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愛子さま20歳のお覚悟「生んでくれてありがとう」母娘で苦難を乗り越えた 斎藤智子

文・斎藤智子(元朝日新聞記者・皇室担当)

新しい風を吹き込む成年皇族

「『生んでくれてありがとう』と伝えたいと思います」

天皇皇后両陛下の一人娘、愛子さまが3月、初めておひとりで、記者会見に臨んだ。「男の子を産まなくてはならない」というプレッシャーと流産の悲しみを経て、雅子さまが産んだ「女の子」は、いま、輝くばかりの成年皇族となり、皇室に、そして日本に、新しい風を吹き込んでいる。

昨年12月1日に20歳の誕生日を迎えた愛子さまの会見は、学業などの関係から3月17日、御所の大広間で開かれた。父と同じ学習院大学文学部に進学し、現在は2年生。古典文学に長じ、日本語日本文学科で学んでいる。

ちなみに在籍していた学習院女子高等科では、卒業に際し、平安時代の猫や犬について、文学作品を通じて考察したレポートを400字詰め原稿用紙60枚近くにまとめて提出したと言うから、この先も独自性のある研究が期待される。

春らしいライムイエローのスーツに身を包んだ愛子さまは、天皇陛下の言葉を引用する時以外はメモを一切見ることなく、約30分にわたる会見をこなした。記者たちの追加質問にも臆さずに答えた。

20歳になった喜び、勲章の重みで感じた身の引き締まる思い、成年皇族の儀式や宮中祭祀に参列した緊張感……。

皇室にあって最も大切にすべき精神は「国民の幸福を常に願い、国民と苦楽をともにしながら、つとめを果たす」ことだと思っている。それが、上皇陛下から天皇陛下へと受け継がれてきたように感じており、国民と苦楽をともにする一つのあらわれが「被災地に心を寄せ続ける」ことではないかと思っている、などと話してくれた。

醸し出す柔らかで優しい雰囲気は、かつてインタビューした外交官時代の雅子さまにとてもよく似ていた。雅子さまも、輝かしいキャリアの持ち主であることを意識させない柔らかさや素直さがあり、ずっと話していたい気持ちになったものだ。

愛子さまは会見で、自身の長所について「どこでも寝られる」点をあげ、エピソードと共に明かした。また、御用邸のある下田市須崎の海で、親子3人でサーフボードに座る挑戦をし、全員そろって海に落ちたというエピソードも披露した。親子3人、といっても、その顔ぶれが、天皇陛下、皇后陛下、愛子さまなのだから、なんとも言えない驚きとおかしみがある。

そんなユーモアをまぶしながら、会場全体に視線を投げかけ、質問する記者の目をまっすぐに見つめて答える会見はどこかで見たと思ったが、そういえば、天皇陛下の誕生日会見にそっくりなのだ。それもそのはず、事前に「父」から、「コツ」を聞いたのだという。

会見に同席した宮内庁幹部は、おそらく愛子さまは、質問を事前にもらってから何度も自分の言葉で返答を推敲したのだろう、という。だからこそ、自ずと覚えてしまい、メモなしでこんなに自然体で話せたのだ、とも。ご両親が「聞き役」となって、愛子さまに助言する楽しいひとときもあったようだ。

211205愛子成年行事/Getty

ローブデコルテとティアラで成年行事に

「一皮むけちゃったんです」

私の抱いていた子ども時代の愛子さまの印象は、失礼ながらマイペースで、いささか無愛想であった。

夏の静養などで、ご一家が那須や須崎の御用邸に行く時は、家族のご様子をみる絶好の機会である。駅頭で、いわゆる「撮影タイム」が設定されている。

小学生時代の愛子さまは、そんな時、笑顔で手を振るご両親のそばで、すねたような表情を見せた。雅子さまの陰に隠れたり、ぷいっと後ろを向いてしまったり、先に車に乗ってしまおうとしたり。「なぜ、みんな、私の名前を知っているの」と不思議がっている、と聞いたこともある。

記者会見で愛子さまは、自分が「小さい頃から人見知り」であったこと、それは今も克服の対象だと明かしている。そうか、あれは「人見知り」の現れであったのか。

ご両親は当時、そんな愛子さまのふるまいにも、ただにこにこ見守っているだけで、その場ではほとんど、注意をしていなかったように思う。皇族の中には、我が子が幼いころから、居合わせたカメラマンにまで礼儀正しく挨拶するようその場で指導する方もおられたから、皇太子時代の天皇ご一家は、自由放任主義に見えた。「親のしつけがなっていない」「愛子さまにも何かご病気があるのでは」など、意地悪く受け止める報道もあった。

だが、子どもに自覚が芽生えるまで、辛抱強く待つ。それが、雅子さまと天皇陛下の子育ての流儀だったのだ。

愛子さまは、ご夫妻の期待通り、徐々に「自覚」を持つようになった。

皇居の門を車で出入りする時、皇族方はほぼ毎回、車の窓ガラスを下げ、手を振る沿道の人たちに会釈や笑顔を投げかけるのだが、いつの頃からか、愛子さまも笑顔で会釈されるようになった。

高校生になると、まるで別人のようだった。お父さまが天皇に即位されてまもない2019年夏。那須の御用邸に向かう那須塩原駅の駅頭で、愛子さまの「成長ぶり」を実感したことがある。ご一家は、すたすたと人波に歩み寄り、30分以上、会話を楽しんだ。健康的に日焼けした愛子さまには、地元の女性たちから「ずいぶん焼けましたねえ」と、声がかかった。

愛子さまはすぐさま、こう返した。

「そうなんです。でも(那須の御用邸の前に訪れた)須崎(御用邸)ではもっと焼けていて、もう、一皮むけちゃったんです」

どっと笑い声があがった。つられて両陛下も声をあげて笑った。

同世代の高校生と、夏休みの課題をまだ済ませていない、これから頑張らないと大変なことになる、という共通の話題でも盛り上がっていた。

獣医を断念した理由

年月を振り返ってみたい。

01年12月。愛子さまが生まれたのは天皇陛下が皇太子時代、雅子さまと結婚して8年後のことだった。

待ち望み、待ち望み、待ち望んだすえの、我が子だった。

02年4月、出産後の最初のお2人での記者会見で、雅子さまは、

「(出産後)初めて私の胸元に連れてこられる生まれたての子どもの姿を見て、本当に生まれてきてありがとうという気持ちでいっぱいになりました」

と、涙を抑えながら話した。出産を体験した多くの女性が共感する言葉だろう。

「生命の誕生はなんて神秘的で素晴らしいことか」「生まれたての子どもの生きる力を目の当たりにし、子どもというのは生きるために、そして親に愛されるべくして生まれてくるんだということを強く感じました」とも述べた。

愛子さまは今回の記者会見で「生んでくれてありがとう」と述べたが、この言葉は、20年前の母雅子さまの感想に呼応した、娘から母へのメッセージである。

関係者によると、雅子さまは、生命の大切さや神秘さに、とても敏感な子どもだったという。

中学高校と、命の尊さを教えるカトリック系の女子校で学んだが、それ以上に、小さい頃からずっと自宅や学校で、動物を育てて来たことが大きいと思う。

モルモット、ハツカネズミ、カメレオンや蚕まで自宅で育て、世話をした。蚕は、絹糸を繭から取る段階では殺さなくてはならないが、雅子さまはそれがつらくて、全部、成虫の蛾にしてしまっている。小学校の卒業文集には「じゅう医さんになりたい」と書いているが、その後、獣医になった知人から、獣医になるためには動物の病気の研究で多くの動物の命を犠牲にしなければならない、と聴かされ、断念している。

2002年4月2日の記者会見で、雅子さまは涙ぐまれた 宮内庁提供

「生まれてきてありがとう」と涙ぐんだ雅子さま
(2002年、宮内庁提供)

「男子を産む」という責務

皇太子さまとの結婚を受諾する段階で、雅子さまは「皇太子妃」の責務をよく自覚していたという。男子のみに皇位継承権がある天皇家では、「男子を産む」責務がある。わかっていたからこそ、考えに考えた末、覚悟の上で、プロポーズを受諾した。赤ちゃんは何人でも産む心づもりだったようだ。

だが、赤ちゃんは、できなかった。

「命」だけは、頑張ったからといって、成果が出るとは限らない。

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