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令和元年に再建された「最新の神武天皇記念碑」を見に行った|辻田真佐憲

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 令和元年、神武天皇の記念碑が新しく建てられた。そんな驚くべき情報を聞きつけ、筆者は三重県熊野市に向かった。そして図らずも、過酷な山登りを体験する羽目になった。

 記紀神話によれば、神武天皇は東征のおり、河内湾からの上陸を阻まれたため、迂回して紀伊半島の南部に上陸。そこから陸路で奈良盆地へと攻め入り、橿原で初代天皇に即位した。

 そのため、もともと紀南地域の太平洋沿いには神武東征に由来する神社や記念碑が多い。聖蹟顕彰碑に、天皇の頓宮跡。車で走っていると、道路脇にはまるで融資の広告のような感覚で「神武東征上陸地」なる看板まで立っていて、だんだん感覚が麻痺してくる。

 そんななか、今回目指す記念碑があるのは、熊野市の北東端。二木島湾の入り口にそそり立つ大岩塊、楯ヶ崎の近くだ。高さ約80メートル、周囲約550メートル。その岸壁に、柱状の割れ目が無数に走る柱状節理の勇姿は、つとに景勝地として愛でられている。

 もっとも楯ヶ崎は、2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」がユネスコの世界遺産に登録されたとき、その対象とならなかった。そのため手軽な交通手段がなく、筆者は熊野市駅より約17キロの道のりをタクシーで向かうしかなかった(もっと近い駅はあるものの、タクシーが待っていない)。

「神武天皇の記念碑まで」と伝えて、通じる確率はかなり低い。九鬼水軍の末裔という今回の運転手も同じだった。新設の記念碑なのに、地元ではそれほど有名ではないらしい。

 そして約30分後。果たして国道311号線かたわらの楯ヶ崎入り口駐車場に、その碑は立っていた。

【1】再建された「熊野荒坂津」記念碑

再建された「熊野荒坂津」記念碑

 高さは全体で4メートル弱。土台付きで、なかなか立派。中央の石碑に「熊野荒坂津 令和元年再建」と刻まれ、その脇の石碑に「神武天皇 最終御上陸地」と刻まれている。昨年建てられただけあって、くすみもなく、文字もくっきり鮮やかだった。

 この「熊野荒坂津」の文字は『日本書紀』に見える。紀伊半島に迂回した神武天皇は、狭野、熊野神邑を経て、最終的にこの地に上陸したとされる。ただし、1940年の紀元2600年奉祝事業では「熊野荒坂津」の場所を特定できず、正式な聖蹟顕彰碑は建てられなかった。

 実在しない天皇に特定もなにもないのだが、それはともかく、ここで気になるのはむしろ「再建」の2字。そう、もともと「熊野荒坂津」の記念碑は、1937年(1940年との情報は間違いか)、そこから約900メートル南西の阿古平の千畳敷に、地元民によって建てられていた。ところが、楯ヶ崎を間近に望む立地が災いして、1959年の伊勢湾台風で流出、わずかに土台のみが残された。それが今回、市民有志によって、場所を移し、再建されたというわけである。

 その経緯は、非売品の冊子「神武天皇最終御上陸地碑再建立(その記録)」に詳しい。神武天皇の記念碑なので、外部の政治団体や宗教団体が関わっていると思いきや、これによれば、再建はデザインから題字まで、熊野市民や同出身者中心に行われたという。2019年11月の除幕式も、約30名が出席した小ぢんまりしたものだった。

 それにしても、気になるのは戦前の記念碑跡だ。海沿いとはいえ、そんなかんたんに重たい石碑が流出するものなのだろうか。これは行って現状を確かめるしかない。なにせ、この神武天皇の記念碑は、ほとんど情報がないのである。

幸か不幸か、再建された記念碑の近くに、遊歩道への入り口があった。阿古平の千畳敷も、その途中にあるとのこと。

【2】楯ヶ崎遊歩道。最初は穏やかな傾斜だが……

楯ヶ崎遊歩道。最初は穏やかな傾斜だが……

 大自然のなかとはいえ、遊歩道と名乗る以上、そんな険しいことはあるまい。そう軽く考えて、タクシーには少し待っていてもらい、海岸線へとつながる坂道を下りていった。ところが、これが運の尽きだった。

 グーグルマップで見れば、直線距離は先述のとおり約900メートル。とはいえ、急斜面なので、道はうねうねと曲がり、なかなか前に進まない。しかも途中の石段は思ったよりも急で、苔が生し、落ち葉も積み重なり、油断すると足元を取られそうになる。柵は完備されておらず、気を抜くと、下へ真っ逆さま。おのずと慎重にならざるをえない。

 しばらく行くと、今度は倒木や落石が道を塞ぎはじめた。それを避けながら、右に左に進む。すぐに息が切れる。当然ながら、人気はなく、やがて獣の臭いも漂ってきた。

【3】途中から険しくなる遊歩道

途中から険しくなる遊歩道

 ガサガサ。無気味な音がするほうを見ると、2匹の鹿がこちらをあざわらうかのように、白い尻を見せながら斜面をゆうゆうと駆け上がっていく。ここは、もはや人間の領域ではない。

 引き返すべきか。しかし、ここまで来てもったいない。そんな思案をしながら、だんだん目的地に近づいていく。進めば進むほど、引き返す決断がしにくい。そうこうするうちに、海岸に出た。小さな鳥居が見える。いよいよ記念碑のお出ましか――。

 さにあらず。ここは、神武天皇の兄、三毛入野命らを祀る阿古師神社。まだ中間地点にすぎない。なんと、ここからはふたたび山を登って、灯台のある高台に出なければならない。

 道はいよいよ険しい。遊歩道は、散歩道の意味ではなかったのか。普段ろくに歩かない筆者には、これは蜀の桟道、箱根の山に等しい。休憩しながら行けばいいのだろうが、タクシーを待たせているので、そういうわけにもいかない。

【4】旧「熊野荒坂津」記念碑跡

旧「熊野荒坂津」記念碑跡

 そして遊歩道に入ってから約30分。ついに、記念碑の跡らしきものが見つかった。なんの標識もないが、場所や形状からして、これで間違いない。たしかに台座が海向きに残っており、そこに雑草が靡いている。

 さきほどの冊子によれば、その上には約3メートルの石碑がそびえ立ち、紀州藩主の末裔・徳川頼貞侯爵の揮毫により「熊野荒坂津」と刻まれていたという。それが、暴風雨でごっそり持っていかれたかたちだ。石材の寿命は長いけれども、こういう風に失われる例もあるのだなと独りごちた。もしかすると、近くの海底にいまも眠っているかもしれない。

 それにしても、仮にこの地に上陸したとすれば、そこから道なき道を乗り越えなければならない。45歳で東征に出発した神武天皇に、果たしてそんな体力があったのかどうか。

 少なくとも、筆者は険しい往路を思い出して、憂鬱にならざるをえなかった。息も絶え絶えにタクシーのもとに戻ったとき、時刻はさらに約50分後を指していた。今回国道沿いに再建したのは、けだし英断。令和の新記念碑は復古的に見えて、その根本において現代的だった。

【5】記念碑跡よりみた楯ヶ崎

記念碑跡よりみた楯ヶ崎

※文中の冊子閲覧につきましては、熊野市教育委員会および熊野市立図書館の方々にご協力をたまわりました。厚くお礼申し上げます。

(連載第26回)
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■辻田真佐憲(つじた・まさのり/Masanori TSUJITA)
1984年、大阪府生まれ。作家・近現代史研究者。慶應義塾大学文学部卒業、同大学院文学研究科中退。政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論、レビュー、インタビューなどを幅広く手がけている。著書に『天皇のお言葉』『大本営発表』『ふしぎな君が代』『日本の軍歌』(以上、幻冬舎新書)、『空気の検閲』(光文社新書)、『文部省の研究』(文春新書)、『たのしいプロパガンダ』(イースト新書Q)、『愛国とレコード』(えにし書房)などがある。監修に『満洲帝国ビジュアル大全』(洋泉社)など多数。軍事史学会正会員、日本文藝家協会会員。

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