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小林秀雄と文藝春秋 浜崎洋介 創刊100周年記念企画

「原稿料なんか無しでも、あたしゃ書くよ」。時流に迎合せず、「順応」した“2人の天才”。/文・浜崎洋介(文芸批評家)

『我事に於て後悔せず』

小林秀雄の代表的エッセイの1つに「私の人生観」がありますが、年譜を見ると、それは小林が戦後初めて取り組んだ纏まった仕事だったことが分かります。

昭和23年11月10日、新大阪新聞社主催の講演会で「私の人生観」を講演した小林は、その翌年、それに修正を加えたものを『文學界』(7月)、『新潮』(9月)、『批評』(9月)に分載し、さらに加筆したものを、同年10月『私の人生観』として創元社から刊行します。

ということは、文庫本で80頁にも満たない講演録の修正に、小林は、およそ1年間を費やしたことになります。実際、後に、この講演録は「戦後の小林の立脚点を集約的に示す評論として、第二の『様々なる意匠』〔小林秀雄の文壇デビュー作〕とも言うべき位置を占め」るものになります(吉田凞生「『私の人生観』私見」昭和44年、昭和56年改稿、〔 〕内引用者、以下同)。

ところで、ここで興味深いのは、講演のクライマックス部分で、突然、小林秀雄が、菊池寛の名に言及していたことです。小林は、次のように切り出します。

「宮本武蔵の『独行道』のなかの一条に『我事に於て後悔せず』という言葉がある。菊池寛さんは、よほどこの言葉がお好きだったらしく、人から揮毫を請われるとよくこれを書いておられた。〔中略〕これは勿論一つのパラドックスでありまして、自分はつねに慎重に正しく行動して来たから、世人の様に後悔などはせぬという様な浅薄な意味ではない。今日の言葉で申せば、自己批判だとか自己清算だとかいうものは、皆嘘の皮であると、武蔵は言っているのだ。〔中略〕昨日の事を後悔したければ、後悔するがよい、いずれ今日の事を後悔しなければならぬ明日がやって来るだろう。〔中略〕後悔などというお目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ、〔中略〕それは、今日まで自分が生きて来たことについて、その掛け替えのない命の持続感というものを持て、という事になるでしょう。」

ここで重要なのは、この講演会の8カ月前、小林が言及している菊池寛が亡くなっていたことです。

「いやな時代」に亡くなった菊池寛

敗戦の翌年の昭和21年3月、表向きは資金難から、しかし、本当のところは国家敗亡に対する失意から、文藝春秋社の「解散」を口にした菊池寛は、さらに翌昭和22年の10月、つまり、「私の人生観」が講演される1年前、GHQから公職追放の指令を受け、訪問客も少なくなった自宅で急な狭心症に襲われ、60年の生涯を閉じていました(昭和23年3月)。

敗戦直後の混乱期、食糧難でごった返す大塚駅のホームで、偶々河上徹太郎に出くわした菊池寛は、「君、いやな時代が来たねえ」と漏らしていたと言いますが(『文藝春秋70年史』第6章)、まさに「戦争責任」をめぐって「自己批判だとか自己清算だとかいう」言葉が溢れかえっていた「いやな時代」に菊池寛は亡くなっていたのです。そして、それを知る小林秀雄は、あえて菊池寛が好んだ言葉を引いて言うのでした、「後悔などというお目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ、〔中略〕今日まで自分が生きて来たことについて、その掛け替えのない命の持続感というものを持て」と。

後に小林秀雄は、ハッキリと「私は、菊池寛という人を尊敬していたし、好きだったし」(「菊池寛」『文藝春秋』昭和30年6月)と書くことになりますが、この「私の人生観」の一節を読んだだけでも、菊池寛に対する小林秀雄の敬意と絆とは明らかでしょう。

しかし、初めから2人の関係は深かったのでしょうか。そうではありません。

小林秀雄の4つの菊池寛論や「文藝春秋と私」(『文藝春秋』昭和30年11月)といったエッセイから推すに、小林秀雄の菊池寛への信頼は、最初、無意識のレベルで育てられながら、それが次第に頭にまで達して、次第に意識化されていったものであるように思われます。つまり、偶然が必然化していった例として、小林秀雄と菊池寛との関係は深まっていったのだということです。

では、小林秀雄の菊池寛への敬意は、どのように成熟していったのか。その過程を見ておきましょう。

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小林秀雄

「雑誌屋を兼業している通俗作家」

先に触れた「文藝春秋と私」というエッセイによれば、戦前に限って言うと、小林秀雄と文藝春秋との関係は、大きく3期に分けられます。1つは、生活上の必要から小林が無署名で、埋草原稿を書いていた頃の関係(昭和2~4年)。もう1つは、デビュー直後の小林が、新進気鋭の批評家として文芸時評欄を担当していた頃の関係(昭和5~6年)。そして最後に、昭和8年以来、小林が携わり続けてきた雑誌『文學界』の発行元を、文藝春秋社に移してからの関係です(昭和11~19年)。

こうしてみると、小林秀雄と文藝春秋との関係は、相当に深いものだったように見えますが、小林が菊池寛に出会った当初は、全くそんなことはありませんでした。

「僕は、大学生時代、家出して女〔長谷川泰子〕と一緒に自活していたので、いろいろな事をしてかせがなければならなかったが、『文藝春秋』に匿名の埋草原稿を買ってもらうのが、一番楽な仕事だったから、毎月せっせと書いたものである。だから菊池さんには、ずい分早くから御世話になっていたわけだが、長い間面識はなかった。〔中略〕その後、〔中略〕、菊池さんにしばしば顔を合わせる様になったが、ろくに挨拶もしなければ口も利かなかった。昔の事〔生活に困った小林が、原稿料の前借りを頼みに行った際、将棋で忙しかった菊池寛に話が通せなかったという一件〕を決して根に持っていたわけではないが、悲しいかな、二十代の僕のいらだたしい眼には、雑誌屋を兼業している通俗作家など凡そ何者とも思えなかったのである。」(「菊池さんの思い出」『時事新報』昭和23年3月18日号、19日号)

この頃、長谷川泰子と同棲していた小林秀雄は、大学には顔を出さずに、翻訳と家庭教師で糊口をしのぎながら、ときに編集者の菅忠雄を頼って、「アルチュル・ランボオ伝」(昭和2年7月~翌年5月まで)や、「シャルル・ボオドレエル伝」(昭和3年~翌年12月まで)などの匿名原稿を『文藝春秋』に寄稿していたと言います。小林によれば、その時の原稿料が1枚2円、「今日の二千円の稿料よりはいいだろう」(「文藝春秋と私」昭和30年)と言いますから、今の価格で言えば1枚3万円程度でしょうか。いずれにしろ、無名の一学生に払われる金額としては破格の原稿料だったことは間違いありません。にもかかわらず、「二十代の僕のいらだたしい眼には、雑誌屋を兼業している通俗作家など凡そ何者とも思えなかったのである」と言うのだから、いつの時代も青年の生意気さは変わらないと言うべきかもしれません。

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菊池寛がひと回り以上年上

若手批評家が感じた「疲労」

けれども、そんな生意気盛りの小林秀雄に、文芸批評家としての成熟の機会を提供したのも『文藝春秋』でした。文藝春秋編集部は、「様々なる意匠」(『改造』昭和4年9月)でデビューしたこの若手批評家に、文芸時評で筆を振るうチャンスを与えるのです。

最初、3カ月の約束で始まった文芸時評(連載名「アシルと亀の子」)でしたが、文壇事情に通じているわけでもなく、誰に気を遣うわけでもなく書かれた小林秀雄の文芸時評は、その難解さにも拘わらず、たちまち文壇の注目するところとなり、連載は1年に渡って延長されることになります(昭和5年4月~6年3月)。

ただし、ここで注意したいのは、その時すでに、小林秀雄が「批評家失格」との思いを抱いていた事実です。

文芸時評連載中であるにもかかわらず、「批評家失格Ⅰ」(『新潮』昭和5年11月)、「批評家失格Ⅱ」(『改造』昭和6年2月)というエッセイを続けざまに発表した小林秀雄は、そのなかで、相手の揚げ足をとることに躍起になっている批評家と、そこに自分の名前がないかと怯える自意識過剰な作家たちとで構成されている文芸業界のバカバカしさと、そんな一般読者から遠く離れた世界に生息せざるを得ない自分自身の惨めさと……、要するに、任意のポジショントークに汲々とするだけで、自分の「直観」を正直に語ることのできない文芸業界に対する厭味をたっぷりと書き付けることになります。

少し後のことになりますが、小林秀雄は、業界の習慣として続けられてきた文芸時評について、次のように語っていました、「月々の文壇的事件をとり上げてとやかく言う事に疲労を感じて来る。いい加減やっているうちに疲労を感じて来ない様な人は、少しどうかしているのだと僕は思う」(「文芸時評に就いて」昭和10年1月)と。

では、その「疲労」の中心にあった問題とは一体何だったのでしょうか。

かつて、菊池寛は、文芸作品のなかには、表現技巧において評価される「芸術的価値」とは別に、一般読者が好む「内容的価値」(生活的・道徳的・思想的価値)があるのではないかと論じたことがありましたが(「文芸作品の内容的価値」『新潮』大正11年7月)、小林秀雄の「疲労」の中心にあったのも、それと近しい問題、言わば、文芸作品の価値基準に対する不信でした。

「一流作品」が見つからない

たとえば、デビューから4年後、ということは文芸時評を担当してから3年後、「批評について」(『改造』昭和8年8月)のなかで、小林秀雄は次のように書いていました。

「正当な鑑賞のない処に批評は成りたたぬのは論をまたないが、文芸時評という仕事では、この正当な鑑賞という土台が既に事実上全く出鱈目である。作品を諒解する深浅は、成る程批評家の賢愚に準ずるが、これは大した問題ではないので、賢であれ愚であれ、一流作品の前では批評家は皆一応は正直な態度を強いられるものだ。」

小林によれば、誰もが納得せざるを得ない「一流作品」が見つからないことと、それゆえに、文芸時評の明確な「土台」が見出せないこととは同じ問題でした。「名作」が見つからないからこそ、人々は、いつまでたっても「意匠」に囚われてしまうのであり、それが文学界に「混乱」を齎しているものの正体ではないのかと言うのです。

では、なぜ、批評家に「正直な態度」を強いる「一流作品」は生まれないのか。小林によれば、それは、現代作家が、すでに「故郷」を失っていたからです。

「批評について」が書かれる3カ月前、小林秀雄は、「故郷を失った文学」(昭和8年5月)というエッセイを『文藝春秋』に発表していましたが、そこで議論されていた主題こそ、まさしく名作を生み出し、それを鑑賞する「土台」を失くしてしまった「抽象人」の問題でした。

「私の心にはいつももっと奇妙な感情がつき纏っていて離れないでいる。言ってみれば東京に生れながら東京に生れたという事がどうしても合点出来ない、又言ってみれば自分には故郷というものがない、というような一種不安な感情である。〔中略〕自分の生活を省みて、そこに何かしら具体性というものが大変欠如している事に気づく。〔中略〕この抽象人に就いてあれこれと思案するのは確かに一種の文学には違いなかろうが、そういう文学には実質ある裏づけがない。」

「文明開化」「富国強兵」の掛け声と共に、猛スピードで西欧化を推し進めてきた近代日本は、小林秀雄の言うように、「物事の限りない雑多と早すぎる変化のうちにいじめられて来たので、確乎たる事物に即して後年の強い思い出の内容をはぐくむ暇」がなかったのです。とりわけ、明治35年(1902)生まれの小林秀雄の世代にとって、西欧化=近代化の流れは既定コースであり、それ以前にあった「日本的なるもの」――つまり、目の前の作品の良し悪しを決める故郷感覚や生活感覚は、すでに自明のものではなくなりつつありました。

「伝統は僕の血のなかにある」

しかし、不思議なことに、「故郷を失った文学」を発表してから約3年後の昭和11年暮れ、突如として小林秀雄は、「伝統〔故郷感覚〕は何処にあるか。僕の血のなかにある。若し無ければ僕は生きていない筈だ。こんな簡単明瞭な事実はない」(「文学の伝統性と近代性」昭和11年12月)と書きはじめることになります。そして、こう断言していました、「伝統は決して死んではいない。時代がどんなに混乱しても、民族的自覚がどんなに不明瞭になっても、民衆が民族的感覚を失っているとは考えられないからである」(同前)と。

では、この昭和8年に書かれた「故郷を失った文学」と、昭和11年に書かれた「文学の伝統性と近代性」との間には、どんな経験が挟まっていたのでしょうか。

小林が書いた物だけから判断すれば、それは「ドストエフスキイの生活」の連載(昭和10年1月~12年3月)と、そこで取り上げたナロオドの思想=民衆思想からの影響を指摘することができます。が、書かれざる実生活のレベルで考えれば、それは雑誌『文學界』の編集経験が大きく影響していたように見えます。知識人が語る「様々なる意匠」がどんなに立派でも、それが自分たちの「民族的感覚」に適っていなければ、それを決して受け入れようとはしない「民衆」、言うなれば、雑誌の運命を決める“他者としての読者”に、小林秀雄は編集作業を通じて正面から向き合って行くことになるのです。そして、その経験はまた、小林秀雄と菊池寛との関係を新たに作り出して行くことにもなるのでした。

『文學界』というと、今では文藝春秋社が出している文芸誌というイメージが定着していますが、実は、創刊までのいきさつのなかに文藝春秋社は登場しません。

特高警察による小林多喜二虐殺(2月)の記憶も生々しい昭和8年10月、『文學界』はまず文化公論社社主・田中直樹によって創刊されます。『文藝春秋』や『犯罪科学』の編集者を経て、当時流行していた「エロ・グロ・ナンセンス」を武器に社会批判を実践しようと考えていた田中直樹は、雑誌『犯罪公論』を立ち上げ、この雑誌の独立を図って文化公論社を興し(昭和7年)、さらに、満州事変以後の重苦しい空気への抵抗を意図して、文学雑誌の企画をプロレタリア作家の武田麟太郎に持ちかけます。その後、武田が、同じプロレタリア作家の林房雄に相談し、林が小林秀雄に話を持ち込み、この武田・林・小林の3人が、川端康成に相談に行ったところから、雑誌は具体的な輪郭を持ちはじめることになります(林房雄『文学的回想』参照)。その後、それぞれがそれぞれに同人を募った結果として、横光利一や深田久弥などの若手に加え、宇野浩二、広津和郎、豊島与志雄、里見弴などの大正作家も加えるかたちで、同人雑誌『文學界』はスタートすることになったのでした。

雑誌運営という試練――小林秀雄と『文學界』

しかし、この文化公論社版『文學界』はすぐに壁に突き当たってしまいます。創刊号から原稿が集まらず(これに対して、田中直樹はハンストして抗議したと言います)、そこに資金難も重なって、昭和9年2月、5号を出したところで、雑誌は休刊を余儀なくされてしまいます。

が、その窮地を救ったのが小林秀雄でした。

『文學界』が創刊された頃、どういうわけか小林は、知り合いの伊藤近三(ジッド全集などを出していた編集者)を通じて、古本業と出版業を兼業する若き文圃堂店主・野々上慶一に会っていましたが、それから約半年後、『文學界』の経営危機に直面した小林は、再び、その23歳の青年編集者=野々上を上野・桜木町の川端康成宅に呼び出し、雑誌の引き受けを依頼するのです。

野々上は、当時文壇でも売れっ子だった『文學界』の同人が「一度に手に入るのだから悪い話ではないが、問題は資金の都合がつくかどうかだ」と1度ためらいますが、結果的に、小林秀雄たちとの付き合いが深まるにつれて、「まぁ何とかなるだろうさ」という気持ちにもなり、最後は雑誌の版元を引き受けることになります(野々上慶一「小林秀雄と『文學界』」平成13年4月)。

こうして『文學界』は、昭和9年6月、野々上慶一を出版人として、発行部数4000で再スタートを切ります。が、それでも容易には採算が合わず、再刊4号目にして、またしても廃刊の危機に見舞われてしまいます。

が、小林は、そのときも踏ん張ります。廃刊を検討する同人会議の席上、小林は、独酌でグイグイやりながら、「文士というものには、書きたい時に書いて、なんらの制約もなしに発表する、そういう場所が是非とも必要だ。自分もそれが欲しいし、みんなにも持って貰いたい。そのためにも『文學界』のような雑誌を絶対につぶしてはならぬ」と、べらんめい調でやった後、こう言うのです、「原稿料なんか無しでも、あたしゃ書くよ、覚悟を決めて書きますよ」(野々上慶一、前掲)と。

小林の熱意にほだされたのか、その後、同人によるスポンサー探しが始まり、川端康成は岡本かの子から月々100円を貰い、これを文學界賞の賞金に当て、林房雄と武田麟太郎は、友人の宇都宮徳馬から数百円を貰ってきて、これを執筆者の接待費に当てる算段が立てられます。

もちろん、小林秀雄も積極的に動きました。昭和10年1月、『文學界』の編集責任者に就いた小林は、有言実行で「ドストエフスキイの生活」を2年間原稿料なしで連載し、さらに、『のらくろ』の作者である義弟の田河水泡から1500円か2000円という多額の援助金を取りつけ――当時、1000円で土地付きの一軒家が買えたといいます――、何とか『文學界』を軌道に乗せようと努力します。

しかし、それでも慢性的な資金不足は解消されず、ついに、昭和11年6月、文圃堂(社名は文學界社に変更)版『文學界』は、力尽きるようにして終刊してしまうことになるのでした。

ただ、不幸中の幸いと言うべきか、次の版元はすぐに見つかりました。昭和11年7月、『文學界』は、発行元を文藝春秋に移して再起を図ることになるのです。

ここでも、菊池寛に話をつけたのは小林秀雄だったようですが、菊池寛も菊池寛で、よくもまぁこれだけいわく付きの雑誌を、しかも同人制を維持したままで引き受けたものだと思います――実際、文藝春秋の経営とは名ばかりで、引き受け当初は菊池寛のポケットマネーで雑誌を支えていたという話もあります(大澤信亮「小林秀雄」参照)――。にもかかわらず、菊池寛はやる気だったようで、『文學界』を引き受けた直後の「話の屑籠」(昭和11年7月『文藝春秋』の連載コラム)にはこうあります。「今度『文學界』を、文藝春秋社でやる事になった。やる以上、出来る丈、売れるようにやりたいと思っている。純文学の雑誌として、ぜひ後援して頂きたい。7月号は、既に出ているが、なかなかいい雑誌である」と。

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文藝春秋文化講演会での小林秀雄

プロレタリア文学の空気にうんざり

では、なぜ菊池寛は、このような赤字雑誌=『文學界』を引き受ける気になったのでしょうか?

『文藝春秋70年史』は、その理由を、当時の左翼色一色に塗り込められた文壇(プロレタリア文学)の空気に対して、菊池寛自身が、うんざりしていたからではないかと推測しています。なるほど、その点から考えれば、左翼たちの頭でっかちな観念論を排して、新興芸術派と転向派が合流し、若い文学者たちがワイワイと議論をしている『文學界』の雰囲気が、自由主義者=菊池寛の肌に合ったということは十分にあり得る話です。

通俗作家から“天才・菊池寛”へ

では、小林秀雄の方は、なぜ菊池寛に話を持って行ったのでしょうか?

理由のなかには、もちろんお金の問題もあったはずです。が、貧乏所帯の野々上慶一と苦労を共にした小林秀雄です。これまで痩せ我慢でも何でもして支えてきた『文學界』を、単にお金の問題だけで菊池寛に持っていったとは考えにくい。そこには、やはり、菊池寛に対する小林秀雄なりの信頼があったと考えるべきでしょう。

たとえば、『文學界』を文藝春秋に移してから半年後の昭和12年1月、小林は、最初の菊池寛論を発表していましたが、そこに描かれていたのは、かつて「雑誌屋を兼業している通俗作家」と見ていた頃とは正反対の“天才・菊池寛”という像でした。

「〔菊池寛の「父帰る」には〕一切の文学的意匠が無い。文学的思慕も文学的教養も持っていないが、実人生だけは承知している、そういう一般観客の胸に直接通ずるものだけが簡潔に表現されているところに、この戯曲の真の力があり、この作家の天才があるので、この天才は最近の『新道』に至るまで一貫して変らぬ。」

「要するに氏が歩いた道は先駆者の道であって、社会の歩みに垂直に交わる様な言わば観念的先駆者の道ではなかっただけである。先駆者の顔を一っぺんもしてみせなかった先駆者が歩いた道というものを考えると、僕は菊池氏の仕事の一切は明瞭の様に思われる。氏は文学の社会性というものの重要さを、頭ではなく身体で、己れの個性の中心で感じた最初の作家だ。」(「菊池寛論」『中央公論』昭和12年1月)

この文章が書かれた背景として注意しておきたいのは、次の2点です。

1つは、この菊池寛評価の反転が、そのまま、昭和8年の「故郷を失った文学」から昭和11年末の「文学の伝統性と近代性」への飛躍と丁度重なっていたという点。

そして、2つ目に、小林における菊池寛評価と、伝統発見への道行きにおいて見出されていた共通の言葉が、「民衆」や「読者」というキータームだったという点です。小林秀雄は言います、「〔菊池寛の文学には〕通俗性はない、大衆性だけがあるのだ。作者は読者に面白く読ませようと努力しているが、読者を決して軽蔑はしていない」(「菊池寛論」前掲)と。

ところで、これまで見てきたように、小林秀雄が『文學界』に携わってきた時間は、そのまま「書きたい時に書いて、なんらの制約もなしに発表する、そういう場所」(野々上慶一、前掲)を守って行くための試行錯誤の時間でもありました。しかし、それは同時に、どうすれば、文学の言葉を「読者に面白く読ませ」ることができるのかということを考え続けた時間でもあったのです。というのも、文学者の「自由」とは、文が売れなければ――つまり、一定程度の「読者」という基盤がなければ――一遍に吹き飛んでしまうような脆弱なものでしかないからです。読者を軽蔑するなどもってのほかで、いかにして読者との共通基盤を作りあげることができるのか、それが、昭和8年から昭和11年までの4年間、小林秀雄が「頭ではなく身体で」学んだことだったのです。

そして、その経験こそが、小林秀雄をして、菊池寛を「先駆者」だと言わしめた本当の理由だったのでしょう。菊池寛が書いた『文藝春秋』創刊の辞には、「私は頼まれて物を云うことに飽いた。自分で、考えていることを、読者や編集者に気兼なしに、自由な心持で云って見たい」(大正12年1月)とありますが、その言葉はそのまま、あの「文士というものには、書きたい時に書いて、なんらの制約もなしに発表する、そういう場所が是非とも必要だ」という小林秀雄の言葉とも重なっています。この自由に対する眼差しと、それを支えるための社会的基盤への眼差し、その両者を平衡させようとする努力のなかに、小林秀雄の菊池寛に対する敬意、あるいは、お互いの絆は作られていったように見えます。

“通俗性ならざる大衆性”とはなにか

しかし、だからと言って、それは小林秀雄や菊池寛が、単に時代に迎合的だったという話ではありません。先に、小林秀雄の菊池寛評価の転回と、伝統の発見が同時期だったことを指摘しましたが、まさに小林が言う“通俗性ならざる大衆性”のなかには“意匠ならざる常識”が、そして、その常識の土台を作っている「伝統」への眼差しがあったのです。その伝統意識の有無が、「大衆」を掴もうとしながら、結局は大衆にそっぽを向かれてしまったプロレタリア文学と、「大衆」を掴むなどという自意識とは無縁に、しかし、結果的には多くの読者を獲得することになった菊池寛(文藝春秋)との違いでした。

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