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西寺郷太 小説「'90s ナインティーズ」#33
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西寺郷太 小説「'90s ナインティーズ」#33

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最終章
See You Again
1999年・夏 - 2001年・冬

★前回の話はこちら
※本連載は第33回です。最初から読む方はこちら

(33)「名前なき」10年

 プロ・ミュージシャンになって丸3年の日々が過ぎた 2000年秋は、ワーナーミュージック・ジャパンと我々との契約更新のタイミングでもあった。この年リリースしたメジャー・サード・アルバム《DESTINY》は渾身の自信作。特に筒美京平プロデュースによる2作のシングル〈LOVE TOGETHER〉、〈DJ! DJ! ~とどかぬ想い~〉は、それまで以上の反響を得たものの目指したセールスの領域には達することはなかった。ただ自分達が間違った方向に進んではいない自信はある。時計の針を3年前に戻せるならばメジャー・デビューの時点でこれくらいの振り切り方をすべきだったのかもしれない。思い返せば多くの「オトナ」達から告げられていたアドバイスを我々は初期段階でことごとく拒絶していたのだ。しかし、自分達の頭で考えて失敗してみないとわからないこともある。特にバンドの場合は……。

 100メートル走だと思って全力で走っていたレースが、実はフルマラソンだった、いや明確なゴールなど設定されていないのだと途中で知らされる終わりなき競争と狂騒。ほぼ毎晩、渋谷や三宿や麻布、新宿のクラブやパーティに顔を出しその場にいる先輩や仲間、初めて会った女の子達とグラスを重ね、道化のように踊り、赤や紫に染められたストロボを浴びて酔う。閉ざされた世界の中でそれなりの脚光を浴びて大きな声で笑っている自分、子供の頃に描いた夢を「ある程度は」叶えた男が確かにそこにはいた。とは言え、目の前に広がる現状は少年時代に妄想で燃やした野望通りには進展しない。結局、2000年11月末に首の皮一枚でメジャー契約は1年更新。しかし、若さゆえの謎の強気に満ちた自分の姿は少しずつ消えている。僕はローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズ、ニルヴァーナのカート・コバーン、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ドアーズのジム・モリソンなどが亡くなった27歳の誕生日を迎えていた。

 大抵のポップ・スター、伝説的なバンドの歴史を紐解けば、否定され認められない下積みの辛い季節が必ずある。幼い頃からよく知るアンデルセンの童話「みにくいアヒルの子」のように、他と違う感覚を持っているからこそ当初は疎外されたり、理解されないこともあるがそれは後に花開くための序章として必要な過程。この時までは自分は「白鳥」に違いない、「本気さえ出せば結果が出せる」「世の中に届くはず」と信じ切って疑わない自分がいた。実際に1999年、筒美京平さんから教わったのは「趣味性が高すぎます。もっと一般の、普通のホテルの掃除のおばさんたちが作業の合間に歌詞やメロディうろ覚えでも口ずさんでもらえるような曲を目指さないと。誰が歌っているのか、ましてや作詞・作曲家の名前なんてその人たちは知らない、そういう曲を作った時、ヒットって言えるんですよ」という姿勢。だからこそ、京平さんにプロデュースをお願いした〈LOVE TOGETHER〉が紆余曲折を経て完成した時、彼が僕に向かって「ようやく『商品』が出来ましたね」と微笑んでくれたことが心から嬉しかったのだ。京平さんと出会い仕事をするまでは、自分の曲を「商品」だなんて思ったことはなかった。

 この頃、新宿・百人町に暮らす祖母と2週間に1度ほどのペースでランチをするのが恒例行事になっていた。弟・阿楠が4年前に上京してきてからは彼もその輪に加わった。祖母は小柄ながらエネルギッシュで好奇心旺盛。東京を愛し、電車やバスを乗り継いでどこにでも動くタイプ。油絵が趣味で新宿区の絵画サークルに所属し80代半ばになってもグループ展などにも参加していた。その祖母が一度桜新町の「さくら庵」で焼きたてのみたらし団子を食べてみたいと言ってきた。数日前、渋谷クラブ・クアトロで行われたクリスマス・ライヴ「HiPPY CHRiSTMAS 2000」に来たカズロウから楽屋で手土産として渡された「さくら庵」のみたらし団子や饅頭を祖母に届けた時、「友達の両親がやってる店なんだけど、お店の軒先で食べるともっと美味しいよ」と僕が言ったことに彼女が反応したのだ。思いついたら即行動ということで水曜日のお昼に行こうと約束した。当日、新大久保駅から渋谷で田園都市線に乗り換え、桜新町駅まで向かう。僕自身、「さくら庵」に行くのは1997年の春以来のことで久々だった。生まれたばかりの哲郎を背中におんぶしたマイカが割烹着を着てみたらし団子を焼いていた姿が懐かしい。その夜、カズロウの浮気相手の小雪ちゃんが「さくら庵」に乗り込んできて修羅場となったことも忘れられないが、今、二人は子育てという面でちょうどいい距離感を保ちながら協力しあっているようだ。もうすぐ哲郎も4歳になる。哲郎へのクリスマス・プレゼントとして、トイ・ストーリーのバズ・ライトイヤーのフィギュアを前日に買っておいた。

 2000年12月20日水曜日、最高気温が19度近くまで上がった暖かい午後に弟・阿楠と祖母の3人で「さくら庵」に向かうと、カズロウの両親が予想通り熱烈な歓迎をしてくれた。

「ゴーちゃん、アーちゃん、本当に美味しいわ。連れてきてくれて、ありがとねー」

 祖母はカズロウのお母さんが焼いたみたらし団子を食べながら嬉しそうに言った。しばらくして店を出ようとした時、新店舗「今陣」で準備をしていたカズロウが両親からの連絡を受けて顔を出した。祖母は弟と一緒に帰ることになり、僕は少しカズロウと話すことにした。

「ごめんごめん、逆に気を遣わせて。久しぶりに来たわ、『さくら庵』。なんか、お祖母ちゃんが来たいって言って一緒に来て。こんないい天気で心地よくて、美味しくて。一生忘れられない日になった気がする」

「いや、俺もお祖母ちゃんに挨拶出来たから嬉しかったわー。哲郎におもちゃもありがとう。そうそう、この前のライヴもめちゃくちゃ良かったよ。俺、土岐さんと bice と並んで一緒に観てた。たまたまそばにいて。Cymbals 俺好きなんだけどちゃんと初めて声かけれて嬉しかったなー」

「bice も来てくれてたなー。土岐さん、ずっと学生の頃、隣のサークルでギター弾いててさ。2個下かな? 最初、彼女が歌ったデモ聴いた時、驚いたよ、めっちゃ良くて」

「そうなんだ? お父さんサックス奏者の土岐英史さんだもんね」

「そうそう、4年くらい前に朝方、下北沢かどこかで飲んで始発で帰った日にちょうど Cymbals を始めようみたいなタイミングで夜通しデモ作ってたみたいで。高田馬場駅で偶然彼女に会ったのよ。その時、最初の2本くらい持ってたダビングしたカセットテープを俺にくれてさ」

「へー、偶然?」

「そうそう。考えたら運命的やんな、そんな特別な日に早朝の駅ですれ違うなんて、はは。俺、携帯買ったばかりでその朝、土岐さんと連絡先交換して。聴いてみたら凄かったからさ。すぐ『めちゃくちゃ歌いいよ』って、絶賛の連絡して。そうしたら、あれよあれよという間にデビューしてって感じ。彼女、就職も決まってたみたいなんだけどね。ドラムは矢野さんだしね。矢野さんのドラムがなければ俺も小松もサークル入ってなかったから、色々繋がるよなー。っていうか4年でほんと人生変わるよなぁ」

「変わったのは俺だよ、あはは。美容師見習いから、結婚して、親になって、離婚して、今は団子屋だから」

「頑張ってるやん。ブルーベリー団子。それに哲郎も二人でちゃんと育ててるし、尊敬するわ。俺なんか自分のことで精一杯で子育てなんて想像もつかへん」

「あのさ、小雪ちゃん、めちゃくちゃ霊感あるって知ってるでしょ?」

「みたいね。小雪ちゃん曰く俺も凄い背後霊いるらしいから、あはは」

「なんだったっけ?」

「ゴータ君にはゴータ君がもう一人ついてる、そんな人見たことないって笑ってたよ。あと、俺は40歳とか50歳とか歳とってから大成功するって言われたんだけど、厳しいよなー、ふふ。そこまで待てへんよ、まじで。林君のウチでバーベキューした時、あんたとんでもない遅咲きだよとか自信持ってとか色々小雪ちゃんに言われてちょっとキレたもん、勝手に人の未来を見るなって、ははは。でもさー、ここに来たの、あの浮気事件以来やもん。ほんまにカズロウ焦ってたよな」

「ははは。ごめん、ごめん。何回謝っても足りないけど。ただ小雪ちゃんだけは『ブルーベリー団子』絶対うまくいくって言ってたんだよね。あの子パワーすごいから。その言葉、霊感?だけは今も信じてるんだよなー」

 2000年12月30日土曜日夕刻。

 我々はイベンターのディスクガレージが主催する渋谷公会堂でのライヴ「LIVE DI:GA SPECIAL 2000」に誘われ、TRICERATOPS、BONNIE PINK、WINO と共演した。WINO は、下北沢時代に出会った若手バンド。当初「ボグ・マイトルスター」と名乗っていたが、ある時新宿駅の改札でヴォーカルの吉村潤と偶然会った時「あぁ! ゴータ君、俺たちバンド名変えたんですよ」と彼が言ったのですれ違いざまに「なんてバンド名にしたん?」と聞いたら、一呼吸置いた後で潤は「ワイノ……!」と呟いた。その時の彼の自信満々で確信に満ちた表情が今も忘れられない。その後、メジャー・デビューした WINO は、フジロックフェスティバルに出演するなど上昇気流に着実に乗っていた。

 BONNIE PINK は京都出身のシンガー・ソングライター。カーディガンズをプロデュースしたトーレ・ヨハンソンとタッグを組んだシングル〈Heaven’s Kitchen〉は約30万枚のヒットを記録。しかし、オーバーグラウンドでの認知による急激な環境変化の影響から逃れるため単身渡米し活動休止。そうメディアでは伝えられていた。2年を海外で過ごした後、再び活動を始めようというタイミング。どちらも一緒にステージに上がれることが嬉しい組み合わせだったが、なんといっても特別なのは親友となった和田唱君がギター、ヴォーカルを担当する TRICERATOPS との共演だった。場所は由緒正しき渋谷公会堂、心踊らぬわけがない。

 リハーサルの合間、楽屋で会った和田唱は、いつもと同じ屈託のない表情で考えさせる内容を僕に投げかけてきた。

「あのさー、あのさー、ゴータくん。ちょっと気になってたんだけどさー」

「ん?」

「あと2日で、2001年じゃない?  でさ、でさ。今、2000年でまだ20世紀。次から21世紀なんだよね。なんて呼ぶのかな?」

「なんてって?」

「いや、60年代とか、70年代とか、80年代、90年代とかそういう呼び方が今って出来なくて不便だなぁって。そう思わない?」

「あー、確かに。エイティーズとかナインティーズとかみたいな呼び方、俺もよくするし便利だけど、ないね。今。2000年代?」

「そうそう、それって結構大きいんじゃないか、って思ったりして」

「流石、ワダショー、面白い質問してくるなぁ。名前や呼び方が先に変わってから決まるってこと、意識が変化するってあるもんなー。そういえばこの前、曽我部さんがサニーデイ解散の後の楽屋でさ、『もうここからは新しいものはなんも生まれないからさ、全部この後は繰り返し。質感とかディテールが変わるだけ……』って言ったんだけど」

「へぇー」

「もちろん『2000年』『21世紀』って凄い大きな変化ではあるけど、なんだか『ナインティーズ』みたいに明確な10年の区切りがない分、どう振舞っていいかわからん部分がある、言われてみて気がついたけどそう思うわ……」

 この時、「名前のない」その先10年が自分にとってどのような時代になるのか、全く予想がつかなかった。

次回へ続く

★今回の一曲――NONA REEVES - LOVE TOGETHER(2000)

■西寺郷太(にしでら・ごうた) 
1973年東京生まれ京都育ち。早稲田大学在学時に結成したバンド「NONA REEVES」のシンガー、メイン・ソングライターとして、1997年デビュー。
以後、音楽プロデューサー、作詞・作曲家としても少年隊、SMAP、V6、YUKI、鈴木雅之、岡村靖幸、私立恵比寿中学などの多くの作品、アーティストに携わる。
日本屈指の音楽研究家としても知られ、近年では特に80年代音楽の伝承者としてテレビ・ラジオ出演、雑誌連載など精力的に活動。マイケル・ジャクソン、プリンスなどの公式ライナーノーツを手がける他、執筆した書籍の数々はベストセラーに。代表作に小説『噂のメロディー・メイカー』(扶桑社)、『プリンス論』(新潮新書)、『伝わるノートマジック』(スモール出版)など。
現在 Amazon Music Podcast「西寺郷太の最高!ファンクラブ」でホストを務める。

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