見出し画像

部落解放同盟の研究② 西岡研介

「同和行政」の功罪を浮き彫りにした「飛鳥会事件」の真相。/文・西岡研介(ノンフィクションライター)

★①を読む。

現役ヤクザの活動家

「どかんかいワレ! おらっ!」

1970年の大阪。身長180センチ、体重100キロの巨体に戦闘服をまとった男が、次々と向かってくる若者たちを編み上げブーツで蹴り倒していく。左胸には、深紅の荊冠の刺繍。荊冠は、部落差別による受難と殉教の血を表した解放運動の象徴だ。

男はこの時、37歳。部落解放同盟飛鳥支部の支部長に就任したばかりだった。すぐさま活動家としての頭角を現し、解放同盟大阪府連の執行委員に抜擢される。同時に、大阪府連が結成した行動隊の副隊長に任命されたのだ。が、この男、現役のヤクザでもあった。

行動隊は、当初、大阪府内の部落内で起こる様々なトラブルを解決することを目的に結成された。だが、その戦闘力を見込まれ、対立する他団体との“市街戦”に駆り出されたという。前出の副隊長をよく知る人物が述懐する。

「そりゃ、あの巨体で、小さい頃からケンカ慣れしてる。おまけに現役のヤクザや。腕っぷしが強いに決まっとるがな。けどな、あの人はほんまに解放運動を一生懸命にやっとった。いや、それこそ命懸けでやってたんや」

だが、それから三十余年。男は、自らが招いた不祥事で、「命懸けでやってた」解放運動から切って捨てられるのだ——。

一気に噴出した不祥事

1965年、政府の「同和対策審議会」は、部落問題を「その早急な解決こそ国の責務であり、同時に国民的課題である」とし、同和地区の環境改善、社会福祉、就業、教育などについて具体的な対策を求める答申を出した。

この答申を受け1969年、補助金給付などの「同和対策事業」(以下、同対事業)が始まる。その根拠法となる「同対事業特別措置法」は当初、10年の時限立法だった。

しかし、長年にわたって社会にはびこる差別によって、戦前から、住居や衛生、就労や教育などあらゆる面で劣悪極まりない状態に置かれていた被差別部落の環境が、わずか10年で改善されるはずもなかった。

このため同対事業はその名を変えながら、特措法が失効する2002年までつづく。33年間で実に16兆円が投じられた。

だが、その一方で、同対事業は運動団体の腐敗と、幹部の堕落を招いた。そして、同対事業が終結した2002年以降、同和行政、解放運動にかかわる不祥事が一気に噴き出すのだ。

2004年4月、大阪府警は、「食肉のドン」と呼ばれた「ハンナングループ」の会長、浅田満ら12人を詐欺容疑で逮捕する。容疑は、2001年の狂牛病問題を受け、「国産牛肉買い上げ制度」を悪用し、輸入牛肉を国産と偽り、補助金約50億円を詐取したというものだった。浅田は詐欺罪などで有罪判決を受け、2015年、最高裁は上告を棄却。懲役6年8カ月の実刑判決が確定し、現在も服役中だ。

大阪府羽曳野市の被差別部落で生まれ、地元の同盟支部の幹部を務めた浅田が「食肉のドン」にまでのぼりつめたきっかけが、1970年に解放同盟大阪府連の指導・協力のもと設立された「大阪府同和食肉事業協同組合連合会」の会長をつとめたことだった。また浅田は「全国同和食肉事業協同組合連合会」の専務理事にも名前を連ねていた。

「ハンナン事件」後も、大阪、京都、奈良で同和行政の不祥事が立て続けに発覚し、部落解放同盟はメディアや世論から「同和利権」などと激しい批判を浴びることとなる。

そのなかでも象徴的な事件が、2006年に大阪府警が摘発した「飛鳥会事件」だった。

部落解放同盟の「飛鳥支部」支部長で、財団法人「飛鳥会」の理事長だった小西邦彦(当時72)が業務上横領などの疑いで逮捕されるのだ。

20年以上前から「飛鳥会」の理事をつとめていた小西は、年間約2億円の収益を7000万円などと過少申告し、差額を横領。横領額は判明しただけでも約6億円にのぼる。

大阪地裁は2007年、「同和団体幹部の地位を私利私欲のために悪用し、大阪市の弱腰の同和行政を食い物にした極めて悪質な犯行」として小西に懲役6年の実刑判決を言い渡した。

この小西こそ、冒頭の人物である。

1933年、大阪府高槻市の被差別部落に生まれた小西は、貧困と差別の中で幼少期を過ごす。中学校に進むころには故郷を飛び出し、大阪の中心部、「キタ」と呼ばれる北区梅田周辺の闇市で、新聞売りなどをして糊口を凌いだという。

その一方で、ケンカに明け暮れ、刑務所を出たり入ったりの生活を送り、20代前半でキタを拠点にしていた山口組系金田組に草鞋を脱ぐ。金田組の組長だった金田三俊は当時、3代目山口組傘下で「殺しの軍団」といわれた柳川組の舎弟で、四天王の一人に数えられた大物幹部だった。

この金田が生まれ育ったのが、事件の舞台となる飛鳥地区である。

画像3

地元住民から圧倒的な信頼

飛鳥地区はキタから淀川を渡って北東約2キロの距離にあり、最盛期の1970年代には1000世帯、3000人が居住していたという。金田組組員となった小西は、1950年代の初めに、親分である金田が住んでいた飛鳥地区に移り住んだ。

そして1969年、小西は、部落解放同盟飛鳥支部の支部長に就任するのだった。

飛鳥支部長となった小西が、地元住民の圧倒的な信頼を得るきっかけとなったのが、就任から4カ月後に起こった共同浴場の火災である。

他の地域であればボヤで済むレベルの出火だったが、当時の被差別部落特有の狭い道路が、消防車の行く手を阻み、地中の水道管が細く水圧が低かったことから、放水が十分できずに全焼した。

当時の解放同盟大阪府連は、劣悪な環境やインフラの未整備を放置してきた行政に問題があると指摘。この時の大阪市との交渉で小西は、市を理詰めで追及し、その責任を認めさせたのだ。

交渉後、小西は飛鳥支部を代表し、大阪府連の応援に謝辞を述べた上で、「この闘争の成果を解放運動の新しい踏み台として、今後、大阪市のきょうだいのみなさんと共に頑張ります」と挨拶したという。「きょうだいのみなさん」とは、被差別部落の“同胞”を意味している。

小西はその後も市と折衝を重ね、木造平屋建てだった共同浴場は、サウナなどを備えた鉄筋3階建てのビルに生まれ変わった。

「大阪市もあの人を頼った」

この市との交渉を機に、活動家としての才を認められた小西は、1970年、前述の通り大阪府連の執行委員に抜擢され、それと同時に、大阪府連が結成した「行動隊」の副隊長に就任。後に大阪市内ブロックの副議長にも就いた。

三和銀行(現「三菱UFJ銀行」)淡路支店の取引先課長で、1983年に小西の担当となって以来、生涯の付き合いとなった岡野義市(78)が明かす。

「小西さんを担当することになった時に、銀行の前任者から引き継いだ資料に、〈若い時に解放同盟行動隊副隊長就任〉と書いてあった。小西さんに『支部長、行動隊って何ですか』って聞いたら、『(対立する他団体と)ケンカする部隊や』。さらに『隊長はどなたですか』って聞いたら、『元酒梅組の岡田さんや』と。元ヤクザが隊長、現役が副隊長の『行動隊』って、どんだけコワモテを揃えてたんやって思いました(笑)」

酒梅組は古くから大阪市西成区の賭場を仕切ってきた博徒で、部落解放同盟西成支部の支部長と大阪府連の執行委員を長く務めた岡田繁次は、その酒梅組の元構成員だった。

そして、飛鳥会事件の舞台となる西中島駐車場(大阪市淀川区)の案件が小西に持ち込まれる。

解放同盟飛鳥支部の関係団体で、後に小西が理事長を務めることとなる「飛鳥会」が、1974年から西中島駐車場の業務委託を受けることとなる。

岡野が語る。

「そもそも、あの話は大阪市役所のほうから持ちかけてきたもの。高架道路下の市の土地で、テキ屋の屋台がぎょうさん集まって勝手に商売していた。困った市側がテキ屋の親分と小西さんが親しいと聞きつけて、『支部長、テキ屋を退かせてくれませんか』と頼みにきたんです」

大阪市の要望通り、テキ屋を退去させた小西は逆に、市に対し、跡地に駐車場をつくり、その運営を自分に任せるように要求。大阪市は駐車場を開設し、市の外郭団体が「飛鳥会」に管理委託するという構図ができあがった。

「事件当時は、小西さんだけが悪いみたいに報道されていたけど、市も銀行も、ヤクザも解放同盟も何かにつけてあの人を頼ってたんや。お互いに利用し合っていた」(前出・岡野)

画像1

事件の舞台となった駐車場

470万円の棺桶

駐車場の売り上げは当初、親分である金田にほぼ全額吸い上げられていたというが、金田が死去した1989年以降、すべて小西のものとなり、小西本人の遊興費や、家族に散財される。

毎晩のように、50万、100万の札束を背広のポケットに突っ込んで、北新地に繰り出し、1カ月の飲み代は1000万円を下らなかったという。妻と2人の娘にカードで自由に買い物をさせ、1カ月の請求額は300万から500万円にものぼった。妻のために980万円もするカルティエの指輪を購入し、娘には630万円のベンツを買い与えた。晩年には、大阪市内の葬儀会社に自分自身のために、総ヒノキの棺桶を470万円をかけて特別発注している。

だが、こうして解放同盟幹部とヤクザという2つの顔を使い分け、私腹を肥やす一方で、小西の解放運動に対する姿勢は真剣そのものだったという。

そもそも小西の支部長就任にあたって、金田の推挙があったとされるが、そこには当然、地元住民からの支持や要望があった。

飛鳥支部が、再建から30周年を迎えた1998年に発行した記念誌『わが町飛鳥』の別冊には〈飛鳥支部員の声〉として地元住民の声が寄せられている。ある女性が〈これまでの支部運動の思い出〉として次のように語っている。

〈西住宅2号棟●●●号 ●●●●●子

30年振りかえると、思い出があります。住宅が欲しいのに、飛鳥には、支部長がいない。それでは住宅が建たないので、●●さん、●●さん、主人が、小西さんのお宅に何度もお願いに行き、支部長を承諾してもらいました。私たちに、大黒柱ができてほんとうにうれしく思いました。(中略)

支部長は住宅、保育所、学校の要求闘争に支部員と運動をして行こうと言うお話で、支部員たちは、まずは住宅やと言って、動員や集会に参加しました。私は市役所に、座込みに言った時、支部長、●●さんの指導に従い頑張ったことを思い、若かったなと思う。

現在の飛鳥は住宅も建って沢山の施設もできました。これも支部長の力と努力のおかげです。私は飛鳥に生れ良かったと思います〉(原文ママ)

地元の住民たちは、小西がヤクザであることを知らなかったはずがない。にもかかわらず、彼に支部長になってもらうため、何度もお願いに行ったというのだ。

解放運動は、「部落民自らによる差別からの解放」というワン・イシューで結集した「大衆運動」であり、解放同盟もインテリからヤクザまで様々な人々が集う組織となった。小西に支部長就任を要請した住民たちの行動はまさに、その運動を体現していたと言える。

ちなみに、〈西住宅2号棟〉とは、1977年に飛鳥地区に建てられた、いわゆる改良住宅のことである。

小西が支部長に就任して以降、同対事業によって、改良住宅が次々建設されている。また保育所、飛鳥解放会館、子供のための飛鳥青少年会館などが次々オープンしていった。

さらには貧困のため就学できなかった中高年者を対象にした識字学級が開設されたり、寝たきり・独居高齢者の家に電話がひかれ、高齢者を訪問するヘルパー制度も確立されていく。

前出の岡野も「あの人が解放運動を真面目に取り組んでいたのは間違いない。『狭山事件』で、市役所の前でハンストまでやってたんやから」と明かす。

岡野のいう「狭山事件」とは、1963年、埼玉県狭山市で女子高校生が誘拐、殺害され、埼玉県警が見込み捜査によって被差別部落出身の青年を別件で逮捕した事件である。青年は、冤罪を主張したが、最高裁は上告を棄却。無期懲役の判決が確定した。部落解放同盟は今も「狭山差別裁判糾弾」を掲げ、再審請求を運動の柱に据えている。

岡野が続ける。

「小西さんは同和問題だけでなく、人権問題や福祉の勉強を真剣にしていた。むかし小西さんから『大阪市役所の連中な、阪大か京大出身か知らんけど、人権や福祉の議論でいっぺんも負けたことない』と聞いたことがあります。

また福祉事業にも莫大な金を使っていました。昔から、子供とお年寄りには優しかった。長男が障害を抱えているということもあって、運動を離れてからは福祉一筋でした」

子供と高齢者への思い

解放運動から距離を置くようになった1981年、彼は社会福祉法人「ともしび福祉会」を設立し、飛鳥地区に「ともしび保育園」を開いた。1994年には高槻市に、1996年には大阪市福島区に、特別養護老人ホームを開設。2005年には、飛鳥地区に生活支援ハウス・グループホーム「飛鳥ともしび苑」を設立している。

後に、「ともしび福祉会」においても小西の私物化が問題になるのだが、これだけの施設をひとりで築いたことからみても、子供と高齢者に対する彼の思いは本物だったのだろう。

「エセ同和行為」と断定

小西の逮捕を受け、部落解放同盟大阪府連はすぐさま除名処分を下したものの、見解を明らかにしたのは、3カ月後のことだった。

2006年9月9日、解放同盟大阪府連は「『飛鳥会等事件』真相報告集会」を開く。

「飛鳥会等事件」となっているのは、大阪府八尾市の部落解放同盟「安中支部」の相談役が、公共事業の受注業者から「地元寄付金」の名目で100万円を脅し取ったとして、恐喝の容疑で逮捕されていたからである。この相談役も元ヤクザで、過去には小西の運転手を務めていた子分だった。

続きをみるには

残り 3,541字 / 1画像
noteで展開する「文藝春秋digital」は2023年5月末に終了します。同じ記事は、新サービス「文藝春秋 電子版」でお読みいただけます。新規登録なら「月あたり450円」から。詳しくはこちら→ https://bunshun.jp/bungeishunju

文藝春秋digital

¥900 / 月

月刊誌『文藝春秋』の特集記事を中心に配信。月額900円。(「文藝春秋digital」は2023年5月末に終了します。今後は、新規登録なら「…

「文藝春秋digital」は2023年5月末に終了しました。今後は「文藝春秋 電子版」https://bunshun.jp/bungeishunju をご利用ください