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星の時間と記憶の海|中野信子「脳と美意識」

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 星の時間というのは、人類史の中でなされた重要な選択の局面を、ツヴァイクが名付けたものである。西洋では伝統的に、人間の意思は星に影響されると考えられてきた。本当に影響があるのかどうか? それは現代の科学ではまだわからない領域の話ではある。

 けれども、人類のうちの、あなたを含む1人1人自身は紛れもなく、かつて巨大な星であったものが死を迎え、その残骸が再構成されてできた、新しい生命でもある。人体を構成する元素のうち、鉄より大きい相対原子質量を持つものは、巨大な恒星の死である超新星爆発を経なければ生成されない。脳を含む私たちの身体は、星の死骸が再構成され、生命を宿したものであるともいえる。

 地球上のほとんどの生物、そして、それらを取り巻く環境に存在する原子は、生成と流転を繰り返し、互いの体を行き来して、エコロジカルシステムの中を循環する。DNAに保存されている遺伝情報は必ずしも表現型と1対1対応ではなく、環境条件に応じてエピジェネティックな変化をする。つまり、物質の循環の中で再構築された<わたし>という現象の固有性の保証は、脳の活動パターンに帰着させられる。

 中野は2度目の大学院博士課程を締めくくるにあたって、展覧会を企画し、その集大成をしなければならないという事情もあり、この一環として『Sternstunde(星の時間)』と題して、生命活動の中枢の一つである脳が描きだすパターンを、ペンタグラムとして壁面にプロジェクションするという形で展示した。

 私たちが10進数を採用している不思議について、特にコンピューターサイエンスの領域からはかつて、10進数は数学的に無意味であり、2進数こそがシンプルで美しい、という声が聞かれたものだ。けれどもその後の進化生物学の発展により、5を形態学的に採用している生物種が少なくなく、それが生命体が生き延びるのに都合がよかったからではないかということが指摘されるようになった。10は5の倍数である。人類が10進数を採用したのは、私たちの祖先がその数字を使って何億年もの進化の歴史を生き延びてきたことの証左であるのかもしれず、展示の中で壁面に映し出される5角形を見て、自分自身が受け継いできた生命の歴史にも思いを馳せてみてほしい、という気持ちもあった。あなた自身は、生命を維持しているだけで尊いのだということを理解してほしいとも思った。

 どのパターンが良い、悪い、優れている、劣っているということもない。来場者には展示の中で、友人同士や仕事仲間のパターンを見比べ、興味深いと思ってもらえたようだ。さらに、すでに測定した人の脳活動のパターンをプリントして作品化したものや、バックヤードの液晶パネルに展示されたパターンと見比べる中に、その人との意外な共通点を見て、さまざまな感慨を持っていただけたようでもあった。脳から抽出された自分自身の内面を見つめるという経験は、日常生活の中ではあまりないことであろうから、本展は、面白い体験を提供する良い機会になったのではないかと思う。

 続編として、言葉や、意図をもって作られた映像(TVやYouTubeやSNS)なしに、私たちが遠くにいても、どれだけ今感じているものを伝えることができるか、の実験として、展覧会『BRAINDIVE』を企画し、2022年3月21日までの会期で展示体験を提供している。などや代々木上原という古民家を改装したオルタナティヴスペースでの開催なのだが、映像の美しさもあって、かなり「生っぽい感覚」を遠隔から送信し、伝えることに成功していると感じた。

 具体的には、リアルタイムで計測された中野の脳活動のデータを送信して、それと同期して変化する海の中の映像の中に包まれてもらう、という展示体験となる。

 3.11で大きな被害を受けた女川の海、あたたかく優しいモルディヴの海、ピュアで透明度の高い阿嘉島の海……これらが、脳活動の変化に合わせて、時に重なり合い、二重写しとなる。現実には存在しない海の姿を、記憶の中で再構成したかのような形で、私と来場者の間で、遠くにいてもリアルタイムで共有できるという体験は、面白いものなのではないかと思う。

 ボルタンスキーの心臓音の部屋は、遠隔から送信された、あるいは記録されたバイオフィードバックデータで、照明とサウンドを同期させたコンパートメントを構成するという形のインスタレーションである。ベルリンにいる人の心臓の音が瀬戸内海の小島で聞こえるという仕掛けに、初めて体験した時には興奮を覚えたものだった。

 中野も、このようなシステムを、脳のデータをもとに作ることができたら、とずっと考えていたが、今回、実装することができて非常に満足している。

 会期が終わってしまうと、もう次にどこでやれるかもわからず、二度とできないだろうと思う。21日までの間に来られる人は、ぜひ来て体験してみてもらいたいと思う。

■中野信子(なかの・のぶこ)
脳科学者。東日本国際大学特任教授。京都芸術大学客員教授。1975年生まれ。東京大学工学部応用化学科卒業、同大学院医学系研究科脳神経医学専攻博士課程修了。医学博士。2008年から10年まで、フランス国立研究所ニューロスピン(高磁場MRI研究センター)に勤務。脳科学、認知科学の最先端の研究業績を一般向けにわかりやすく紹介することで定評がある。17年、著書『サイコパス』(文春新書)がベストセラーに。他の著書に『ヒトは「いじめ」をやめられない』(小学館新書)、『シャーデンフロイデ 他人を引きずり下ろす快感』(幻冬舎新書)など。※この連載は隔週土曜日に配信します。

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