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武士が乗っていた「日本固有の馬」は、サラブレッドよりも弱かったのか?

文・蒲池明弘(かまち・あきひろ/歴史ライター)

横浜に残る「馬の近代史」

 長い間、強力な軍事兵器であり、輸送機器でありつづけた馬。5世紀、その馬が日本に伝わったことで、この国の「中心」が大きく動き、武士の誕生、武家政権の成立につながった――こうした観点から、私は『「馬」が動かした日本史』(文春新書)を執筆した。

 本記事は、同書では触れられなかった話題を紹介するオリジナル記事の後編です(前編はこちらから)。

 今回は横浜の地に残る馬の近代史、その断面を紹介する。

【お断り】この記事は文春新書『「馬」が動かした日本史』とは別内容のオリジナル原稿です。書籍のメインテーマは、古代以来の日本の馬の歴史であり、競馬についてはごくわずかしか触れていません。

「ハマの鹿鳴館」──日本初の洋式競馬場

 前編のインタビュー記事で紹介したように、「馬の博物館」(横浜市中区)があるのは、幕末の慶応2年(1866年)、日本ではじめての本格的な洋式競馬場として開設された「根岸競馬場」の跡地だ。

 開港されたばかりの横浜にできた外国人居留地。そこに住む人たちの娯楽施設として始まった競馬場は、明治時代になって日本人の上流階級も加わった国際的な社交場としてにぎわった。「馬の博物館」と競馬場跡の周辺を歩いてみると、馬にかかわる歴史のさまざまな断面が見えてきた。

 江戸時代、賭け事(ギャンブル)は原則として禁止されていた。どうして、幕府のお膝元ともいえる横浜で、競馬レースを堂々と開催できたのだろう?

 日本史の教科書でお馴染みの「治外法権」によって、外国人居留地では日本の法律が適用されなかったからだ。根岸競馬場は、幕府の出費によって造営されている。その記録からも不平等条約時代の雰囲気が伝わってくる。

 この競馬場に日本人のお歴々の姿が見えるようになるのは、明治時代になってからのことだ。明治天皇の来場は13回に及び、伊藤博文、松方正義、大隈重信をはじめ、当時の政府要人もくりかえし訪れている。外交官をふくむ居留地の有力者との交流を深め、不平等条約改定への地ならしをするための外交の舞台でもあったらしい。

 戦後まもない時期に書かれた新聞記事には、「ハマの鹿鳴館」と紹介されている。これはいくらか大げさな表現かもしれないが、競馬場開設の経緯をふくめて、日本の競馬史は幕末維新期の政治史とからみあっている。

在来馬は日本の歴史の貴重な証言者

「馬の博物館」はこうした草創期の競馬界の記録を伝えるだけでなく、世界各国、日本各地の馬の生態、馬科動物の進化の歴史を展示する自然史博物館でもある。5500万年ほど前に現れたキツネくらいの大きさの馬の先祖が、長い進化によって現在の馬になるまでの歴史を、骨格標本などによって解説している。

 鎌倉市の由比ヶ浜南遺跡(14世紀)出土の全身骨格は、レプリカではなく、本物の出土品だ。鎌倉幕府の滅亡から南北朝時代にかけての動乱期なので、武士を乗せ、戦場を走り回った軍馬だったのかもしれない。

 この博物館のセールスポイントは、生きた馬について学べる場所でもあることだ。付属施設であるポニーセンターでは、外国産のポニー(体高148センチメートル以下の小型馬)だけでなく、レースを引退したサラブレッドや日本の「在来馬」など11頭が飼育されている。マイネルキッツ(サラブレッド)は天皇賞を制したこともある競走馬だったが、引退後、この博物館の所属となり、各地のイベントでも活躍している。

日本固有の馬の多くは消滅した

 在来馬とは、サラブレッドをはじめ明治以降に入ってきた西洋の馬と交雑していない日本固有の馬のこと。

 日本列島に馬の飼育という新しい文化が入ってきたのは古墳時代の5世紀だが、風土や地形、使用目的の違いなどによって、体格や性質の異なる馬種が日本各地にかたちづくられた。木曾馬、三河馬(三州馬)、対馬馬(対州馬)など、地名による命名が古くから定着している。

 明治時代、軍事的な必要性によって、日本の馬を大型化するという政策が打ち出された。さまざまな種類の西洋馬との交配が積極的に進められた結果、江戸時代あるいはそれより古い時代からの形質を伝える日本固有の馬の多くは消滅してしまった。

 長野県の木曾馬、宮崎県の御崎馬、愛媛県の野間馬。こうした馬は、郷土の馬に愛着を持つ人たちによって、本来の血統が守られた。離島に暮らす対馬馬など、大型化の政策が及ばなかったケースもある。理由はさまざまだが、わずかながら日本固有の馬が消滅をまぬがれた。現在、生息している在来馬は8種類。江戸時代の日本には100万頭を超える馬が飼育されていたが、その形質を伝える在来馬の生息数は合計で2000頭ほどにまで減っている。

 東京の上野動物園では、2007年から木曾馬、トカラ馬など在来馬が飼育されている。このままでは日本固有の馬が消滅してしまう恐れがあり、その保全が課題になっているのだ。

 日本国内に限らず、世界各国、各地域には外観や形質の異なる馬がいるが、その個性に対する評価が近年、高まっている。さまざまな馬の個性は、それぞれの地域の歴史や風土を知るための貴重な情報源でもあるからだ。これは日本の馬についてもあてはまる。

「馬の博物館」で見ることのできる在来馬は、道産子とも呼ばれる北海道和種(ほっかいどうわしゅ)、野間馬(愛媛県)、与那国馬(沖縄県)の3種類で、それぞれ1頭ずつ飼育されている。

与那国馬サンゴ

 在来馬のうち、北海道和種は生息数が最も多いが、ほかの在来馬とは異なる歴史的な背景がある。5世紀以降、馬の飼育という文化は急速に広がり、奈良時代には青森県のあたりでも馬が飼育されていた形跡がある。しかし、馬の文化の拡大はそこまでで、考古学の調査によって、江戸時代近くになるまで北海道に馬はいなかったことがわかっている。

 DNAの分析によると、北海道和種は南部馬の血統をうけているので、東北方面から持ち込まれたことは明らかだが、在地の武士や農民が馬牧を開いた記録はない。江戸時代、ニシン漁で荷物を運ぶため北海道に渡った東北地方の南部馬が、現地に置き去りにされ、野生化した馬の子孫が北海道の原野で自然繁殖した。そうした野生の馬の子孫が、北海道和種である――と考えられている。日本の在来馬のなかでも、最も「野生の記憶」をとどめた馬である。

 「馬の博物館」にいる北海道和種は、ユキと名付けられた体高(地面から肩甲骨の最も高い部分までの高さ)127センチメートルの雌馬。北海道にいたときは、柵で囲われた牧場ではなく、林間の原野で放牧され、自然の草やササの葉などを食べて暮らしていた。博物館に来た当初、穀物やニンジンなど飼育用のエサを食べようとせず、なんとか食べるようになったら、今度は皮膚病が出てしまった。人が乗るための調教にも、普通の馬の倍以上の時間がかかったそうだ。負けん気が強い性格も、原野育ちの馬にふさわしい。

須川朋子さんと北海道和種ユキ

             北海道和種ユキ

西郷隆盛の弟は騎手で、武豊は遠い親戚

 与那国馬のサンゴ、野間馬のミカンは、いずれも出身地の特産物にちなんで名づけられた。野間馬は、小型の馬が多い日本の在来馬のなかでも一段と小さいが、農耕や運搬に活躍した働き者の馬だ。性格は穏やかで扱いやすかったらしい。ミカンの体高は100センチメートルだから、サラブレッドのマイネルキッツ(体高164センチメートル)と比べると、体格の違いがきわだつ。体のサイズの割には頭が大きく、アニメで描かれる子馬のようにかわいらしい風貌だ。

野間馬ミカン

野間馬ミカン

「じつはミカンという名前は、この場所にあった根岸競馬場にまつわる歴史的なエピソードに関係しているのです」と教えてくれたのは、「馬の博物館」で馬の飼育や調教、ほんものの馬をつかった教育的活動を担当している須川朋子さんだ。

「明治時代の根岸競馬場は、政財界の要人をはじめ上流階級の人たちが集う社交場でしたが、そうした人たちは競走馬の馬主でもありました。なかでも熱心だったのは、西郷隆盛の弟である西郷従道(つぐみち)。競走馬の馬主というだけでなく、自ら騎手として馬に乗ってレースに参加し、優勝したという記録もあります。それがミカン号という名前の馬だったのです」

 「馬の博物館」には、根岸競馬場の歴史を伝えるコーナーがあり、そこにはミカン号にまたがる西郷従道を描いたポンチ絵(風刺画)が展示されている。明治初期の横浜で発行されていた外国人向け風刺漫画誌に掲載されたものだ。

 西郷従道は明治10年(1877年)、旧薩摩藩の士族たちが反乱を起こした「西南戦争」のとき、兄の隆盛と決別して政府に残った。以後、海軍大臣などを歴任、薩摩閥の重鎮として政界で活躍した。東京・目黒にあった別邸には馬小屋があったというから、日頃から乗馬の鍛錬に励んでいたようだ。

西郷従道ポンチ絵

            西郷従道ポンチ絵

 西郷家は日本の競馬史と不思議な因縁があって、当代ナンバー1の騎手である武豊(たけ・ゆたか)は、西郷隆盛と縁戚関係にあることがときどき話題になる。

 明治期の競馬界の功労者のひとりに園田実徳という薩摩藩士あがりの実業家がいる。北海道開拓にかかわり、道内でさまざまな企業を立ち上げ、北海道銀行の頭取も務めた人だ。競走馬を育成する「園田牧場」も新規事業のひとつだったが、場長として現場を差配したのは、園田実徳の実弟である彦七だった。

 薩摩藩には、禰寝(ねじめ)氏という由緒のある名族がいるが、禰寝氏から分岐した武氏という家があった。園田彦七は縁戚にあたる武家を継いで武彦七を名乗った。この人が武豊騎手の曾祖父にあたる。

 武家の系図が西郷家の系図とつながっているのは、園田実徳の娘が西郷隆盛の息子と結婚したからだ。武豊騎手は、西郷隆盛の直接の血縁者ではないものの、薩摩武士の家系によって二人は結びついている。

草創期の競馬界を駆けぬけた南部馬

 江戸時代の薩摩藩(鹿児島県と宮崎県の一部)は、南部藩(岩手県北部と青森県の東側)と並ぶ馬の大産地だった。ともにコメ作りに適さない土地が多かったが、火山性の地質に由来する草原的な環境が広がっていた。それが馬産地としての歴史的背景であることを、文春新書『「馬」が動かした日本史』で詳しく述べている。

 馬産地だった薩摩藩では馬術が盛んで、最後の殿様となった島津忠義は、馬上弓術の練習として様式化された「犬追物」の名手であったと伝わる。西郷従道が乗馬好きだったのも、薩摩の歴史的な風土と関係しているはずだ。そう考えてみると、現代の競馬界を代表する武豊騎手が「薩摩隼人」の血をうけていることが、まったくの偶然とは言えない気もしてくる。

 もっとも、西郷従道が乗っていたミカン号は薩摩馬ではなく、東北地方の馬だったようだ。おそらく南部馬だろう。草創期の根岸競馬場で無敵の強さを発揮したタイフーン号も南部馬だったと記録されている。南部馬は日本の馬のなかでは最も体格が良く、長い戦陣でも気力の衰えないスタミナがあったので、武士の馬として最も珍重された。

 先に申し上げたとおり、明治時代になって軍事的な観点から馬の大型化が政策課題となったとき、南部馬の雌と欧米やオーストラリアから輸入したさまざまな種類の雄馬との交配が盛んに行われた結果、南部馬は消滅してしまった。在来馬の保護にとりくむ上野動物園や「馬の博物館」の厩舎に、南部馬を見ることができないのはこうした事情による。

 南部馬の歴史は、坂上田村麻呂をはじめとする朝廷の将軍と戦った蝦夷(えみし)の騎馬戦士が乗っていた馬にさかのぼることができる。その後の歴史において東北北部に広がる原野は、朝廷や将軍家に献上される名馬の産地だった。富国強兵が最優先された時代の趨勢とはいえ、「馬の日本史」の貴重な証言者であるはずだった南部馬がいなくなってしまったことは悔やまれる。

日本固有の馬は世界最強の騎馬軍団と同じDNA

 今も生息している在来馬の大半は、農耕、運搬で活躍していた馬の子孫だ。何世代にもわたって、農耕や運搬に使われてきた結果として、そうした仕事に適した、ずんぐりむっくりの体形になっている。

 幕末維新期の競馬界で大活躍したタイフーン号の勇姿は写真に残っているが、筋肉質でがっしりとして、均斉のとれた体つきをしている。人間でいえばアスリート体形だ。

 日本の在来馬というと、不格好な体形の小型馬で、走力にも乏しいダメな馬というイメージが定着したのは、南部馬や薩摩馬など「武士の馬」が明治政府の政策によって消滅してしまったからでもある。不幸な誤解というしかない。

 DNAの分析によると日本の馬は、世界最強の騎馬軍団を擁してユーラシア大陸を席巻したモンゴルの馬と同系統だという。けっして弱い馬だったとは思えない。文春新書『「馬」が動かした日本史』をとおして、微力ながらも日本の馬たちの名誉回復に貢献したいと考えている。

昭和の名建築「一等馬見所」

 根岸競馬場のコース跡は、根岸森林公園の芝生広場となっているが、競馬場の跡地であることを示すただひとつの遺構が「一等馬見所」である。昭和5年(1930年)に建てられた観戦スタンドで、貴賓室や高級なレストランを備えた建物だった。

 「一等馬見所」を設計したのはアメリカ人建築家のJ・Hモーガン。東京・丸の内にあった旧丸ビルの建設に協力するため来日、そのあとも日本に留まって設計事務所を営み、関東地方を中心に数々の名建築を残している。

旧根岸競馬場 一等馬見所

           旧根岸一等馬見所

 「一等馬見所」の文化財的な価値については、日本建築学会が横浜市に保存を申し入れ、経済産業省が「近代化産業遺産」に指定したことによって知られている。タワーの丸窓の周囲には月桂樹のようなレリーフがあり、貴賓室の天井画には鳳凰が描かれ、細部の意匠にまで意を尽くしたクォリティの高さをうかがわせる。外見はヨーロッパの古城のような豪壮な雰囲気だ。

 金網に囲まれ内部に入ることはできないが、建物のそばの展示物によって、華やかだった時代の内部のようすを知ることができる。

 ところが、外壁のところどころははげ落ち、ホラー映画のセットのようにツタが壁をおおっている。廃墟マニアのお勧めスポットになっているとも聞く。

馬見所外観2


アメリカ軍に接収された根岸競馬場

「一等馬見所」には3つのタワーがあり、約30メートルの高さがあった。競馬場のある根岸が標高40メートルほどの高台ということもあり、東京湾を一望し、三浦半島や房総半島まで見渡せる絶景が自慢だったという。

 第二次世界大戦がはじまり、次第に戦時色が濃くなるなか、根岸競馬場をふくめて各地の競馬場は閉鎖された。ほかの競馬場は戦後再開されたが、根岸競馬場だけが違った歴史をたどっている。その原因のひとつが「一等馬見所」だった。

 競馬場の広大な敷地は戦時中、帝国海軍に接収され、戦後は長い間、アメリカ軍の管理下に置かれた。「一等馬見所」の眺望の良さは、東京湾に対する軍事上の監視活動に最適であると見なされたらしい。

 1969年、競馬場跡地の大部分は日本に返還され、「馬の博物館」をふくむ公園となったが、「一等馬見所」の返還は10年以上遅れて1982年のことだ。本来であれば新たな観光名所になりそうな名建築だが、返還後も修復されないまま放置され、金網のフェンスの中で老朽化が進んでいる。

 文化財的な価値とは裏腹に、なぜ、廃墟感さえ漂うありさまになっているのだろうか。

 その理由は隣接する「米軍根岸住宅地区」にあったようだ。小学校、教会、映画館、ボーリング場まであった米軍の広大な住宅エリアは、「一等馬見所」のタワーからは丸見えである。プライバシーにとどまらず、セキュリティのうえで問題視されるのは避けがたかったのだろう。

「米軍根岸住宅地区」を返還することについては、日米両政府の間で合意されているが、返還の時期はいまだ決まっていない。現在は無人の町になっているらしいが、周囲は高い金網で囲われ、「在日合衆国軍隊使用地のため、許可のない車両および人の侵入を禁止します」と記された看板があった。金網のフェンスの向こう側には、アメリカの星条旗と日の丸が並んで掲げられている。

 米軍住宅の返還とあわせて、「一等馬見所」についても今後の利用形態が検討されることになるそうだ。幕末にさかのぼるこの地の歴史を象徴する遺構として、有効に活用されることを期待したい。競馬史、建築史の遺産であるにとどまらず、日本の近現代史の陰翳が見える貴重な歴史遺産であるからだ。

横浜・本牧は馬の放牧地?

 明治時代までの地名でいえば、競馬場のあった根岸村の隣に本牧(ほんもく)村があった。

 ここも戦後、米軍に接収されたエリアだが、「本牧」という地名については、古い時代に馬の「牧」があったことに由来するという説がある。

 茅で編んだ馬形のものを海に流す「お馬流し」という謎めいた神事が、江戸時代より前から本牧神社に伝わっていることもこの説に信憑性を与えている。

本牧神社

               本牧神社 

茅で編んだ馬IMG_1672

               茅で編んだ馬

 埋め立てによって江戸時代までの地形はすっかり改変されているが、本牧はもとも台地状の岬だった。岬や半島は馬を囲い込みやすいので、古い時代の放牧地にみられる典型的な地形である。競馬場のできるまえから横浜のこのあたりは、馬との縁のある土地だったのかもしれない。

■「馬の博物館」
横浜市中区根岸台1-3根岸競馬記念公苑
月曜日は休館(祝日、振替休日の場合は開館。翌日休館)
入場 大人100円
問い合わせ 045-662-7581
■参考文献
『日本競馬史』(日本中央競馬会 編)
『ハイカラケイバを初めて候』(馬の博物館 特別展図録)


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