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西川美和 ハコウマに乗って10 もしもしわたし

もしもしわたし

夜更けにふと、用もなく人に電話をできますか。気がつけばそんな習慣を忘れていた。前触れもなく相手の時間に飛び入りすることに不躾さを抱くようになったのは、私だけではないと思う。「電話していい時間はありますか」と事前にアポを取る時代だ。まだ会社だろうか、子供を寝かしつけているだろうか、メールの返信に追われている頃だろうか。みんな互いの時間をひどく大切にしている。

夏の間実家に帰っていたら、後期高齢者枠に入った父母はたびたび親類や友人と電話することに気がついた。思い立てば相手の番号を押す。電話が鳴れば食事中でもテレビを見ていても、誰かも構わず取る。そして長々話に付き合い、自分も喋る。30分、1時間、まだ喋ってるのかと思う。でも声を立てて笑っている。LINEのやりとりじゃこうはいくまい。

オンライン飲み会ブームも去った。基本に立ち返るべく、私もある晩友人に電話してみることにした。テレワーク中心で、離婚して高2の娘と実家住まいの50歳。年に1度会う程度で滅多に連絡もしないけど、まあ許してくれるだろう。

「もしもし? 西川さん、どうしたの?」

「いや用はないけど、電話してみたんだよ。やらなくなったじゃん、こういうの」

「わかるよ、いいね」

互いの近況に始まり、娘の進学問題、ドラマや映画情報、五輪の感想、衆院選、と一通り喋り、ついに話題は韓国アイドル「BTS」に及ぶ。私の一番弱い分野。

「ごめん私、よく知らないのよ。7人組だってことも最近知った」

「そんなものよ。私も娘に言われて半信半疑で動画を見たのがきっかけだけど、ハマってさ。今、一番安定してるのよ」

彼女は数年前に高熱が続いて精密検査や医者巡りを繰り返し、結果的には自律神経の不調や精神疾患と診断されて、仕事のペースダウンが定着していた。

「ばらつきがあるんだよね。昨日まで元気だったのにいきなりベッドから起きられなくなったり、言葉がつっかえて出なくなったり。人や物の名前も恐ろしいほど忘れるし、一種の認知症よね。それが病気のせいか、薬の反応かはわからない」

薬の効果は、服用してみないとわからない。良くなったところと悪く出た症状とを報告し、長い時間かけてその人に合った種類と量を見定めていくそうだ。

「かと思うと、気づけばユニクロで同じTシャツを10枚買ったり、夜中3時にひたすら床を磨いたりしてるの。突然部屋にペンキを塗りたくって、娘との2段ベッドは今すごくファンシーな色よ。躁状態になると、やりたかったことを無我夢中でしちゃうらしい。でも医者にはあなたは地味で堅実だって言われるのよ。預金を空にして株を買う人もいるって」

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