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インドの“世界最悪”コロナ感染爆発はこうして起きた

治療されず、火葬も追いつかない“この世の地獄”。/文・広瀬公巳(NHK元ニューデリー支局長)

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▶インドがウイルスの猛威を許した第一の原因は、医療体制の不備
▶とりわけ極限の「3密状態」が生まれたのが、クンブメーラという名のヒンドゥー教の沐浴の祭典
▶人道援助として、感染症対策として、さらには外交戦略として、いずれの意味においても、いま窮地に立っているインドへの支援を惜しむべきではない

インドはいまどんな状況にあるのか

現在インドでは、新型コロナウイルスの世界最悪の感染爆発が起きている。日本から地理的には遠い場所での出来事だが、これを“対岸の火事”と見るべきではない。インドの惨状は、さまざまな点で日本とも深い関わりをもっているからだ。

インドでは、4月中旬から連日、1日の新規感染者が30万人を超えた。病院では医療用酸素が不足して治療を受けられないまま亡くなる人が相次いだ。死者の急増で火葬が追いつかず路上には遺体が並んだ。インドは感染症との闘いの歴史が長い国だが、想像を絶する惨状や信じられないようなニュースで現地のテレビやSNSが埋め尽くされ、インド駐在経験がある筆者は胸が苦しくなる日々が続いた。今回の厄災はインドへの進出を進めてきた現地の日本人社会をも巻き込み、在印の日本人にも死者を出すことになった。

5月1日の発表で、1日の死者数が3500人を超え、新規感染者も40万1993人に達し、1日の感染者数として世界最多を更新した。5月4日、世界保健機関(WHO)は、「世界の新型コロナの症例のほぼ半分と死者の4分の1をインドが占めている」と指摘した。

そのインドは、いまどんな状況にあるのか。

「酸素がない、苦しい。誰も来てくれない。すぐ何処かに行ってしまう。誰も話を聞いてくれない。体が震える。何をすればよいのかわからない。看護師たちもわかっていない」――焦点の定まらない虚ろな目で苦しそうに、こう短い言葉を発し続けたのは、インドの俳優でユーチューバーとしても人気を集めていたラウル・ヴォラさん。5月9日に新型コロナのため35歳の若さでこの世を去った夫の死の直前の動画を妻がインスタグラムに投稿した。

入院先のラジブ・ガンディー・S・S病院は、ヤムナ川を挟んでニューデリーの対岸にある大病院。ヴォラさんは、そのBウイング病棟6階のベッドからSNSに「もっと良い治療を受けていたら私は助かったかもしれない。今は生きる希望を失った」と発信していた。妻は医療体制の不備が夫の死を招いたと訴えている。

ヴォラさんだけではない。数えきれない人々が救急車や駐車場でベッドや酸素を待ったまま亡くなっていく。遺体安置所や火葬場は止まらない死者の流れに追い付かない。救急搬送されても治療を受けられず、患者が自宅で療養せざるを得ない状況に陥ったのだ。病院の集中治療室(ICU)の予約状況を示すサイトは、常に「空き無し(NO BEDS)」を示す赤一色に埋め尽くされた。

駐車場や川岸には臨時の火葬場が作られ、レンガや薪を積み上げた小山が並び、防護具を着用した男性たちが遺体を運ぶ。生身の肉体が焼かれる光景はインドでは珍しいものではないが、その数が異常だ。ガンジス川の河畔には次々と遺体が漂着し、地元州当局は岸辺に網を設置した。遺族が薪を買えなかったのか、火葬場に空きがなかったか、その理由さえわからない。

去年の第1波とは明らかに異なる第2波の大型感染爆発はどのようにインドを襲ったのか。

ガンジス河のほとりで焼かれる遺体

ガンジス河畔で焼かれる遺体
©Prabhat Kumar Verma/ZUMA Wire/共同通信イメージズ

酸素の闇市

ウイルスの猛威を許した第一の原因は、医療体制の不備だ。

インド最大の感染拡大地となった西部マハラシュトラ州。ザキール・フセイン病院では、4月21日、人工呼吸器への酸素供給が停止し、新型コロナ患者の少なくとも22人が死亡した。病院の前に駐車していた車両のタンクから酸素が30分間にわたり漏れ、その間に重症患者60人あまりの人工呼吸器への酸素供給が停止したのだ。モディ首相も「心が痛む」とツイッターに投稿した。同州では、その2日後にも別の病院で新型コロナの集中治療病棟で火事があり、13人が死亡している。

とくに深刻だったのが酸素不足だ。インド空軍が各地に輸送し、酸素タンクを載せたトラックを車列ごと運ぶ「酸素急行列車」も登場したが、とても追いつかない。

身内のためになんとか酸素を入手しようとする人々の「闇市」も生まれた。酸素ボンベが通常の10倍近い価格で売買された例や、抗ウイルス薬レムデシビルの高値取引も報じられ、警察は、非正規売買にかかわらないように、不正な取引は通報するように要請した。インド政府は、産業用酸素の医療用転用を検討するとした。酸素がなければ、医療機関だけでなく家庭での療養も難しくなるからだ。

「普段ならお金があれば酸素やベッドが買えます。救急車もコネがあれば誰かに頼むことができます。それがコネやカネがあってもどうにもならない状況になったんです」

「酸素も本当はあるところにはあったりもするわけです。ただこういう機会に価格を釣り上げるブラックマーケットができました。酸素レベルを測るオキシメータもなくなって粗悪品が出回り、わずかに残っているものもすごい値段で売られることになりました」

インドに長く住む日本人の話によると、現地の混乱は想像以上だ。第2波の感染力が第1波に比べて極めて強力だと肌で感じ、感染者の出ていない家庭の方がむしろ少ない印象だそうだ。病院に行くと家に帰してもらえなくなることを怖れて家に閉じこもってしまい、それで本当の感染者数が見えにくくなっているともいう。これが事実とすれば、実際の感染者数は、発表されている以上だということになる。

去年の第1波の際には、経済活動の停止でガンジス川がきれいになったとか、大気汚染がなくなってヒマラヤ山脈が目視できるようになったなどと話題になった。第2波にはそうした悠長な雰囲気や静けさはない。絶え間なく響いていたのは救急車のサイレンで、インド国内の富裕層の間では、プライベートジェット機で国外に脱出する動きもあった。

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マハラシュトラ州・ムンバイ市

「第1波」後の緩み

インドで初めて新型コロナウイルスの感染者が確認されたのは、去年の1月30日。中国の武漢からインド南部のケララ州に帰国した学生だった。感染拡大を防ぐため、インド政府はすぐに厳しい措置を取った。

WHOが「最も懸念される国」の一つとして日本を挙げると、インド政府も、日本人に対して発給済の入国査証を無効にするという異例の措置に踏み切った。横浜港に停泊していたクルーズ客船「ダイヤモンド・プリンセス」でのインド人乗組員の感染がインド国内で大きく報道され、当時はインドから見て、日本こそ警戒すべき国だったのだ。

南部カルナタカ州で76歳の男性が呼吸困難に陥り、初の死者が出ると、モディ首相がテレビで演説し、全国的な都市封鎖(ロックダウン)に入った。工場の稼働や建設現場の作業は停止し、鉄道やバスも多くが止まった。貧困層は収入も食料も失い、居場所を失った多数の出稼ぎ労働者が徒歩での帰郷を始めた。外出禁止のルールを破った者は警官に見つかると警棒で叩かれ、2度と外出しないことを誓わされた。なりふり構わぬ姿勢で感染防止策を徹底したのだ。

それが功を奏したのか、イタリアやブラジル、アメリカなどでの感染爆発が連日伝えられるなか、インドでの感染はゆっくりと収まっていくように見えた。

1日当たりの感染者数は、去年9月に記録した9万7894人をピークになだらかな下降線をたどり、今年2月には1万人以下にまでなっていた。「すでに集団免疫を獲得したのではないか」「インドには第2波は来ない」といった楽観的な報道まで出て、「インドはすでに新型コロナに打ち勝った」という空気が広がった。結婚式には人が集まり、厳しいロックダウン後の解放感が広がった。

ところが今年3月から感染者が再び急増し始め、4月12日には累計の感染者数でブラジルを再び抜き、アメリカに次ぐワースト2位となった。まさに「気の緩み」が招いた事態だった。

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