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小説「観月 KANGETSU」#55 麻生幾

第55話
納戸(2)

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※本連載は第55話です。最初から読む方はこちら。

 いつもなら閉まっている、母の寝室の向こうに位置する納戸(なんど)の重厚感がある木製の扉が開いていた。

 ただ、納戸と言っても、七海に言わせれば本来の意味である衣服や調度類を納めておく室という雰囲気ではない。単にガラクタだらけの部屋だと七海はいつも母にそう軽口を叩いていた。

 しかし母はいつもそれには何も応えなかった。

 今になって思い出せば、どこか寂しそうな表情をしていた記憶があった。

 七海は松葉杖を駆使して納戸へゆっくりと歩いて行った。

 納戸の中を覗き込むと、入り口にある品々が左右に退けられているような雰囲気に七海は気がついた。

──通りやすうしたんやろうか……。

 七海は思い出した。

 昨日、父が生前に使っていた松葉杖を探して欲しいと強請(ねだ)ったことで、母がさっそく探してくれたのだろう。

 その時の母の姿が七海の頭の中で容易に想像できた。

 自分のわがままを聞いてくれた母はさっそく朝から探してくれたが、見つからなかったことで、商工会女性部で集まる時間に遅れそうになって慌てて家を出た──。

 日頃、几帳面な母にしては珍しいことだ。でも、観月祭への思いがどれだけのものであるかを知っている七海は、ふと母がかわいく思えて微笑んだ。

 七海の足は自然と納戸の中へ向けられた。

 そう言えば、ここに入ったのは、もう随分前だったことを思い出した。

 確か、中学生の頃だったかしら……。

 秋の文化祭に出典した科学研究で使い終わった工作品の置く場所に困った七海は、母の許しを得ないままここへ押し込めた──。

 その時から足を踏み入れたことがないはずだわ……。

 現実に戻った七海は足を踏み出した。

 しかし、3歩足を進めたのが精一杯だった。

 堆(うずたか)く積まれている、プリザーブドフラワー(ガラスケースに入った花)──昔の結婚式で持ち帰った引き出物のようにもはや使いようもない──などの品々に松葉杖が何度も当たって上手く進めなくなったからだ。

 溜息をついた七海は、諦めて入ってきた扉を振り返った──その直前だった。

 右手側に積まれた書籍の一番上に、3個のブルーのリングがデザインされた「トキハ本店」(大分市の代表的デパート)の紙袋があることに目が止まった。

 紙袋は一見して、目新しいものであることがわかった。

 その時、七海は2週間前のことを思い出した。

 お気に入りの黒いパンプスのヒール(かかと部分)が劣化して歩き難くなっている、とぼやいていた母がそのデパートに行ったのだ。

 観月祭で灯篭などに火を灯す時、メインの「酢屋の坂」や「塩屋の坂」の坂をこれでは登れないわ、と言っていた母。いつもなら出不精にもかかわらず、こと観月祭のことに関してゆえに背中が押されることになったのだろう、と七海は思っていた。

 ただ、ちょっと妙なことがあったことを七海は思い出した。。

 大分市へ行くと行ったその日、母は自室でこんな独り言を口にして慌てて家を出ていった。七海はたまたま近くを通った時にそれを耳にしていた。

「あら、もうこげな時間、3時まで間に合うかしら──」

 七海は意味がわからなかった。

 トキハ本店はそんなに早く閉まるはずもないのに……。

 しかしそれ以上、七海はそのことに気にすることはなかった。

 母は久しぶりの大分市に行くのだ。

 きっと、やりたいこと、行ってみたいところ──もしかすると、ひとりでゆっくりデザートでも食べてみたくて、その閉店時間を気にしていたのかもしれない──。

 ただ、七海の視線は紙袋から離れなかった。

 紙袋のことだけならすぐにそこを立ち去っていただろう。

 狭い空間を松葉杖を何とか駆使して紙袋に近づいた七海の目にずっと入っていたのは、古めかしい革造り風のカバンだった。

 縦と横がそれぞれ25センチほどの大きさの、その茶色のカバンは、表面の至るところが剥がれて灰色の裏地が剥き出しとなっている。

 今風のデザインとも明らかに違い、かなり年を重ねた様子の代物(しろもの)だとわかった。

 七海の目が釘付けとなったのは、カバンを開ける部分にしっかりと固定されたダイヤル式の鍵だった。

(続き)
★第56話を読む。

■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生れ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。
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