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ケツかっちんの無い日々|安藤優子

文・安藤優子(ジャーナリスト)

フジテレビでの生放送生活にこの9月でピリオドを打った。今は亡き逸見政孝さんとコンビを組んだ夕方のニュース「スーパータイム」から、木村太郎さんと一緒に立ち上げた夜のニュース「ニュースJAPAN」、そしてまた夕方に戻っての「スーパーニュース」を卒業して、お昼の情報番組「直撃ライブ・グッディ」まで、なんと34年もフジテレビに通い、毎日生放送に臨んだ。その日常のルーティンがぼかっと無くなり、私にとってまさに「新しい日常」が始まったばかり。そんなある日の早朝急にダンナを職場まで送らなくてはならない事情ができて、我が家の犬2匹も乗せて、3週間ぶりにフジテレビのあるお台場に行った。犬を連れて行ったのは、ついでに近くの公園で朝散歩を済ませてしまうためである。誰かを送りにお台場に行く、という状況がやたら新しく、しかも犬連れ、不思議な感じだった。ガラガラの「お台場海浜公園」の駐車場に車を入れ、犬を降ろして散歩をした。

人影もまばらなお台場の公園、ランニングウエアでさっそうと朝ランする女性、ご夫婦らしき年配の男女がゆっくりとウォーキング、海に向かってストレッチをする若めの男性、などなど、それぞれの時間をそれぞれに過ごしている。ものすごく平和。とても静か。で、見上げれば大きな球体を戴いたフジテレビの社屋が。あの建物の中では今このときもすさまじい勢いで人が動き、走り、怒鳴り、叫び、生放送を送り出していると思うと、そのすぐ足元の公園の風景は別世界である。ほんの少し前までは「あの建物の中で」髪の毛振り乱して生放送をしていた自分は、「あの建物の外」の営みの空気にどれほど気づいていたのだろうか。

ニュースをお伝えする仕事をし始めて40年が経った。何を伝えるべきか、どう伝えるのか、毎日それなりに悪戦苦闘してやってきた。戦争があり、災害があり、飛行機事故が起き、政治が動いた。理不尽としか言いようのない無差別殺人があり、たくさんの命が一瞬で奪われる事件も多々起きた。毎日ニュースの発生しない日はなく、刻刻と変わる情勢に目を凝らし、どこよりも早く、しかも正確であることを心掛けた。かなり必死だった。でもどうだろうか。犬と散歩しながらふと目にした「あの建物の中で」実は1人「ニュース祭り」をしていただけではなかろうか、とそんな気がしたのだ。「これは大変なことになった」と意気込んでニュース速報をお伝えするとき、それがどれほど「建物の外」の人たちにとって重要なのか、どれほど意味があることなのか、私は思い及んでいたのだろうか。「建物の外」には、静かに流れる時間があり、変わらぬ個々人の営みがある。「たった今入ったニュースです」と勢いこんで速報を入れても「それがどーした」という反応の世界の存在に気づかされた朝だった。ニュースのリードと呼ばれる短い前説部分に時折「驚くべき⃝⃝」という文言が使われることがある。「べき」などとはなんと押しつけがましいことか。と思って「べき」表現が原稿に出て来るとそっと削除していたのだけれど、「今入ったニュースです!」も同じくらいある意味押しつけがましかったかも、と思った。

業界用語に「ケツかっちん」という表現がある。「ケツ」は「お尻」で、「かっちん」は「ぴったり」くらいの意味で、合わせて「ケツかっちん」は、「ぴったり時間に終わらせる」ことを指す。こうやって書くとあんまりお上品な言葉ではないが、生放送はこの「ケツかっちん」の連続だ。何時何分何秒までにこのニュースを終わらせなくてはならない、の場合、「0時0分0秒ケツかっちんで~す」と指示が入る。そして生放送を毎日やることは常に1日の行動に「ケツかっちん」があるわけで、毎日0時0分までには局なり現場なりに居て、0時0分0秒ぴったりに放送を始めなければならない。だから勢い放送開始までの段取りがすべて逆算方式で「ケツかっちん」になってしまう。私の日常はそんな「ケツかっちん」のラッシュアワーみたいなもんだった。「新しい日常」はだから「ケツかっちん」の無い時間の流れのなかで、しばらく立ち止まって、よくよくあたりを見回して、自分なりにテレビとニュース、ちょっと偉そうに言えばテレビのジャーナリズムを、考えてみたい。

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