観月_修正

小説 「観月 KANGETSU」#9 麻生幾

第9話
塩屋の坂 (4)

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 溜息をついた貴子は、冷蔵庫へと足を向けた。

 その姿を見つめていた七海の頭の中に思い出すものがあった。

 七海は、貴子の元へ近づいた。

「ちいと聞きてえことがあるん……」

 それは、前から、一度、母に聞いてみたいと思っていたことだった。しかし、聞くタイミングがなかなかなかったし、そもそもそれほど関心があるわけでもなかった。

 だが殺人事件が起こったことや、昨夜、助けてくれたことで、七海は、熊坂洋平という男に強い関心を寄せることとなっていた。

「熊坂さんが、パン持っちきちくるるごつなったんな、何がキッカケやったん?」

「どげえしたんあらたまっち、そげなこつぅ……」

 貴子が訝った。

「いいけん、どうなん?」

 七海がせっついた。

 考えてみると、自分自身も、熊坂洋平とその妻について、詳しいことはまったく知らないのだ。

 仕方がないといった風に貴子は口を開いた。

「確か、最初は、お父さんが亡くなっちからすぐんこと。お父さんに大変お世話になったけんって来られたんちゃ」

「警察の部下の人?」

「どうやったかしら……」

「こげえ長え期間、しゃっち、パン持っちきちくれちょんなんて……。お父さんな、熊坂さんにどげなお世話したん?」

 七海がさらに問いただした。

「熊坂さんのこと、よう知らんのちゃ。お父さんも、亡くなる前、熊坂さんのこと、いっぺんも話したことなかったし……」

 冷蔵庫の中へ顔を突っ込みながら貴子は言った。

「なんの理由も聞かんじ、ずっと施(ほどこ)しゅ受けちきてんわけ?」

 貴子は冷蔵庫から顔を出した。

「そげな言い方、ねいんやねん?(そんな言い方はないんじゃない?)」

 だが七海はそれには答えず、

「そもそも、熊坂パン店って、お父さんが生きちょん頃もあったん?」

 と訊いた。

「さっきからおかしな子やなあ」

 そう言って貴子は再び冷蔵庫の中を探った。

「いいけん、教えち」

 七海がせがんだ。

「確か、お父さんが亡くなっち、しばらくしちから、杵築に来られたみたいなぁ」

「そん前は? どこから? 何ゅやっちょったん?」

 七海が矢継ぎ早に訊いた。

「知らんわ、そげなこつ」

 貴子はもはや取り合わない風であることに七海は気づいた。

「熊坂さんと親しゅうしちょんしなんで知らん?」

 七海は話題を変えた。

「そうね……でも、思いつかんわ」

「もう!」

「なし、そげえ熊坂さんのことが気になるん? 警察のお仕事してらっしゃる涼さんに刺激ぅ受けち、探偵ごっこでもしてえわけ?」

 そう言って貴子は笑った。

「別にそげなわけやねえけど……」

 七海は言い淀んだ。

 貴子は再び顔を上げて七海を見つめた。

「危険なこと、なんかやっちょんやねえやろうね。ねえ七海、涼さんな警察。あんたは普通ん市民なのちゃ」

「普通ん市民ってなにちゃ。考古学ちゅう仕事ぅきちんとしちょんやねえ」

 七海は不満気に言った。

「あっ、そうやな、七海、がんばっちょんもんね」

 貴子が優しく言った。

「そうよ、今回んチャンス、絶対に逃さんけんね」

 七海が明るい声で言った。

 貴子は満面の笑みを返した。

「でも、七海ん言うとおり、考えちみれば、どこか妙な話やわ」

 貴子は、冷蔵庫から取り出した小さな鍋を手にしながら、何かを思い出した風に言った。

「妙っち?」

 七海が急いで訊いた。

「そうなんよ、熊坂さんたち、突然、こん杵築にやっちきたん。ご本人たちもここん出身でなかったし、係累もまったくなかったにぃ……」

「確かに……それって、なにか妙や……」

 そう言って七海がひとり頷いた。

「それに、前から妙やち思うちょったんだけんど、熊坂さんご夫婦ん杵築弁が、どうも微妙に違うようやったし……」

(続く)
★第10話を読む。

■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生れ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。
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