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アヘン戦争で中国の凋落が決定的になる/野口悠紀雄

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※本連載は第23回です。最初から読む方はこちら。

 明の時代に内向きになり中華思想に凝り固まった中国は、清になってもその姿勢を変えませんでした。アヘン戦争に大敗して欧米諸国に植民地化され、中国の凋落が進んだのです。

◆中国とヨーロッパのどちらが原因だったか?

 「かつて世界の最先端だった中国が、ヨーロッパに後れをとるようになった」と言いました。

 この原因は、中国にあったのでしょうか? それとも、ヨーロッパにあったのでしょうか?

 18世紀後半にイギリスから始まった産業革命が重要な原因であったことは明らかです。

 これによって、ヨーロッパの生産力は、著しく向上しました。

 ところが、中国は、産業革命に適応することができず、このため、世界の変化に取り残されたのです。

 しかし、これだけでは説明になりません。

 なぜなら、イギリスに起こった産業革命は、その後他国に広がっていったからです。

 日本も、その流れに対応しました。

 したがって、真の問いは、「なぜ中国が産業革命に対応できなかったのか?」ということです。

 これに関して、『なぜ大国は衰退するのか』(グレン・ハバート、ティム・ケイン著)は、経済史家ジョエル・モキアの著書『The Lever Of Riches』の中の、次のような言葉を紹介しています。

 「答えるべき第1の問題は、なぜ中国がヨーロッパとは異なっていたのかではなく、なぜ1800年当時の中国は1300年当時の中国と異なっていたのかである」

 つまり、「中国がこの500年の間に変わってしまった」という見方です。

 そうでしょうか? 私はこの意見には賛成できません。

 『なぜ大国は衰退するのか』も、モキアの考えを紹介した後で、「この主張は正しくない」としています。

 私もそのとおりだと思います。中国が、この間に(正確に言えば、明の時代以降に)変わらなかったことが問題だったのです。

 問題は、明朝の頃に成立した中国の排外主義と中華思想が、その後も続いたことです。

◆イギリス大使に三跪九叩頭を求める

 明朝の海禁策は清朝にも継承されました。

 また、朝貢貿易を改めようともしませんでした。

 それを象徴的に示すのが、つぎのエピソードです。

 18世紀末、イギリスは中国が朝貢貿易の原則を撤廃し、自由な貿易を保証する条約を締結しようとしました。

 直接の貿易交渉では受け入れられないので、国王ジョージ3世は、乾隆帝の80歳祝賀を名目として、中国に使節団を送りました。

 1792年、ジョージ・マカートニーが、国王ジョージ3世の贈り物をもって、イギリスからの最初の正式使節として、清の宮廷を訪問します。

 やっとのことで1793年、乾隆帝への謁見を許されました。

 ところが、清は、マカートニーに対し、三跪九叩頭の礼をするよう要求したのです。

 これは、三回跪き、九回頭を下げるという礼です。

 三跪九叩頭を行って皇帝に拝謁することは、その臣下であることを意味します。つまり、清朝は、マカートニーを従属国の朝貢使節として扱ったのです。

 マカートニーは三跪九叩頭を拒否したため、特例として片膝をつく礼で謁見が認められました。しかし、貿易改善交渉、条約締結は拒絶され、一切交渉できずに終わりました。

 乾隆帝からジョージ3世に宛てられた手紙では、「わが天子の国はすべてのものを有り余るほど有し、イングランドとの交易の必要はない」と述べられていました。

 「中国には何でもあるから、貿易の必要はない」との考えです。

 1816年の使節アマーストも三跪九叩頭を拒否しました。このときには、謁見が認められませんでした。

 こうして中国は、世界の進歩から取り残されていったのです。

 産業革命に成功したヨーロッパとの実力の差は、どうしようもないほど広がっていきました。

◆アヘン戦争で中国が完敗
 

 この当時、清がイギリスへ輸出していたのは、茶・絹などの高価なものです。他方、イギリスの輸出品は綿織物で、清が求めているものではありませんでした。

 つまり、「中国には貿易の必要はない」という乾隆帝の言葉は、あながち虚構とは言えないのです。

 イギリスの対中貿易赤字は、拡大していました。

 この状態を解決しようと、イギリス政府と東インド会社は、インドのベンガル地方で大々的にアヘンを栽培し、それを中国に密輸出するようになったのです。

 中国国内でアヘンの害が広がりましたが、取り締まりは効きません。

 また、アヘンの支払いのために、銀の流出も増大しました。国家予算の数割に相当する額が流出したこともありました。

 1839年、清朝政府は林則徐を欽差大臣に任命して、広東に派遣します。彼は、吸飲者と販売者に死刑執行を宣言しました。

 さらに、イギリス商人にアヘンの引き渡しを要求。それが履行されなかったので、貿易停止、商館閉鎖の強硬手段に訴え、アヘン2万箱を押収し、焼却しました。

 イギリスは、焼却されたアヘンの賠償を要求。しかし、林則徐は受け入れません。

 この頃、イギリス人水兵による中国人殴殺事件が起こり、林則徐は犯人引き渡しを要求します。しかし、イギリスは応じません。

 1839年11月3日、ついに、イギリスと清の間に戦端が開かれました。

 イギリスはインド総督に命じて海軍を派遣。

 「イギリス軍艦の砲撃が一発当たっただけで、清の船が軒並み沈んだ」というほどの戦力の差だったので、戦争の帰結は明らかです。

 イギリス軍は中国海岸を北上し、厦門、寧波を封鎖、南京に至る勢いを示しました。

 これに驚いた清朝政府は強硬策を放棄し、林則徐を罷免、広州で交渉に当たることとしました。

 しかし、交渉は決裂。イギリス軍は広州を砲撃のうえに上陸して占領。艦隊を北上させ、42年には上海、鎮江を占領し、南京に迫りました。

◆南京条約の締結


 各地の港や運河を占領され、首都北京への交通を止められた清は、降伏せざるを得なくなりました。

 1842年8月29日、南京条約が結ばれます。その内容は、中国にとってきわめて不利な不平等条約でした。

 まず、イギリスへ多額の賠償金の支払い(2100万ドル)。

 上海などの5港を開港し、香港島を割譲、租界地の開港許可。

 清は、不平等条約を飲むしかありません。

 これを見たアメリカとフランスも、同じ内容の条約を迫ってきます。

 アロー戦争の敗戦で九龍半島もイギリスへ割譲。

 こうして、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国による中国植民地化が進みました。

 アヘン戦争は、欧米列強がアジアに足がかりを作るきっかけになったのです。

 また、国内では、太平天国の乱などが起こり、清は弱体化し続けます。

 要するに、中国は徹底的にうちのめされたのです。

 日本では、江戸幕府がこうした情勢を知り、「西洋の書物や技術を積極的に学ぼう」という方向への転換がなされます。

 高島秋帆の西洋流砲術を採用し、江川太郎左衛門にそれを学ばせるなど軍備強化を図りました。

 そして、明治天皇を中心にした新しい近代国家が作られていきます。

 中国は、 日清戦争で日本に敗れました。こうして、とめどもなく凋落していったのです。

(連載第23回)
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■野口悠紀雄(のぐち・ゆきお)
1940年、東京に生まれる。 1963年、東京大学工学部卒業。 1964年、大蔵省入省。 1972年、エール大学Ph.D.(経済学博士号)を取得。 一橋大学教授、東京大学教授(先端経済工学研究センター長)、 スタンフォード大学客員教授などを経て、 2005年4月より早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授。 2011年4月より 早稲田大学ファイナンス総合研究所顧問。一橋大学名誉教授。2017年9月より早稲田大学ビジネス・ファイナンス研究センター顧問。著書多数。
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