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貧しさと卑しさ|中野信子「脳と美意識」

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 ココ・シャネルが、リュクスの対義語は貧しさではなくて卑しさなのだと言ってから数十年が経っている。私たちはまだ、贅沢の反対を貧しさだと思い、剰え、貧しさを恥と考える思考を持ち続けてしまっているように感じられる。貧しいことがかならずしもその人のせいではなく、事物のめぐりあわせで持てる量が制限されてしまったことが自覚できるタイプの人であっても、“貧しい”を“恥ずかしい”と交換してオートマティックに認知してしまっているように見える。

 遠くに行き過ぎた私たちの基準を、元の、危険でも明るい生の側に戻していくには、本来なら、ある程度の覚悟が必要だ。生きていくというのは危険にさらされながら一定の平衡状態を保つということであって、これを維持していくためには、むしろ危険な気配を避けるようにその体を行動させる必要があり、それが私たちの場合は不安をもたらすメカニズムという形で脳に常設されている。つまり、未だ訪れない危機に怯え、起こりえない確率のほうが高い惨事に心を曇らせておくのが私たちの本質であるということだ。

 それゆえに、危難をより増幅してしまいかねない貧しさという状態を、私たちの脳は喜ばない。実際、金銭的に欠乏状態にあるグループと、満たされている状態のグループとで比較をすれば、IQにして9から10ポイントも差がついてしまうという。これは同じ階層のグループを比較しているから、教育程度が違うだとかいった他の社会的要因によるものではない。

 こういったことを、私たちは経験的に、あるいは無意識的に知っていて、貧しいという状態への嫌悪感を生んできたからなのだろうか、貧しい状態にある人は、豊かな人よりもさげすまれやすい。もっと実も蓋もなく、貧しい人は社会的力を使えないので、何をしても仕返しをされる確率がより低いから、軽んじられてしまうということなのかもしれない。

 けれど、自分の子ども時代を振り返ってみれば、貧しいことがさして自己評価を下げる方向には働いていなかったな、とも思う。周りの子たちの経済状況はまちまちで、裕福な家の子も、貧しい家の子もそれなりに過ごして、特に貧しいことによって不利益を被るということもなかった。裕福な家の子は大概、すくなくとも私よりは勉強ができない子でもあって(別にそれはただそうだったというだけで、悪いことではない)、私は単に知識が豊富だとか計算処理が速いとかいうことで一定の敬意を得ることができていたというのも大きいだろう。

 しかし、いつから私たちは貧しさを恥ずかしいと思うようになったのだろう? ただそうである、ということを認められず、弱さの象徴として貧しさが捉えられるようになった。バブル経済の頃に、札束で相手の顔をひっぱたくようなことが格好いいとされるようになったことが、要因の一つにあるだろう。金の味を大衆が覚えて、形而下の貧しさが形而上に染み出してきてしまった。貧しさと卑屈さが同居するようになった。金銭的な裕福を手に入れた人も、貧しさが卑屈さとほぼ同値に扱われる世界では、いつ転落するかわからない恐怖に囚われ、内心の余裕と豊かさを失ってしまう。このことによって私たちの美しさという尺度は崩壊あるいは変容しつつあり、回復の兆しはなかなか見えて来ない。

(連載第40回)
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■中野信子(なかの・のぶこ)
脳科学者。東日本国際大学特任教授。京都芸術大学客員教授。1975年生まれ。東京大学工学部応用化学科卒業、同大学院医学系研究科脳神経医学専攻博士課程修了。医学博士。2008年から10年まで、フランス国立研究所ニューロスピン(高磁場MRI研究センター)に勤務。脳科学、認知科学の最先端の研究業績を一般向けにわかりやすく紹介することで定評がある。17年、著書『サイコパス』(文春新書)がベストセラーに。他の著書に『ヒトは「いじめ」をやめられない』(小学館新書)、『シャーデンフロイデ 他人を引きずり下ろす快感』(幻冬舎新書)など。※この連載は隔週土曜日に配信します。

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