵を描いていった。

春の襖には、桜、牡丹、鯉に天女を、華やかで生命力に満ちた姿で描き、夏と秋の襖には、野菜や果物、虫や鳥を、各々に命を吹き込むように描写した。その次は、荒波の中、舞い降りる鯉と昇りゆく鯉の力強い姿を描き、そして冬の襖として描いたのは、雪の中に凜と立つ松だった。

この書院では思うように挑戦してほしいと言って住職が与えてくれた機会を存分に生かすべく、彼女はここで実験を重ね、様々な水墨の技術を追求した。そして壁にもぶつかった。特に、12年の暮れ近く、冬の松を描いていたとき彼女は深く悩んだが、それも力に変えていった。

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