生産活動の大規模化に伴い、株式会社が重要になる/野口悠紀雄
※本連載は第35回です。最初から読む方はこちら。
第2次産業革命の初期にイギリスが立ち遅れたのは、すでにガスや蒸気機関という技術で社会が形成されていて、電気という新しい技術に対応できなかったからです。
しかし、その後発達した電信や電話、あるいは、化学、鉄鋼、石油、自動車などの分野では、そうした事情はなかったはずです。
この分野でもイギリスが遅れたのは、生産活動が大規模化して株式会社による資金調達の重要性が増したにもかかわらず、イギリスで株式会社が禁止されていたことにあったと考えられます。
◆第2次産業革命はドイツとアメリカが主導し、イギリスは遅れた
第2次産業革命は、新しい技術である電気から出発しました。
ここでは、トーマス・エジソン(1847年 - 1931年)、アレクサンダー・グラハム・ベル (1847年 - 1922年)など、アメリカの発明家の活躍が顕著です。
企業もエジソンが創設したエジソン・エレクトリック・ライト・カンパニー(その後のGE)、電信のウエスタンユニオン、電話のベル・テレフォン(後のAT&T)など、アメリカの企業が技術進歩を先導しています。
第2次産業革命は、化学、鉄鋼業にも広がりました。そして、自動車産業と石油産業が発展しました。ここでも、アメリカとドイツの企業が中心です。第2次産業革命において、イギリスは立ち遅れたのです。
イギリスはまったく取り残されたわけではなく、第2次大戦後にいたるまで、世界で最も先進的な産業を持つ国でした。ただし、全体としての経済力や技術開発力において、ドイツやアメリカの後塵を拝するようになってしまったことは否定できません。
電気への転換でイギリスが立ち遅れたのは、ガスなどの古い技術で社会が形成され、そこからの転換が難しかったからです。
しかし、化学、鉄鋼、石油、自動車などは新しい産業なので、そうした事情はなかったはずです。
電気に関しても、電信や電話は新しい技術です。これらについて、ガス灯からアーク灯への転換が難しかったのと同じような事情はなかったはずです。
それにもかかわらず、こうした面でもアメリカがリードし、イギリスが遅れたのです。それはなぜでしょうか?
考えられる一つの理由は、工業化を達成したイギリスでは多くの専門工が存在し、彼らの力が強かったことです。1871年には労働組合法が成立して、ストライキ権が保障されるようになりました。労働者の団結権・団体交渉権・ストライキ権が労働三権として確立していったのです。
専門工はある技術に特化しているのですから、それを脅かす新技術の導入に抵抗したことが想像されます。
第2次産業革命の特徴は大規模化
ただ、それ以外にも、要因があったと考えられます。
それは、第2次産業革命の技術が大規模化を要求したことです。これについて、以下に考えることとしましょう。
電信や電話の場合、各地域ごとに異なる企業がサービスを提供すると、それらの間の接続が面倒です。全国くまなく一つの企業がサービスを提供するほうが効率的です。鉄道でも似た事情があります。
実際、電信の場合、最初はアメリカ全土に多くの電信会社があったのですが、それらを統合して「ウエスタンユニオン」という一つの会社にしたのです。「ユニオン」という名称がついているのは、そうした事情によります。
電話事業でも、全国的な電話網を設置する必要があります。ベル・テレフォンは、競合会社を買収して全国的な電話網を作っていきました。そして、製造部門であるウエスタン・エレクトリックや基礎研究所であるベル研究所をも擁する巨大企業になったのです。長距離電話事業と地域電話事業のすべてが、一つの企業の中で行なわれました。その従業員数は約100万人に及びました。これは、空前絶後の巨大企業です。
化学、鉄鋼など重化学工業と呼ばれる分野の生産活動も、必然的に大規模なものにならざるをえません。
◆「金ぴかの時代」の企業創始者たち
アメリカでは、1870年代から1900年代にかけて、工業化が急速に進展しました。石油の鉱脈が開発され、大陸横断鉄道で東海岸と西海岸が結ばれました。鉄鋼業などの重工業が発展し、大企業が次々と生まれました。
19世紀の末から20世紀の初めにかけてのアメリカ社会のことを、マーク・トウェインは「金ぴかの時代(Gilded Age)」と呼びました。Gildedとは、無垢の金ではなく、表面だけに金が塗られている「金メッキ」のことです。
新しく誕生した大企業経営者が空前の富を蓄積したことを、やや皮肉交じりに、こう呼んだのです。
この時代に活躍したのは、つぎのような人々です。
鉄道の分野には、コーネリアス・ヴァンダービルト(1794年 - 1877年)がいます。蒸気船運航で富を築いて鉄道事業に乗り出し、ニューヨーク・セントラル鉄道やニッケル・プレート鉄道を支配下に置いて、「鉄道王」と呼ばれました。
アンドリュー・カーネギー(1835年 - 1919年)は、1868年に鋼の大量生産を確立。1870年代に鉄鋼会社を創業し、99年にはアメリカ鉄鋼生産の4分1を占めました。この会社は、後のUSスチールです。
ジョン・デイヴィソン・ロックフェラー・シニア(1839年 - 1937年)は、1870年、31歳の時に石油会社スタンダード・オイルを創業しました。ペンシルバニアで発見された石油鉱脈の将来性に目をつけたのです。競合する製油所をつぎつぎに買収して拡大し、78年までに、アメリカにおける石油精製能力の90%を獲得しました。
82年に、スタンダード・オイル・トラストが傘下企業を支配する体制に再編成され、10万人以上の従業員を抱える巨大企業となりました。
19世紀の石油需要は主として照明用の灯油だったのですが、20世紀になってから自動車用のガソリン需要が急速に伸び、事業はさらに拡大しました。
自動車の分野では、1886年にドイツのゴットリープ・ダイムラーがガソリンエンジンの実用化に成功。1890年、ダイムラー・モトーレン・ゲゼルシャフトを設立し、1892年に初めて自動車を販売しました。
ヘンリー・フォード(1863年- 1947年)は、ライン生産方式による自動車の大量生産に成功した「自動車王」です。
◆「垂直統合」のビジネスモデル
20世紀には、石油産業、自動車産業を中心に「垂直統合」のビジネスモデルが進展し、これが、製造業の基本的なビジネスモデルになりました。
「垂直統合」とは、さまざまな工程を、同一企業の同一工場内で行う生産方式です。
鉄鋼業の工程は、高炉による銑鉄生産、転炉や平炉による粗鋼生産、圧延機による圧延鋼材生産の3工程から成りますが、これらを同一工場内で行なう垂直統合型の企業が20世紀の鉄鋼生産の基本になりました。さらに、鉱山や運輸の事業までも手がけました。
スタンダード・オイルは、探査、採掘から精製、流通にいたるすべてを自社内で行ないました。輸送のために、鉄道に頼らず、自前のパイプライン、タンク車、宅配網を自ら所有しました。1920年代には、ガソリン精製の過程で生じる排ガスからイソプロピレンアルコールの生産が行なわれ、石油化学事業が始まりました。
こうして、油田の調査から始まり、掘削、採油、原油の輸送、精製などがすべて一企業の内部で行なわれる方式が確立されたのです。さらにガソリンスタンドも、石油会社の系列になっていきます。
1908年には、フォードがT型フォードの大量生産方式(ベルトコンベアー方式)を開発しました。1917年に建設されたフォードのリバー・ルージュ工場は、究極の垂直統合工場でした。工場内に高炉があり、「鉄鉱石の搬入から28時間後にT型フォードができる」と言われました。
エンジン、シャシー、ボディー、そしてすべての部品とガラスなどの素材を内製しました。人工の滝で水力発電がなされ、鉱山業、鉱石運搬業も行ないました。タイヤ用ゴムの自社生産のため、ブラジルやコスタリカにゴム農園を作ったほどです。
1928年に完成した時点では世界最大の自動車工場でした。最盛期には12万人の従業員が働いていました。
◆株式会社の活用でイギリスが立ち遅れる
第2次産業革命では大規模な経済活動が行なわれるようになったため、個人事業では対応することができません。株式を発行して広く市中から資金を集める必要が生じたのです。こうして、株式会社が中心的な組織となりました。これが第1次産業革命との大きな違いです。
すでに述べたように、イギリスでは、長期間にわたって株式会社が禁止されていました。
そうなったのは、18世紀のはじめにイギリスで「南海泡沫事件」と呼ばれる事件が発生したためです。
南アメリカの開発を目的として設立された南海会社の株価が急騰したことをきっかけに、多数のいかがわしい株式会社が設立されました。イギリス議会は、これを取り締まるために「泡沫会社禁止法(Bubble Act)」を制定し、国王の特許状または議会の承認を得ていない会社が株式を発行することを禁止したのです。
ただし、第1次産業革命を進めるにあたっては、このことが大きな制約にはなりませんでした。それは、第1次産業革命では繊維産業の小規模な工業が中心だったため、株式会社によって資金を調達する必要性がなかったためです。
他方で、後発資本主義国であったドイツは、株式会社制度を活用して、重化学工業を発展させ、鉄道網を整備しました。
イギリスにおいても、1830年代には鉄道業で株式会社形態が定着するようになり、積極的な資本の調達が行われるようになりました。株式会社の普及に伴い法整備も進み、1844 年には、「株式会社登記法」が制定されました。これによって、要件さえ満たせば誰でも株式会社を設立できるようになりました。
しかし、ドイツやアメリカに対する立ち遅れを取り戻すことはできなかったのです。
世界に先駆けて東インド会社という近代的な株式会社を作り上げ、それによってアジア進出を実現したイギリスが、株式会社制度を濫用したためにその利用を自ら禁止することとなり、そのために第2次産業革命に遅れてしまったのです。誠に皮肉な歴史の展開だったと考えざるをえません。
(連載第35回)
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■野口悠紀雄(のぐち・ゆきお)
1940年、東京に生まれる。 1963年、東京大学工学部卒業。 1964年、大蔵省入省。 1972年、エール大学Ph.D.(経済学博士号)を取得。 一橋大学教授、東京大学教授(先端経済工学研究センター長)、 スタンフォード大学客員教授などを経て、 2005年4月より早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授。 2011年4月より 早稲田大学ファイナンス総合研究所顧問。一橋大学名誉教授。2017年9月より早稲田大学ビジネス・ファイナンス研究センター顧問。著書多数。