帝国ホテル「ラグジュアリーで道徳的に」ニッポンの100年企業①樽谷哲也
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帝国ホテル「ラグジュアリーで道徳的に」ニッポンの100年企業①樽谷哲也

文藝春秋digital
社会のために、お客さまのために。サービスの陰に息づく渋沢栄一の教え。/文・樽谷哲也(ノンフィクション作家)

優良老舗企業の長寿の秘訣

前号まで、「ニッポンの社長」という主題のもと、地域に根差す代表的な企業とその経営トップを訪ね歩いてきた。本誌が創刊100周年を迎えるのを前に、今号より、しばらくの間、少し装いを改めることになった。日本は世界でも稀なほど創業から100年を超える優良老舗企業の多いことで知られる。おそらくは起伏の少なくなかったであろう歩みをたどることで、その会社の長寿の秘訣にふれてみたいという試みである。

日本には、古くは大名や武将、現代では財閥や業界、進学校、さらに芸能アイドルに至るまで、御三家なるものが数多く存在する。ホテルでは、The Okura Tokyo(旧・ホテルオークラ東京)、ホテルニューオータニと並び、その代表格として君臨するのが帝国ホテル東京であると誰しもが認めるところであろう。

東京都千代田区内幸町1‒1‒1。

都立日比谷公園と連なるように皇居を望み、日本の真ん中に位置する。日比谷通りから本館の正面玄関を入ると、クリスマスの近いいまの季節では、赤いバラを直径約170㎝の大きな半球状のドーム型にぎっしりと挿したフラワーアレンジメントがロビーでシャンデリアに映えている。そのバラの数、およそ1000輪。初めて見て足をとめない来館客はないことであろう。黒いパンツスーツの女性の装花スタッフが客の視界を遮らぬよう気を配りつつ、手入れを怠らず、磨き上げられた床の上には花弁の欠片かけらひとつ落ちていない。

フロントはホテルの顔といわれる。会員専用のものを含め、約10組の来客に同時に対応できる。

第10代社長を2013年から務める定保さだやす英弥は、東京で大きな国際会議などが開催されるたびに、世界中のVIPを受け入れる経験を幾度もしてきた。総支配人であったときに、世界中の独立系ホテルが一堂に集まる総会が開かれた際、チェックインする各ホテルの代表たちが一斉にフロントに詰めかけた。フロントスタッフたちが迅速にカウンターにずらりと立って応対する。出席者の一人に「とても素晴らしいサービスだ」と声をかけられたシーンがきのうのことのようにまぶたに浮かぶ。

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定保英弥社長

「日ごろから基本的な準備を入念にこつこつと積み重ねることの大切さを、現場の従業員たちがよくわかってくれています。たいへん心強いことです。先輩たちの思いや技術を継承してきたからこそ、帝国ホテルのサービスは成り立っています」

結婚披露宴や大規模なパーティーの開催される宴会場をいくつも備えており、立食式では2000人を収容できる約2000㎡の本館2階「孔雀の間」はそのステイタスシンボルとしておよそ知らぬ者はない。

フロントを通り過ぎ、本館を先へ進むと、地下4階、地上31階建ての新館たる帝国ホテルタワー(タワー館)とつながっている。タワー館を一歩抜けると有楽町から銀座へと通じ、人びとの華やかな賑わいの街として、もはや説明を要すまい。

宿泊しているとき、またレストラン、宴会場を利用している際、従業員に何か頼みごとや相談をすると、決まって、柔らかな微笑みとともに「もちろんけっこうでございます」という一言が返ってくる。それがなんとも快い。そして頼もしくなる。

帝国ホテルの沿革
1887年 井上馨外務大臣、ホテル建設を渋沢栄一、大倉喜八郎らに諮る
1890年 開業
1893年 渋沢栄一、取締役会長に就任
1909年 渋沢、会長を辞任。大倉喜八郎が取締役会長に就任林愛作が支配人に着任
1923年 犬丸徹三、支配人に就任ライト館全館落成。披露準備中に関東大震災発生
1933年 上高地ホテル(現・上高地帝国ホテル)開業
1967年 ライト館閉鎖
1970年 現在の本館開業
1983年 インペリアルタワー(現・帝国ホテルタワー)開業
1986年 犬丸一郎、社長に就任
1990年 開業100周年
1996年 帝国ホテル大阪開業
2013年 定保英弥、社長に就任
2019年 第14代東京料理長に杉本雄が就任
2021年 サービスアパートメント事業を開始
2026年 京都・祇園で新ホテル開業予定
2030年 東京・新タワー館 完成予定
2036年 東京・新本館 完成予定

初代会長は渋沢栄一

2021年は、前年につづき、コロナ禍に明け暮れした。打ち沈んで、殺伐としてばかりいる私たちの多くの胸に、希望の明かりを灯した人がいたとするなら、それは政治家でも芸能人でもなく、現代のベンチャー経営者ですらもなかった。米メジャーリーガーの大谷翔平、水泳の池江璃花子、将棋棋士の藤井聡太、さらに、時を大きく巻き戻して、NHK大河ドラマ「青天をけ」の主人公で、「日本資本主義の父」といわれ、新1万円札の肖像になる渋沢栄一(1840-1931)を挙げることに異論はないであろうか。黙々と己の信ずる道を行く若人の姿に、私たちはどれだけ励まされたろう。

渋沢は、生涯におよそ500もの会社の設立や経営に携わり、その大半が大企業となって現存する。私利ではなく公利を説き、現在の東京商工会議所や日本赤十字社、一橋大学、理化学研究所など、約600の社会公共事業の設立や育成にも大きくかかわりながら、財閥を築かなかった。

渋沢栄一が初代会長を務めた帝国ホテルは、1890(明治23)年11月3日、当時の天長節に、現在のタワー館の建つ場所で、ドイツ・ネオ・ルネッサンス様式、木骨煉瓦れんが造りの3階建て、約60の客室で開業した。総面積約4300㎡と国内に例のない規模で、「東洋一の迎賓館」と呼ばれた。昭和に入って北アルプスの上高地(長野県)に、平成の時代に大阪にも帝国ホテルが誕生し、目下、2026年の開業をめざして念願の京都・祇園でも計画が進む。総勢およそ2500人の従業員が働いている。

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帝国ホテル タワー館

巨匠ライトに設計を依頼

初代外務大臣の井上馨は、日比谷に鹿鳴館を建設し、海外の賓客を招いて、欧米の列強国との間で不平等条約を結ばざるを得なかった日本の地位回復を図って夜ごと舞踏会を開いた。しかし、その賓客を充分にもてなすことのできる宿泊施設が東京にはない。そこで、渋沢栄一と、大倉財閥を形成する大倉喜八郎らに協力を要請し、鹿鳴館の隣りで開業に漕ぎ着けたのが帝国ホテルである。渋沢の後は大倉、そして、その長男・喜七郎が会長職を継いだ。戦後、GHQの公職追放によって帝国ホテルから追われた喜七郎の創業したのがホテル・オークラである。

帝国ホテルは、盛大にオープンしたものの、見込んでいた外国人客の訪日が芳しくなく、赤字決算が5年つづくなど、経営は当初から安定しなかった。渋沢と大倉は、18歳で単身渡米し、才気煥発な国際派の若き美術商としてニューヨークの社交界に広く知られていた林愛作を熱心に口説いて、1909年、帝国ホテルの第五代支配人に迎え入れる。35歳の若さで着任した林は、洗練された調度品をそろえ、入念な模様替えを施して客室や館内を一新するだけでなく、のちに「どんなシミも落とす」と評判を呼ぶランドリーの洗濯部、送迎や観光のハイヤーの自動車部、ホテル自家製パン部、ホテル内郵便局などを開設していった。

進取の気性に富む林の事業観は、帝国ホテルをその名にふさわしいものにつくりかえてゆき、利用客の増加によって収支を向上させていく。

林は、安住することなく、なお理想のホテルづくりに突き進む。ル・コルビュジエ、ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエと並んで近代建築の三大巨匠と呼ばれるフランク・ロイド・ライトと米国時代から深い交流のあったことから、1913(大正2)年、彼に帝国ホテルの新館の設計を依頼するのである。完璧主義のライトは、煉瓦作りから石材や木材の選定まで、建築資材だけでも一切の妥協を許さなかった。予算や工期が当初の計画を大幅にオーバーしつづけ、建設は幾度も頓挫しかける。経営陣と衝突しても、林はライトを擁護した。新館は、1923年にようやく完成する。

客を迎える玄関は、京都・宇治の平等院鳳凰堂をモチーフに、屋根の部分が翼を大きく広げたような左右対称の形をしている。帝国ホテルの顔となったこの新館は、世界的に高い評価を受け、いつしかライト館と呼ばれるようになっていった。1967(昭和42)年に宿泊営業を終え、取り壊されるに至ったが、中央玄関部分は移築され、いまも愛知県犬山市にある野外博物館「明治村」で一般見学ができる。

渋沢翁の教えを共有

社長の定保英弥は、創業者の名を敬称を略して呼ぶことがなかった。

「私たちは、『事業は社会のために』という信念を残してくれた渋沢栄一翁を初代会長に持ったことが本当に幸運だったと思います。渋沢翁の教えを従業員全員で常に共有して、社会のために、お客さまのために、楽しんで、喜んでいただくために、一所懸命に実践してきたからこそ、今日こんにち、131年を迎えられているのではないでしょうか」

帝国ホテルは行動基準として《挨拶・清潔・身だしなみ、感謝・気配り・謙虚、知識・創意・挑戦》と定め、従業員が常時、それらが記されたカードを携帯する。渋沢が座右にしていた論語を現代流にいいかえたものといって差し支えあるまい。

「渋沢栄一翁、広くは知られていませんが初めての日本人の総支配人で多くのサービスを始めた林愛作、そして、ライト館を設計したフランク・ロイド・ライトという3人は、帝国ホテルにとって、私自身にとって、最も大切な人だと考えています」

学習院大学を卒業し、入社8年目の1991(平成3)年、29歳のときから4年間、米ロサンゼルス案内所に赴任する。鞄にパンフレットを詰め込み、各地の企業や旅行代理店を地道に訪問して回った。

「ライトが建てた『東洋の宝石』といわれた建築が帝国ホテルの名前を世界に知らしめたのは間違いありません。建築を学んでいない方でも、『フランク・ロイド・ライトが建てたインペリアルホテルから来ました』と挨拶すると表情が変わることが多かったんですよ。おかげさまで本当に営業がしやすかったんです」

杓子定規な取材というより、熱意ある対話をしているような気にさせる。自らが語り始めるとき、「おっしゃるとおりです」と相手を肯定する一言を添える。むろん英語を自在に操るが、なにより、肩肘の張らない、きれいな日本語を話す。

ホテル専業から脱皮

ライト館に代わって建てられた現在の本館は1970年に開業したもので、地下3階、地上107階、客室数は777(当時)であった。タワー館は、定保が入社する前年の1983年に竣工している。地下4階に地上31階を擁しながら、客室数は363(同)にとどめ、大半のフロアを賃貸オフィス・商業用とした。ホテルと商業施設を兼ねた、都心の超高層ビルの嚆矢こうしである。タワー館の開業に際し、ホテル専業とせず、不動産賃貸事業への進出と捉えたからこそ、観光の繁忙や閑散などの時季にほとんど左右されない安定収入をもたらす経営基盤をつくりあげることになった。

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