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出口治明の歴史解説!日露戦争で日本が勝った真の理由は?

歴史を知れば、今がわかる――。立命館アジア太平洋大学(APU)学長の出口治明さんが、月替わりテーマに沿って、歴史に関するさまざまな質問に明快に答えます。2020年5月のテーマは、「戦争」です。

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※本連載は第28回です。最初から読む方はこちら

【質問1】快勝といえば、日露戦争の日本海海戦が思い浮かびます。日本海軍は大国ロシアの艦隊に、どうして勝てたのでしょうか?

それはひとえに大英帝国(イギリス)のおかげです。日本は、大英帝国との同盟(日英同盟)がなければ、あの快勝はなかった、と考えていいでしょう。これは、日露戦争(1904~1905)が始まる2年前に、ロシア帝国の極東進出に対抗しようと結ばれた同盟です。

では、その同盟がどのように有効だったのかといいますと、これまで話してきたロジスティクス(兵站)と大きなかかわりがあります。

ロシアのバルチック艦隊はその名の通り、バルト海に配備されていた艦隊です。彼らが日本海軍と戦うため、極東へ出発したのは1904年10月でした。

艦隊は北海のドッガーバンク付近へきたところで、大英帝国の漁船団をあやまって砲撃し、漁船を沈めてしまいました。夜間だったため、漁船を日本の水雷艇と勘違いしたのです。しかも、沈めた船が漁船だと気づいたのに、犠牲者を救助しないまま「えらいことをした」と思ってそのまま逃げてしまったため死者が出ました。これをドッガーバンク事件といいます。

これには、大英帝国のエドワード7世も国民もカンカンに怒りました。ロシアは謝罪して漁民や遺族に補償金を払い、代わりの船も提供したものの、反露感情は収まりません。一方、日本は犠牲者の葬儀に弔電を打ち、この事件に関わっていないと表明したことで、逆に親日感情が高まりました。当時の日本は、外交もなかなか巧みだったことがわかります。

バルチック艦隊は、アフリカをまわって極東へ向かいますが、そのあいだずっと大英帝国の植民地(南アフリカ、インド、シンガポールなどの要衝)は入港を拒否しました。「おまえらには燃料も食料も提供せんぞ」というわけです。補給地となる港は、陸上の兵站と同じですから、バルチック艦隊にとってはたまったものではありません。

1905年5月に対馬沖で日本の連合艦隊と戦う頃には、燃料の無煙炭が不足して艦隊はノロノロ運転をしていました。乗組員は腹いっぱい食べていませんし、十分な休息もとれていないのでヘロヘロです。そんな状態で、満を持して出陣してきた連合艦隊と戦うわけですから気の毒なぐらいです。戦いの火蓋が切られる前に勝負はついていた――そう言ってもいいでしょう。

日本海にやってきたバルチック艦隊38隻のうち16隻が撃沈され、6隻が自沈しました。戦艦8隻のうち6隻が撃沈され、戦艦2隻を含む6隻が日本軍に捕獲されています。ロシアに戻ったのはわずか3隻でした。

この完敗は、大英帝国を怒らせた結果だと考えていいでしょう。

【質問2】古代カルタゴのハンニバル将軍は「戦争の天才」と呼ばれていますね。でも一体、どれぐらい凄い人だったのでしょうか? もしかして古代最強の天才なのでしょうか。

単に“古代史ではぶっちぎり”のレベルどころではありません。世界史を通じてもトップクラスの天才戦略家であり天才指揮官です。

ハンニバル・バルカ(B.C.247~B.C.183)が活躍した戦いといえば、共和政ローマとカルタゴの第二次ポエニ戦争です。カルタゴはアフリカ大陸の北岸にあったフェニキア人の国で、ローマ人はフェニキア人のことを「ポエニ」と呼んでいたからポエニ戦争と呼ばれています。

ポエニ戦争は第三次まで戦われ、第二次ポエニ戦争は紀元前219年から18年間つづきました。この戦争はハンニバルが起こしたことから「ハンニバル戦争」とも呼ばれています。

ハンニバルの父、ハミルカル・バルカも将軍で、第一次ポエニ戦争で彼自身は活躍したものの、結局カルタゴはローマに敗北しました。カルタゴはシチリア島を奪われたため、ハミルカル将軍はイベリア半島の植民地政策に専念し、現地で軍団を養成します。幼い頃のハンニバルが父に連れられて神殿へ行き、「必ずローマを倒したるで」と誓ったというエピソードが残っています。

父の死後、後継者となったハンニバルは、ローマと同盟を結んでいたサグントゥム(現在のスペイン・バレンシア州)に侵攻しました。さらにローマを攻めるため、軍勢を率いてアルプス山脈を越えます。

ローマはカルタゴの攻撃に備えて、海上や南西部の守りは固めていました。しかし、アルプスがある北側からの攻撃は想定していませんでした。そんなところを攻め上ってくるなどとは考えもつかないことだったのです。

ハンニバル軍がアルプスを越えてイタリアに到着したとき、約5万人を数えていた兵は約半数の2万5千人程度になっていたといいます。温暖な土地からやってきて雪が降るようなアルプスの山道を行軍したのですから、どれだけ難儀だったか。戦闘用のゾウは初め30頭ほどいたのに、イタリアに着いたときは3頭に減っていたそうです。

ふつうなら「こんなアホなことにつき合っていられるか!」と兵士たちは途中で逃げ出すでしょう。ところが、途中の戦いで死傷した兵士はいても、逃げ出した兵士はほとんどいなかったようです。

28歳前後のハンニバルが「ローマを殴りに行くで」と宣言し、数万の軍勢とゾウを率いてアルプスを越えた。この話だけでも、彼の統率力や人間的な魅力は想像を絶していると思いませんか。どれほど優れたリーダーシップだったかが窺えます。

しかもイタリアに侵攻してからは「ティキヌスの戦い」「トレビアの戦い」「トラシメヌス湖畔の戦い」「カンナエの戦い」などのいまでも名が残る戦いで連戦連勝です。勝ち進むハンニバルの名声はどんどん高まり、反ローマの部族にも支持されます。

結局ハンニバルは、18年間にわたってイタリアに踏みとどまって戦いました。その間、本拠地のカルタゴからの物資の補給はそれほどなかったようです。

ふつうであれば「いつまで戦い続けるのか!  もういやだ」と部下がクーデターを起こしてハンニバルは殺されてしまいそうです。そういったウワサの一つ伝えられていないハンニバルは、最強のリーダーだったことがわかります。

最後は北アフリカのザマで、ローマのスキピオ・アフリカヌスに敗れたものの、ハンニバルは“ローマ帝国史上最強の敵”であったことに間違いありません。だからこそ、ローマの史家たちはハンニバルの残虐なイメージを広めたのです。

これほど天才的なリーダーですが、まだまだ日本では、人気があるといえない英雄です。僕が顔を出す経営者の集まりでハンニバルの名や逸話が聞かれないのは、とても残念です。そういえば「ハンニバルの象つかい」という児童文学の傑作がありましたね。ビジネスの「戦略」を語る上で、もっともっと知られていい人物だと思います。

(連載第28回)
★第29回を読む。

■出口治明(でぐち・はるあき)
1948年三重県生まれ。ライフネット生命保険株式会社 創業者。ビジネスから歴史まで著作も多数。歴史の語り部として注目を集めている。
※この連載は、毎週木曜日に配信予定です。

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