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鹿島茂「マント事件」菊池寛アンド・カンパニー⑥

友の罪をかぶり、学校をあとにした菊池青年の心のうちは──。/文・鹿島茂(フランス文学者)
★前回を読む。

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鹿島氏

「マント事件」の背景

いわゆるマント事件は1913年(大正2年)4月前半のある日に起こった。「ある日」としか書けないのは研究者の懸命な探索にもかかわらず、その日がいまだに特定できていないからである。

夕方の6時頃、菊池寛が南寮の部屋で成瀬正一とプラス・マイナスというトランプをしていると、生徒監から呼び出しがかかった。成瀬は3年の部屋替えで南寮から北寮に移っていたが、トランプ好きの菊池の相手をするために南寮の部屋に来ていたのだろう。

呼び出されて、寮務室に出向いてみると、生徒監と大沼という体育教師がいて、北寮の1年生からマント盗難の届けが出ているのだが、菊池寛がそれらしきマントを着て外出し、マントなしで戻ってきたのを目撃した者がいる。マントは質屋に入れられているのが判明したが、この経緯をどう釈明するのかと問い詰められたのである。

このマント事件の背景を説明するには、佐野文夫という一方の当事者と同級の倉田百三の妹との関係について語っておく必要がある。倉田百三というのはもちろん、後に『出家とその弟子』や『愛と認識との出発』で名をあげる倉田百三である。

その頃、佐野文夫は日本女子大1年生の倉田艶子とつきあっていた。佐野は文芸部員として『第一高等学校校友会雑誌』の編集に携わっていたが、同じく文芸部員の倉田百三と親しくなり、彼に妹の艶子を紹介されたと思われる。艶子は文学少女で、関口安義『評伝 成瀬正一』(日本エディタースクール出版部)によれば、草戸数之助というペンネームでこの号の『第一高等学校校友会雑誌』に短歌を二五首投稿している。佐野が倉田の意を汲んで文芸部員の特権を生かしてこのような採稿を行ったのだろう。

菊池寛は『半自叙伝』で佐野を青木、倉田をKとして描き、佐野と倉田艶子との関係についてこう記している。

「私は、Kがなぜ青木に妹を紹介したのか分らない。青木の話に依れば、Kの妹がつまらない高商の学生と交際しているが、そんなものと交際させるのはわるいから、その男との交際を絶って、青木と交際させると云う名目だった。その点で、青木は広い額をした白皙な代表的な文科生であった。Kは、青木に傾倒していて、接近するために、妹を紹介したのではないかと我々には考えられた。しかし、その動機がいずれにしろ、妹を若い青木に紹介するなどは、よく云えばロマンチックでわるく云えば不謹慎である。その意味で、Kは後年その著作で名声を博したが、私はその人を信用する気にはなれなかった。と、云うのも、私は、Kのそうしたロマンチックな企てのとばちりを喰ったからでもあった」

菊池寛が察しているように、倉田百三は、求道的であると同時に性的に破綻したところがあり、後には、艶子の同級生である逸見久子との恋愛を始めとして、いくたの女性と同時的に関係を結んで、ジャーナリズムからは「多妻主義」などと揶揄された。菊池寛が信用できないとしたのもむべなるかなである。

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菊池寛

“借りた”マントでデートへ

それはさておき、「ロマンチックな企てのとばちり」は、青木こと佐野が艶子と戸山ケ原でデートするために見栄を張って一高生のシンボルであるマントを着ていこうとしたことによる。佐野は菊池寛とちがって、ちゃんと自分のマントを持っていたが、当時の一高生の「慣例」に従い、これを質屋に入れ、遊興費に使っていた。そこで、南寮の同じ部屋の佐藤という生徒のマントを借りることにしたのだが、それは少し長すぎたので返し、部屋を出ていったかと思うと新しいマントを羽織って戻ってきた。この後のことは菊池寛の口から語ってもらおう。

「彼は、それを同県人の大学生である黒田から借りて来たと称していた。それは、黒田正太郎と云って、秀才であり、青木の先輩であることを、私は前から知っていた」

佐野はさっそくそのマントを羽織って艶子とのデートに出掛けていった。

それから2日ほどたったある日、菊池寛はもちろん佐野にも一銭も金がなかったので、金の工面に話が及んだとき、佐野が例のマントを質屋に持っていけばいいと言い出した。金ができたら請け出せばいいというのである。こうしたことは寮ではしばしば行われていたので、菊池寛も賛成した。すると、佐野は菊池寛にマントをもって質屋に行ってくれと頼んだ。菊池寛は蒲団まで質入れしたことがあるから、気軽に用事を引き受けたのである。

「じゃとにかく僕がしたことにしましょう」

寮務室に6時頃に呼び出されたとき、菊池寛は取り調べに当たった大沼という体育の教師に対し、マントは佐野が借りてきたものだと主張した。ならば、佐野を呼びだそうということになったのだが、佐野はその晩、田舎から上京してきた人を案内して東京見物に出掛けていて、なかなか帰ってこなかった。もし、このとき佐野が在室しているか、あるいはもう少し早く帰ってきていたら、菊池寛はそのまま無罪放免となったはずなのだが、佐野は11時頃になっても戻ってこなかった。その間、菊池寛は大沼と何時間も睨み合いを続けていたが、やがて大沼の話を詳しく聞くうちに、マントは北寮の部屋から盗まれたものに相違ないと確信するに至った。同時に、佐野を巡る過去のエピソードが思い出されてきた。佐野がインクで汚れたドイツ語の辞書を持っていると、同級の西岡という寮生が、佐野は秀才だから敢えて黙っているのだが、あの辞書は自分のなくした辞書とそっくりだと言っていたのが記憶に蘇ったのである。

マントは佐野が黒田から借りたものではなく、北寮の1年生の部屋から盗んできたことは確実なのだ。菊池寛は『半自叙伝』で、「天才であったが、そう云う点では病気なのである」と評し、「一寸長すぎる。一寸短いマントを着たいために、無断でマントを取って来るのである。しかもその白昼質入れに僕をやらせるのである」と慨嘆している。

しかし、これで事情は飲み込めたものの、また別の困惑が生じてきた。それは佐野が戻って寮務室で問い詰められたら、ひとたまりもなく自白してしまうだろうという予感だった。自分は救われるはずだが、佐野が罰を受けるのも耐えがたかった。

そこで、佐野が寮務室に呼び出される前に、なんとか佐野と話をして善後策を講じたかったのだが、そんな自由は許されない。寮務室から出るには、いったん自分が罪を被る以外に方法はない。しかし、一高独特の鉄拳制裁をくらうのはたまらないと思ったので大沼に尋ねてみた。

「もし、僕がしたと云うことになったら、鉄拳制裁を受けますか」

「いや、君が学校をよしてくれさえすれば、鉄拳制裁などは受けなくてもよい」

「そうですか、じゃとにかく僕がしたことにしましょう」

大沼や生徒監はこの言葉に激怒したが、菊池寛としてはこう言って寮務室から出るほかはなかったのである。

本郷通りの市電の停留場で、菊池寛は佐野が帰ってくるのを待ったが、12時近くなっても佐野は帰ってこなかった。その前に遊びにいっていた久米正雄が帰ってきた。佐野は終電でやっと帰ってきた。このときの2人のやり取りは、『半自叙伝』にほぼ正確に描かれているのでこれを転写しよう。佐野の答えに人物の本質がよく現れているからだ。

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久米正雄

泣きじゃくる佐野の身代わりに

「私は青木に云った。

『君は、あのマントを黒田君から借りたと云うのは本当か』

『本当だとも』

『しかし、君、あれは北寮で無くなったものと、同じと云うことが分って、僕は寮務室で調べられたぞ。だから、君一緒に行って弁解してくれ』

青木の顔は忽ち蒼白に変じた。

『どうしよう。どうしよう』

と云うと、彼は悲鳴をあげて泣き出した。こう云うことになると、彼は思いの外に意気地がないのだった」

佐野の父親というのは以前に触れたように、日本における図書館学の開祖で、このときには山口県立図書館の館長を務めていた。東京帝大文科大学の学長で帝大図書館長も兼務していた上田萬年とは同期で親しい仲(一説に佐野は上田の甥だという)だったこともあり、もし息子が窃盗の罪で一高を退学となったら、累が父親に及ぶことは必定だった。大声で泣きじゃくる佐野を前にしたときの心理を菊池寛はこんなふうに説明している。

「私は泣きしきっている彼に、寮務室へ行って、私の冤罪をそそいでくれとは云えなかった。その上、私は一高を出ても、大学へ行く学資の当は全然なく、やや自棄的な気持にもなっていたし、青木が自ら行くと云わない以上、彼を無理に寮務室へやらせる気持にはなれなかった。私は、到頭青木の代りに学校を出る決心をした。私は、初めから好んで義侠的に身代りになろうと思ったのではなかった。青木がその夜、寮にい合わせたら、或は十一時頃までに帰って来たら、何の問題もなく、青木はその当然な罪を背負ったのだろうが、青木が珍しく外出していたことと、私が自分が助かると同時に、青木の善後策をしてやろうと、一時罪を背負ったため、それを青木に背負い直させることが到頭出来なかったのである」

説明としては完璧である。おそらく、事実関係についても、また菊池寛の心理についても何一つ嘘はついていないだろう。実際、この通りにことは進み、泣きじゃくる佐野と一緒に南寮の部屋に帰った菊池はまんじりともしないで夜を過ごし、一高を退学する決意を固めたと思われる。

「情緒てんめん」とした菊池

しかし、菊池寛の人生において一高入学と並んで、いやそれよりもはるかに重大な転機をもたらしたこのマント事件について、最晩年に書かれたこの『半自叙伝』の記述だけで満足していいのだろうかという気もする。というのも、すでにマント事件の直後から、一高生の間では菊池寛の退学原因についてはさまざまな憶測が飛び交っていたからである。それらの噂を後に友人となった『新思潮』同人たちから聞いた江口渙は『わが文学半生記』(青木文庫)に、前回引用した「佐野がもちろんパッシーヴであった」というテクストの後でこう続けている。

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