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『アンドロメダ病原体』――佐藤優のベストセラーで読む日本の近現代史

宿主を殺さずに生きていく利口な寄生体

新型コロナウイルスによる感染症の拡大によって世界は深刻な危機に直面している。4月7日夕刻、安倍晋三首相は緊急事態を宣言した。その後の記者会見で安倍首相は、〈最も恐れるべきは恐怖それ自体です。SNS(会員制交流サイト)で広がったデマによって、トイレットペーパーが店頭で品薄になったことは、皆さんの記憶に新しいところだと思います。ウイルスという見えない敵に、大きな不安を抱くのは、私も皆さんと同じです。そうしたとき、SNSは本来、人と人の絆を深め、世界の連帯を生み出すツールであり、社会不安を軽減する大きな力を持っていると信じます。しかし、ただ恐怖に駆られ、拡散された誤った情報に基づいて、パニックを起こしてしまう。そうなると、ウイルスそれ自体のリスクを超える甚大な被害を、私たちの経済、社会、そして生活にもたらしかねません〉(4月7日「産経ニュース」)と述べた。

新型コロナウイルスに関しては、ウイルス自体の危険性よりも、それが人々の心理に及ぼしている影響の方が深刻だ。この点に関して、ロシア政府が事実上運営するウエブサイトに心理学者の興味深い見解が掲載された。〈ロシア科学アカデミー心理学研究所の上級研究者アナスタシア・ヴォロビオヴァ氏はこのテーマは作為的にあまりに大きな焦点を当てられていると考えている。/「恐怖を生む要因は複数あります。公式的、非公式的マスコミが様々な情報発信をしている。これによって公式的なマスコミへの不信感が生まれ、情報の一部を作為的に隠蔽しているのではと勘繰られてしまう。医療、生物学に明るくない人はいつもいるわけで、非公式的なマスコミからの情報の正誤を吟味できない。カタストロフィーをテーマにした映画も恐怖症をあおってしまう。映画は謎の危険なウイルスに大規模感染してしまう様子をまことしやかに描いているからだ。」〉(2月15日「スプートニク」日本語版)

感染症の恐怖で世界の人々の心理に影響を与えた作品の一つがマイケル(マイクル)・クライトンのSF小説『アンドロメダ病原体』(1969年)だ。映画化、テレビドラマ化もされている。クライトンは、映画「ジュラシック・パーク」(1993年)の原作者としても有名だ。『アンドロメダ病原体』は小説であるが、ところどころに事実を散りばめ、この病原体により人類が危機に瀕した5日間についての極秘文書「アンドロメダ報告書」という体裁を取っている。クライトンは医学部出身で、感染症に関する専門知識があるので、ノンフィクションではないかと錯覚させる内容になっている。

ウイルスとの共存

米国が宇宙から病原体を得ることで生物兵器を製造しようとするスクープ計画を進めていた。人工衛星「スクープ7号」が病原体をカプセルに採集してアリゾナの砂漠にある小さな町ピードモントに着陸する。カプセルをこじ開けた者がいたために、町がほぼ全滅してしまう。「アンドロメダ病原体」と名づけられたこの細菌は、人間の血液を瞬時に凝固させ死に至らせる。ただし、アルコール依存症の老男性と生後2カ月の乳児だけが生き残っている。アンドロメダ病原体に感染し、隔離された治療室にいるチャールズ・バートン(病理学者)にマーク・ホール(外科医)がマイクでアンドロメダ病原体の謎を解き明かす。そのやりとりをジェレミー・ストーン(ノーベル賞を受賞した細菌学者)が聞いている。

〈彼はマイクをとりあげた。/「バートン、こちらはホールだ。解答をつかんだぞ。アンドロメダ菌株(ストレイン)は、限られたpHの範囲内でしか生長しない。わかるか? きわめてせまい範囲だ。だから、酸血症かアルカリ血症になれば、心配はなくなる。それには、呼吸によるアルカリ血症を起こせばいい。つまり、呼吸をできるだけ速めればいいんだ」/バートンがいった。「しかし、これは純酸素だぞ。過呼吸を起こして、倒れてしまう。いまでも、すこし目まいがするぐらいだ」/「いや。いま、ふつうの空気に切りかえるよ。さあ、呼吸をできるだけ速めて」/ホールはストーンをふりかえった。「彼に炭酸ガスの多い空気を与えてくれ」/「しかし、炭酸ガスが生長を促進させるんだぞ!」/「知ってる。だが、血液のpHが不利な場合は話がちがう。いいかね、そこが問題なんだ――空気には関係なく、血液に関係がある。だから、バートンの血液を、この生物に好ましくない酸平衡に保たせればいい」/ストーンはとっさに理解した。「そうか、あの子は泣きわめいていた」/「そうなんだ」/「そして、あの老人はアスピリンによる過呼吸」/「そう。おまけにステルノを飲んでいた」/「そして、ふたりとも酸塩基平衡がめちゃくちゃになっていたわけか」とストーン。/「そうだ」とホール。「ぼくの失敗は、酸血症にとらわれすぎたことだった。あの赤んぼうがどうして酸血症になるのか、いくら考えてもわからなかった。もちろん、あの子はもともとそうでなかった、というのがその答だ。あの子はアルカリ性に――酸の過少状態になっていた。だが、それでよかった――酸が多くても少なくても、どちらでもいい――アンドロメダの生長範囲さえはずれていれば」〉

アンドロメダ病原体は、突然変異によって人間には無害になった。しかし、プラスチックを腐食するようになった。そして、最終的には大気圏外に移動していくと予測された。こうして人類は危機を脱したのである。

この小説には、感染症と人間の関係についても示唆に富んだ記述がある。

〈事実、人間は細菌の海の中で暮らしているともいえる。細菌はどこにも存在する――皮膚表面、耳や口の中、そして肺臓や胃の中にまで。人間が所有するもの、手を触れるもの、呼吸する空気――それらはすべて細菌でいっぱいである。細菌はあまねく満ちあふれている。そしてたいていの場合、だれもがそれを意識していない。/それには理由がある。ヒトと細菌の両方がおたがいになじんで、一種の相互免疫を作りだしたのだ。それぞれが相手に適応したのだ。/そして、これにもまたりっぱな理由がある。進化が潜在的生殖能力の増加を目ざしていることは、生物学の一つの原則なのだ。細菌にあっさり殺される人間は、適応力がたりないといえる。生殖できるまで生きながらえないのだから。/同時に、宿主を殺してしまう細菌も、適応不足である。宿主を殺すような寄生体は、それだけで失格だからだ。宿主が死ねば自分も死ぬ。宿主を殺さずに、それに依存して生きていくのが、利口な寄生体のやることである〉

ウイルスは細胞を持たないので生物ではないという見方が主流だ。しかし、ウイルスもタンパク質と遺伝子を持つ。他の生物に寄生して自己を複製させる。現在、世界を震撼させている新型コロナウイルスも、やがて宿主を殺さずに、依存して生きていく選択をするであろう。それまでわれわれは、いかなる手段を用いてでも生き残る努力を続けなくてはならない。

ウイルスより恐れるべきこと

ところで、新型コロナウイルスの危機に直面して、米国、イタリア、フランス、ロシアなどは、感染拡大を防ぐために移動制限を法律や条例で定めている。これに対し日本では国も都道府県も法律や条例によって行動を規制することに対しては慎重だ。憲法第22条で「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する」と定められていることを重視するからだ。何人ということは、日本国民だけでなく、外国人、無国籍者も含まれるということだ。移動(移転)の自由はあらゆる人が本来的に持つ基本的人権の一つだ。それを制限する唯一の例外が公共の福祉に関連する場合だ。新型コロナウイルスに感染した疑いのある人を一定期間隔離すること、特定の国からの入国を規制することなどは公共の福祉によって正当化される。

公共の福祉を理由に法律や条例によって移動を制限することも理論的には可能なはずだ。しかし、政府も都道府県もそれをしない。法による定めが存在しなくても、国や都道府県が自粛を呼びかければ、法律や条例に相当する効果がこの国ではあるからだ。行政府が国民の同調圧力を利用するのだ。

これは、翼賛と同じ発想だ。翼賛の本来の意味は、〈力を添えて助けること。天子の政治を補佐すること〉(『デジタル大辞泉』小学館)だ。強制ではないという建前だ。人々が自発的に天子(皇帝や天皇)を支持し、行動することが期待される。期待に応えない者は「非国民」として社会から排除される。新型コロナウイルス対策の過程で、無意識のうちに翼賛という手法が強まっている。

確かに現状では、行政府による自粛要請は必要だ。しかし、その過程で無意識のうちに行政府が司法府と立法府に対して著しく優位になる可能性がある。それは国家による国民の監視と統制の強化に直結する。新型コロナウイルスは脅威であるが、行政府による過剰な監視が定着すると社会が窮屈になる。この危険を過小評価してはならない。

(2020年6月号掲載)



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