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北京五輪のグロテスク 高口康太

「体育強国」のため人民の健康状態まで共産党が支配する。/文・高口康太(ジャーナリスト)

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高口氏

「なかば都市封鎖」

2月4日に始まった北京冬季五輪は、中国の市民生活にさまざまな歪みをもたらしている。

「なかば都市封鎖を食らったようなものでした」

そう嘆くのは、天津市民の李さん(女性、40代)。1月8日、北京市に隣接する同市では中国初のオミクロン株の市中感染が確認された。

「天津市外に出るためには許可が必要ですが、そう簡単には取得できません。たとえ許可を取れたとしても、航空便も高速鉄道も減便され、道路は検問だらけで、そう簡単に移動できません」(李さん)

旧正月には山東省の実家に帰省する予定だったが、すべてがパーになったという。コロナ対策のためならば仕方がないと思いつつも、北京五輪がなければこれほどの規制はなかったのではないかと恨み節をこぼしている。

新型コロナウイルスの流行から2年が過ぎた。中国は明快な基準を作ってのコロナ対策を実施してきた。感染者が出た団地など、地域を限定して封鎖する手法だ。感染者や濃厚接触者が立ち寄った場所では数日間の移動禁止とPCR検査が命じられるが、そこで感染者が見つからなければ開放される。

なるべく社会生活に負担をかけない形でゼロコロナ対策を貫徹するための施策だが、天津の対策は他地域以上に厳しいものとなった。確認された感染者は361人で、ほとんどが津南区という区画に集中している。これまでの手法だと他の区ではさほど負担はないはずなのだが。

冬季五輪開催地である北京市の対策はさらに厳格だ。ありとあらゆるリスクを潰そうとしている。外国からきた選手や記者は感染の恐れがあるとして、街中への外出が禁止されている。市民にも接触しないよう、たとえ選手が乗った車と衝突する事故が起きても、相手とは一切話してはならないと通達されている。

微に入り細を穿つ対策は他にもある。1月23日、北京市政府は過去2週間以内に解熱剤や咳止め薬を購入した市民に対して、72時間以内にPCR検査を受けるよう指示した。体調が悪いのならば感染の疑いありというわけだ。市民はこの指示を無視するわけにはいかない。というのも、北京市では解熱剤、咳止め薬の購入には身分証の提示が義務化されている。誰が、いつ薬を買ったのかというデータはすべて政府が把握している。購入者のスマートフォンにはただちに検査を受けるようメッセージが表示されるという。

中国のコロナ対策で大々的に活用されているのが、健康コードというアプリだ。携帯電話の基地局接続履歴や鉄道や航空便の利用履歴に基づいて、利用者が新型コロナ流行地域を訪問していないか、感染者と同一地点に滞在していないかといったデータに基づき、感染リスクを判定している。中国では今、多くの場所で実名登録が導入されており、そのデータが政府によって把握されている。日本ならば、現金で新幹線チケットを買えばデータを残すことなく移動できるが、中国では高速鉄道も航空機もバスもすべて身分証チェックが義務化されている。

こうしたさまざまなデータを組み合わせることによって、中国政府は潜在的リスクをあぶりだしている。つい先日もカナダからの国際郵便に付着していたウイルスで、北京市民にオミクロン株感染者が出た疑いがあるとして、海外からの貨物を受け取った市民は速やかにPCR検査を受けるように指示された。なお、国際郵便の受け取りのデータも政府は把握している。北京市では国際郵便を受け取った市民に警告するよう、アプリが更新されている。

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厳重な検査

北京五輪アプリで「習近平」がNG

スマートフォンを通じたデジタル監視は中国市民だけではなく、五輪に参加する選手や海外の記者にも向けられている可能性がある。サイバー空間における人権問題を調査するカナダの研究団体シティズンラボは、北京冬季五輪用アプリ「MY2022」のセキュリティリスクを発表した。このアプリは選手や記者が使うためのもので、五輪日程などの情報閲覧機能と、利用者の健康情報、パスポートなど個人情報の記録に使われる。

このアプリに脆弱性が見つかったほか、個人情報の扱いに関する規約が明確ではないことが問題視されている。また、アプリにはNGワード・リストが搭載されている。「天安門動乱」「天安門虐殺」といった歴史的事件から「胡錦濤・江沢民内闘」「習近平」などの政治案件や人名、さらには「日本無修正ビデオ」「ストッキングマッサージ」といったアダルト関連まで、多様性に富んでいる。五輪向けに作られたNGワード・リストではなく、中国のインターネットサービスで一般的に使われているリストを流用したものだろう。

これらはすぐに海外の選手、記者に危害をもたらすものではないが、国際社会向けに配慮されたものではなく、バリバリの中国流で作られたことが窺える。その意味ではこのアプリをインストールすれば、どのような影響が生じるかには不安が残る。米五輪委員会は自国選手に対し、中国では自分の普段使っている携帯電話ではなく、使い捨てのものを使うようにと勧めている。

なぜ、中国政府はここまで監視を強化しているのか。不思議にも思えるが、これこそが中国流だ。市民を監視して反政府勢力を潰すだけではない。さまざまな手法で市民の日常生活に干渉し、「より良き社会」を築くこと――中国共産党は長年にわたり、この取り組みを続けてきた。民主主義陣営からは異様に見えるこれらの施策は、中国共産党の統治技術のほんの一部にすぎないのだ。

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新疆ウイグル自治区に設置された北京五輪関連の像

メダル至上主義から「体育強国」へ

中国にとって五輪といえば、幼少期から選抜された体育エリートを徹底的に鍛え上げてメダル獲得に血道を上げ、国家の威信を示す政治的な場であった。だが近年、そこに変化が生じてきている。

「文化強国、教育強国、人材強国、体育強国、健康中国を建設する」

中国政府の中長期計画である「2035年遠景目標」の一節だ。経済成長や科学技術の発展とならんで、体育強国と健康中国が目指すべき目標とされている。今後5年間で平均寿命を1歳延ばすことなど、健康や体育に関する介入を強めている。

近年、中国で強調されているのが「体育大国から体育強国へ」との転換だ。2004年のアテネ五輪以後、中国の国・地域別獲得メダル数はアメリカに次ぐ第2位で、世界的なスポーツ大国の座についた。ロシアや東欧ではステート・アマ(国家から身分と報酬を保証された実質的なプロ選手)の維持が困難になるなか、中国は相対的に順位をあげたという側面が強い。国威発揚のため五輪のメダルを狙うだけではない。4年に1度開催される中国全国運動会はいわば中国国内版のオリンピックだが、その成績は地方政府の政治業績とされてきた。官僚の出世のために、必死になってスポーツ選手を育成してきたという歴史がある。

しかし、メダル至上主義では体育大国になっても、国民全体が運動を楽しむ体育強国たりえないと、中国は方針を大きく変えた。2017年の全国運動会からは地方別のメダルランキングが廃止された。また、「体育強国建設綱要」(2019年公布)、「全国民フィットネス計画2021~2025年」(2021年公布)など、国民のスポーツ習慣育成計画が導入された。

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五輪のマスコット

人民に運動を強要するシステム

「世界最古の官僚国家」である中国の面目躍如とも言えるのが、やたらと細かい数値目標が導入されている点だ。「国民体質測定基準合格者の比率を92%以上に」「全人口の45%以上が日常的にスポーツを楽しむようにする」「国民1人当たりのスポーツ施設面積を2.5平米以上に」「住宅から徒歩15分以内に運動施設があるよう、全国をカバーする」「スポーツコーチ数を国民1000人あたり2.16人に」といった目標が定められた。

今の金満中国にとってスポーツ施設の整備はさほど難しい話ではないが、人々に実際に運動させることは容易ではない。そこで活用が検討されているのが、中国お得意のデジタル技術である。

現在、各地方政府に導入が呼びかけられているのが運動銀行だ。公園や公共スポーツ施設を訪問した際にスマートフォンを使って訪問履歴を記録するとポイントがもらえる。そのポイントをためると、映画チケットや商品券に交換できるという仕組みが一般的だ。

こうした手法は中国ではもうおなじみだ。中国共産党謹製のアプリ「学習強国」は、習近平の講話や党のメッセージを配信する、党員のための勉強アプリだ。日々習近平講話を勉強するとポイントがたまり、共産党グッズに交換したり、革命聖地旅行招待券をゲットしたりという特典もある。だが、実際にアプリの活用を広めているのはこうしたニンジン作戦ではなく、共産党支部間の競争だという。支部に所属する党員が学習強国でどれだけポイントを獲得したかがデータで集計されるため、ライバル支部に負けじと、日々の学習を強要されているという。運動銀行が普及したあかつきには、同様に地方自治体間の健康競争、運動競争が勃発しても不思議ではない。

習近平のサッカー熱に「右へならえ」

体育強国建設の焦点の一つが学校である。中国ではもともと日本のような部活動はほとんどない。メダルを狙うステート・アマ以外は、受験勉強に専念という風潮だ。

こちらも習近平体制になってから、大きく転換している。2015年公布の「中国サッカー改革発展総体ソリューション」には、授業にサッカーを取り入れたサッカー特色学校の建設拡大が盛り込まれた。

中国人のサッカー好きは有名で、ワールドカップや欧州チャンピオンズリーグ決勝などのビッグイベントには徹夜観戦組が中国全土に続出するほどだ。しかし、中国サッカーのレベルは低く、中国代表の戦績は国民を失望させている。そこで、学校スポーツという広い裾野から欧州でも活躍する選手を数多く輩出している日本に学ぶべく改革が行われた。サッカー特色学校は2015年の5000校から、2025年には5万校にまで拡大するというから、その力の入れようは尋常ではない。

しかし、なぜサッカーだけなのかという疑問もある。同じく人気スポーツのバスケットボールにも特色学校はあるが、その数は2020年で2796校と1桁少ない。実は習近平国家主席は大のサッカーファンとして知られている。2011年には「中国代表がワールドカップに出場すること、中国がワールドカップを開催すること、そして、いつの日かワールドカップで優勝すること、これが私の望みだ」との言葉を残している。

サッカー好きの総書記が誕生し、歓心を買おうと、中国サッカーには強い追い風が吹いた。デフォルト危機で世界を騒がしている恒大集団は、世界の名監督、名選手を買いあさった金満チームを作り上げ、一躍有名企業の仲間入りを果たした。その成功を見て、他の不動産企業も続々とサッカークラブ経営に進出し、中国プロサッカーは不動産リーグと呼ばれるような状況を呈した。なお、この1年あまりの不動産危機によって多くのクラブが人員整理、身売りに追い込まれている。

そうしたゴマスリは下々にまで共通しているようで、バスケットコートをサッカー場に改装した学校も多々あったという。こう見ると、なぜサッカー特色学校だけがやたらと増加しているのか、理解できるのではないか。

昨年7月に実施された学習塾規制も、体育強国とつながっている。学習塾は非営利化しなければ存続を許さないという厳しい規制で、倒産した企業も多い。職を失った塾講師や事務員の数は10万人を超えるという。この規制には「放課後帰宅した後は宿題や勉強のほか、家事やスポーツ、読書、芸術に取り組ませよ。がんばっても宿題が終わらない子どもも、時間になったら睡眠をとらせよ」という一節まであるほどだ。

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習近平国家主席

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