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維新の“清々しい敗北”で考えた「プロの政治」とは|三浦瑠麗

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※本連載は第49回です。最初から読む方はこちら。   

 前回は、分断は民主主義にとっての障害ではなく、権力交代の必要からむしろ欠かせないものであるというお話をしました。分断を恐れる気持ちは、社会の構造変化に対する人びとの驚きと、政治の大衆化に対する不安が顕在化したものなのです。本日は、日本に視点を移し、政治闘争において「負ける」ということの意味について考えてみたいと思います。

 権力闘争にはとかくどろどろとしたものが宿っています。人々がそれゆえに政治を厭わしく思うのは無理もありません。私自身も決してどろどろとしたものが得意ではありません。しかし、少なくとも上に立つような政治家は権力闘争の本質に自覚的でなければならないのではないでしょうか。

 そう思ったのは、先日維新の会が住民投票でふたたび僅差で敗北し、誠に清々しい会見をしたからです。どうも最近の日本では権力にしがみつかず、きれいさっぱりと進退を決める人が目立ちます。私自身、会見を見て潔いと感じ、彼ら個人には「お疲れさまでした」と共感したのですが、その一方で、そこに覚えた一抹の違和感をきちんと言語化しなければいけないと思っていました。違和感というのは、メディアでよく言われるように、自分たちの思いでもってして2度にわたる住民投票を実施し、大阪市を都構想賛成派と反対派に分断したことに対する批判という意味では全くありません。そうではなくて、いつものことながら維新の清々しい負けっぷりに共感しつつ、これはいったいプロの政治なのだろうかと感じたということです。

 大阪市の住民投票の結果は前回と同様、僅差で敗北でした。しかし、昨年のW選挙で松井氏、吉村氏が対立候補にそれぞれ圧勝したように、「維新政権」は相変わらず色褪せていません。むしろ維新は大阪にゆるぎない統治勢力として定着したと言ってよいでしょう。これを逆手にとって、「維新支持者が都構想にNOを突きつけた」というような解説も散見されますが、どうもずれているように思います。そもそも熱狂的な維新支持者は必ず都構想には賛成します。半数近くの人が賛成票を投じたということ自体、すごいことです。浮動票のような人々、現状の市政を消極的にせよ肯定する人が、都構想のような大胆な改革に必ずしも賛同しないのは、ある意味で当たり前です。

 自民党政権もそうですが、日本において政党の盤石な支持基盤というのは案外小さなものです。その上に乗っかったふわっとした支持が大きいがゆえに、維新は政権を安定的に担うことができている。大阪市に足りないのは融和ではなく、むしろ分断の片一方を担う本格勢力でしょう。

 であるとすれば、維新は自分たちの統治が揺らぐという本質的な恐怖を覚えることなく住民投票を実施できたということになります。問われているのは権力そのものではなく、彼らが「やらせてください」と訴えてきた改革への思いを実現できるかどうかでした。改革が通らなければ、自分が政治家を引退する。そこには清々しいまでのアマチュアリズムが存在します。

 長きにわたって大阪の統治を担う過程で、維新は当初からの改革に向けた素朴なアマチュアリズムと、組織だった統治勢力としてのプロフェッショナリズムという二重性を持つようになります。仮に、今回の住民投票において賛成派の熱が足りなかったとすれば、その二重性ゆえでしょう。都構想が潰えた後も維新は続くし、続かなければいけないということを彼ら自身しっかりと認識していたということです。

 しかし、維新は統治勢力でありながらたやすく政権を投げ出しそうな危うさも持ち合わせています。松井市長が残りの任期にレームダック化する危険を敢えて冒して、任期終了後の引退を口にするあたりにそれが表れています。繰り返しますが、個人としては松井氏の思いはよく理解できます。私心のなさはまさに「自分の思い」として改革を真剣に目指していたからでしょう。しかし、政治はスポーツではないのです。

 政治は、プレーヤーが観衆を集めて闘いを繰り広げる団体スポーツに似ていますが、スポーツと違ってプレーヤーが権力を担うところに大きな違いがあります。統治を担う勢力がすぐに権力を投げ出すようなことが起きれば、政治そのものがゲーム化し、空洞化する。政治がいわゆるゲームではなくて真摯な権力闘争でなければいけない理由は、政治がその人個人を超えた、より大きなもののためにあるからです。

 スポーツで戦う目的はその個人とチームのためであって一向に構いません。負けたら教訓を明日からの自己研鑽に生かせばいい。ファンがいたからと言って、負けたことに責任を負うべきとも思いません。しかし、政治において負けることは、権力を相手に譲り渡すことと同義ですからもっと深刻です。「自分自身の思い」の挫折とは比べものにならない損失が生じるということです。

 スポーツと政治の違いは、けんかと戦争の違いと同じです。けんかは、負けてもその人の名誉が傷つくだけで、極端な話、勝ちたければ何度でも自分が勝つまでけんかを挑めばよい。しかし、戦争では、将軍が自らの名誉や思いにこだわって部下を道連れに華々しく討ち死にしても評価されません。将軍は部隊や国家の命運を担っているからです。つまり、スポーツと政治が違うのは、担っているものが個人の命運ではなく、多くの人々の運命を左右する権力だからということになります。

「自分自身の思い」は政治家にとってのモチベーションですから、大切なのはよくわかります。しかし、それを超えたところを見つめられるかどうかが、政治家として一皮むけるかどうかの分かれ目ではないでしょうか。一皮むけた後の政治家がより人として愛すべき存在なのかと言えばむしろ逆でしょうが、権力はそもそも愛すべき存在ではありません。

 維新にはプロフェッショナリズムとアマチュアリズムの二重性が存在すると述べました。非情な言い方をすれば、筋論としての住民投票には正統性がありますが、プロであれば自分たちの根幹の政策について住民に投票してもらって判断してはいけないということです。プロフェッショナリズムの政治とはすなわち統治の継続であり、同じくらい本気で権力を奪取しようとする対抗勢力と戦い続けることだからです。

 政治が大衆化するにつれて、アマチュアリズムがプロフェッショナリズムにとって代わる場面が多くなりました。次回は、安倍政権の7年8か月をこのアマチュアリズムとプロフェッショナリズムのバランスから考えてみたいと思います。

★次週に続く。

■三浦瑠麗(みうら・るり)
1980年神奈川県生まれ。国際政治学者。東京大学農学部卒業、東京大学大学院法学政治学研究科修了。東京大学政策ビジョン研究センター講師を経て、現在は山猫総合研究所代表。著書に『日本に絶望している人のための政治入門』『あなたに伝えたい政治の話』(文春新書)、『シビリアンの戦争』(岩波書店)、『21世紀の戦争と平和』(新潮社)などがある。
※本連載は、毎週月曜日に配信します。
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