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小説「観月 KANGETSU」#71 麻生幾

第71話
「タマ」(3)

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※本連載は第71話です。最初から読む方はこちら。

「そうですね!」

 輝く目でそう言った砂川だったが、すぐに顔を曇らせた。

「ただ、指紋がありません。主任でしたら、どうやって熊坂のマエ(前科前歴)を把握されると?」

「”タマ”がひとつある」

 萩原が言った。

「タマ?」

「真田和彦の妻の恭子だ」

 萩原が続けた。

「恭子は持っている」

「持っている?」

 砂川が萩原の瞳を覗き込んだ。

「犯人を捜査圏内に入れるための”タマ”を彼女は持っている」

 萩原はそう言い切った。

 地上係員のアナウンスが人気のない空間に響き渡った。

 萩原たちが乗る予定の羽田行き最終便への搭乗が始まったことを告げた。

「じゃあ、自分は過去の未解決事件で、熊坂洋平とリンクするものを探してみます」

 砂川がそう言った時には、すでに萩原は勢いよく立ち上がって駆け出していた。

 ベンチに干していた上着を掴んだ砂川は慌てて萩原を追いかけた。

10月29日 木曜 杵築市内

 七海はカーテンを勢いよく左右に開いた。

 昨日の夕方から夜中にかけての土砂降りが嘘のように目映(まばゆ)い陽が差し込み、七海の周りを一瞬で光の世界に変えた。

 七海は、昨夜、涼から言われた言葉をまざまざと脳裡に蘇らせた。

──七海、すべて終わった。もう安心ちゃ。

 熊坂さんの奥さんが亡くなったこと、息子をなくした田辺のお母さんには気の毒だが、約1ヶ月前から七海の周りにとりついていた恐怖がすべて消え失せ、さらに怪我も予想よりも早く治りかけていることに正直言って七海はやはり安堵の気持ちで一杯だった。

 誰かに後を尾けられている、遠くから見られている、そんな気配を感じていた中で、先週の土曜日、ついに、その“誰か”であった田辺が自分に襲いかかってきた。

 そして、そこからこの1週間足らずの間に起きた数々のことを思い出すと、1年間にも及んだ経験のように感じた。

 その時、父の声が聞こえた。

〈七海ちゃん、終わりよけりゃみなよし。そん気持ちがあれば、これからも、元気でやっちゆけるちゃ〉

「そうね、お父さん」

 微笑んだ七海は一人でそう口にした。

 ただ、ケガをしたこの足だけは……。

 七海は、あっ、という小さな驚きの声をあげて自分の足元を見た。

 数歩にしか過ぎなかったが、ベッドから窓際まで松葉杖なしに歩いてこれた──。

 心が弾んだ七海はさらに歩き出した。

「痛っ!」

 七海が小さく声を上げた。

 だが昨日までの痛みとは明らかに違った。

 勇気を持ってさらに足を前に繰り出した。

──歩ける!

 足の甲に痛みはまだある。

 でも、さらに歩けるように思えた。

 壁伝いに寝室から自分の部屋に入った七海は、上下のスエットから、秋の清々しい風を思わせる淡い紫のブラウスと白色の膝丈までのヒップボーンスカートに着替えた。

 机の上に充電したままの携帯電話を手に取った七海は、痛みを引き摺りながらも階段の手前まで歩くことができた。

 七海は1階を見下ろした。

 そのまま一気に降りるだけの自信はさすがになかった。

 昨日までの通り腰を落としながら1段ずつ下って行った。

 時折、刺すような痛みはあった。

 でも、思ったほど時間をかけずに降りることができた。

──治った!

 完全ではない。

 松葉杖なしに歩けたのだ。

 1階に下りた七海は台所にもほとんどスムーズに足を運べた。

 母の姿はそこにはなかった。

 居間にもいなかった。

 ふと居間の壁に掛かる時計へと目をやった。 

──えっ、もう午前8時すぎ? 今日は休みやと無意識にでも思うちょったけんなんか、すっかり寝過ごしちもうた……。

(続く)
★第72話を読む。

■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生れ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。

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