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新連載「菊池寛 アンド・カンパニー③」鹿島茂

高等師範学校を除籍に──挫折と反発の青年時代。/文・鹿島茂(フランス文学者)
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鹿島茂

鹿島氏

除籍の理由

菊池寛は高松中学校卒業後の進路で悩んでいた頃のことについてこう書いている。

「私は自分の家に学資がないことを知り切っていたので、どうにかして、金のかからない学校に行きたいと思った。むろん、私自身の衷心の望みを云えば、高等学校から大学へ行きたいのは、山々であったが、事情止むを得ない以上、最少の学資で行ける学校を選ぶ外はなかった。そのために、私の選んだのは、外国語学校であった。(中略)

ところが、その年の秋になって、東京高等師範学校が、推薦入学の制度を発表した。それは、師範なり中学なりの優等生を、その学校長の推薦で入れると云う制度だった。高等師範は、授業料がいらない上、学資給与の特典もあり、学校としては気は進まなかったが、学資のない私としては兼々注意していた学校だったから、私は応募して見たのである。所が、私は幸か不幸か採用されて入学を許可されたのである」(『半自叙伝 無名作家の日記 他4篇』岩波文庫 以下、断りのない限り、引用は同書)

このように、次善のオプションとして選ばれた高等師範に菊池寛は1908年(明治41年)4月に入学したのだが、なんと、翌年の夏休み帰省中に放埒不羈を理由にここを除籍されてしまったのである。

思い当たる理由はいくつかあった。第一希望校に入学できぬことに精神的に苛立ち、教科書も買わず、教科書なしで教室に入ったり、さらには学校を休んで芝居を見に行ったりしたりと、かなり無茶苦茶なことをやっていたので、除籍処分を受ける心当りはかなりあったのだ。しかし、菊池寛自身が除籍の主な理由と推測しているのは次の2つである。

(1)円満穏健な校風で知られる高等師範のクラス大会で、社会主義に次ぐ危険思想と見なされている個人主義を主張したこと。

(2)峰岸米造の歴史の授業に出席したところ、ノート忘れに気づいて寄宿舎に取りに戻ると知り合いの連中がテニスをしていたのでこれに加わり、2時間ほど楽しんでいると、生徒監でもあった峰岸米造に発見され、睨まれたこと。

「私は、何のために、峰岸先生が、私をにらんでいるかに気がつかなかった。その日の夕方になって、私は生徒監の助手に呼ばれ、なぜ学課を休んだ者がテニスをやったかと、詰問された。そして、初めて峰岸先生の時間を休んでいたことに気がついた。(中略)その夏帰省すると、追いかけるように、除名の通知に接したが、学校として止むを得ない処置だったろう」

やはり後者が除籍の主たる理由だろうが、しかし、こうした度重なる「登校拒否」的症状が続いたとなると、病因はもっと根深いところにあったのではと想像したくなる。それには、菊池寛の幼年時代まで溯らなければならない。

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菊池寛

百舌狩りと「探求の探求」

「私の少年時代の娯楽は、蜻蛉とんぼ釣りと魚釣りである」「魚釣り以外の私の少年時代の遊びは『百舌狩もずがり』であった」

菊池寛は、『半自叙伝』で、少年時代に熱中した遊びを3つ挙げ、詳しく遊び方を記しているが、このうち印象的なのは蜻蛉、百舌の捕獲法である。

蜻蛉の場合、そのペアリングの行動回路を詳しく観察しておいてから、まず雌を捕獲し、これをオトリに使い、近寄ってくる雄を取るという方法である。また百舌は、最初の1匹だけオトリを買い、「一本の糸を両方の眼の下まぶたに針で通しそれを頭の上で結」んでから、朝の5時頃に百舌たちがペアリングのために集まる郊外に出掛け、もち竿を地面に刺し、オトリの百舌を撞木しゅもくの上に立て、オトリの頭の糸をいきなりひっぱって鳴かせ、すばやく物陰に身を隠すという方法である。

「すると、向うの百舌は鳴き声に依って周囲を物色し、囮を見つけると、十中八九まで、襲撃して来て、囮の頭上を蹴るのである。囮が止り木から落ちると相手の百舌は、相手が弱いので拍子が抜け自分の体勢が崩れた刹那に、早速の止り木として、もち竿に止まるのだった」

菊池寛は百舌が囮に向かって来るのはパートナー探しではなく、外敵の駆逐のためだろうと推測している。現在、彼が百舌狩りに熱中した場所は菊池寛記念館が指定する「菊池寛ウォーク」コースの一つに入っている。

さて、この蜻蛉取りと百舌狩りのエピソードから後年の彼を理解するために何を取り出すべきなのか?

一つは菊池寛がパスカルのいう「モノの探求の探求」の人であったという事実である。

「私たちはけっしてモノを探すのではない。モノの探求を求めるのである」(拙訳『パスカル パンセ抄』飛鳥新社)

つまり、少年の菊池寛が求めていたのは蜻蛉でも百舌でもなく、蜻蛉取りと百舌狩りというモノの探求行為そのものであったということなのだ。これはかなり彼のその後の人生の選択を説明している。たとえば、テニス、野球、麻雀、トランプ、将棋、囲碁などあらゆるスポーツや賭事、ゲームなどに熱中したのも、また「文藝春秋」の創刊に踏み切ったのも、じつは、この「探求の探求」のなせる業なのだが、しかし、この段階ではそれにはまだ触れないでおこう。というのも、蜻蛉取りと百舌狩りにも、もう一つの菊池寛の本質が隠されており、最終的には、こちらの方が高等師範除籍事件につながるからだ。

では、もう一つの本質とは何なのか?

それはデカルト的な合理的思考法である。

「小さなファーブル」菊池少年

菊池寛の蜻蛉取りと百舌狩りは、いずれも、偏見を捨てた対象の観察(明証性に基づく懐疑原則)から始まって、次に彼らの行動の特徴を求愛行動か侵入敵の駆逐かに「分類」する(分析原則)ことに移る。[ここまでが問題設定過程]。その分類・分析で得られた知見により、最小コスト最大ゲインの法則に基づいて蜻蛉取りと百舌狩りの手段が選びだされる(総合原則)。そのさい、さまざまなリスクを考慮し、失敗をあらかじめ除去しておく(列挙の原則)。[これが問題の解決過程]。これぞまさにデカルトの四原則である。

もちろん、こうした蜻蛉取りと百舌狩りの合理的な方法を菊池寛がすべて考案したわけでなく、昔から伝わっている方法なのかもしれない。しかし、菊池寛がユニークだったのは伝統的な方法を彼なりにブラッシュ・アップし、独自なものに練り上げていったことである。さもなければ、友達から「百舌の博士」と称賛されたりはしない。

このような意味で、菊池寛は蜻蛉や百舌の観察により気づかぬうちに、日本の「小さなファーブル」になっていたのである。

新聞小説が文学少年を生んだ

こうした菊池寛の合理的思考法はほとんど無意識に読書にも適用された。読書好きが始まったのは尋常小学校4年生の頃、新聞に連載されていた小説を読み始めたのがきっかけだった。小説に登場する「恋」という字の意義をこれで知ったというから、そうとうに早熟である。

ところで、明治期における新聞小説の演じた影響の大きさについては日本のリテラシー(識字)研究においてもっと重視さるべき問題なので、ここで少し考察しておこう。

明治の新聞小説の流行は、1882年(明治15年)から翌年にかけて自由党党首板垣退助が憲政研究のために洋行したことに始まる。最晩年のヴィクトル・ユゴーを訪ねた板垣が、自由民権運動を広めるにはどうしたらいいかと質問したところ、ユゴーが言下に「それは新聞小説に限る」と答えたので、板垣はこの意見を容れて帰国後さっそく「自由新聞」に政治小説を連載させると、これが大人気を呼び部数拡大につながったため、他紙もすぐに追随して、早くも明治10年代後半から新聞小説が大流行したのである。

菊池家で定期購読していたのはおそらく1889年(明治22年)創刊の改進党系・「香川新報」(「四国新聞」の前身)だろう。ひとつ、ピエール・ブルデューにならって、家庭を経済資本と文化資本の大小という軸によって分類し、1「経済資本(+) 文化資本(+)」の家庭、2「経済資本(+) 文化資本(−)」の家庭、3「経済資本(−) 文化資本(+)」の家庭、4「経済資本(−) 文化資本(−)」の家庭、という4ジャンルをつくると、新聞は新聞小説のおかげで、この頃には12ばかりか3の家庭にまで入り込んでいたと見なすことができる。菊池家のような3タイプでも新聞はステータス・シンボルとして苦しい家計を工面してでも定期購読され、その結果、菊池寛のような文学少年を生む下地となっていたのだ。

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寛少年は前から3列目左から5人目

菊池寛の文学的原点たる「文藝倶楽部」

さて、こうして新聞小説で目覚めた菊池寛の文学熱は、高等小学校の3年から「文藝倶楽部」を読み出したことにより、さらに加速する。菊池家には文芸雑誌など買うような余裕はまったくなかったが、次兄が親友の富豪の息子の定期購読していた博文館発行の「文藝倶楽部」を毎月借りてきて家で読んでいたのである。

「私は、兄が読んでいる間、待ち遠しくてたまらなかった。私は、高等小学校の三年四年から、中学の一、二年生とずっと『文藝倶楽部』を愛読した」

「文藝倶楽部」は大出版社博文館が1895年(明治28年)に創刊した文芸雑誌で、総合雑誌の「太陽」、少年雑誌の「少年世界」とともに博文館の三本柱を成していた。菊判240ページ、板目木版ないしは写真製版のカラー口絵、木口木版の挿絵入りという豪華版。口絵は武内桂舟、富岡永洗など一流の日本画家が描き、挿絵もその道のプロが描いていたのでコストは高かったが、博文館の薄利多売戦略で定価は低目に抑えられていた。しかし、平均2万部は確保しないとコスト割れするために、文学青年よりももう少し広い範囲、つまり文学好きの専業主婦をターゲットとする方針を取っていた。勢い、内容は恋愛や女性の生涯などをテーマとする作品が多くなった。

こうした編集方針に合わせて実質的編集長の大橋乙羽(本名・渡部又太郎。文学結社の硯友社元社員で、博文館館長・大橋佐平に乞われて婿となった)は出身母体の硯友社から、尾崎紅葉、広津柳浪、石橋思案など次々と有力作家を登用したので、「文藝倶楽部」は硯友社の機関誌と化していたのである。

したがって、菊池寛の文学的原点には尾崎紅葉率いる硯友社系の小説があるということになる。これが後に大衆小説に転じるさいにおおいなる助けとなったはずである。なぜかといえば、女性を想定読者とした「文藝倶楽部」の硯友社系小説を数多く読むことによって、菊池寛は、蜻蛉や百舌の捕獲の場合と同じように、小説の「観察→分類・分析→原理・法則性の確立」といった一連の合理的解析作業を経て、女性を引き付けるための小説的骨法を意識せずに理解するに至ったのである。「文藝倶楽部」の愛読においても蜻蛉や百舌の捕獲と同じ方法が働いていたのだ。

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