大銀山から産出した銀は、何に使われたか?/野口悠紀雄
※本連載は第29回です。最初から読む方はこちら。
スペインは南米にポトシという大銀山を発見し、湯水のように銀を使えるようになりました。しかし、それは、国内産業の育成には使われませんでした。
スペイン国王は、軍備拡張のために銀を用いたのです。そして、オランダ独立戦争に対処しました。さらに、新教の女王にリードされて海賊行為を働くイングランドを征服しようとします。
◆太陽の没することのない大帝国
スペインは、中南米を征服し、植民地化しました。
そして、「太陽の没することのない大帝国」を作り上げたのです。この言葉は、大英帝国を表わすと考えられることが多いのですが、もともとは、16世紀後半、フェリペ2世(1527年 - 1598年。在位:1556年 - 1598年)の時代に、世界中に領土を持つ大帝国となったスペイン王国を形容する言葉です。この時代はスペイン王国の全盛期でした。
スペインの領土がこのように広がったのは、1580年にポルトガル王統が断絶したとき、フェリペ2世がその王を兼ね、ポルトガルを併合したためです。
これによって、イベリア半島全域のみならず、ポルトガルが勢力を伸ばしていたアフリカ沿岸部、さらにはインドのゴアなどを領土に加えることになったのです。
◆ポトシに宝の山を発見
スペインは、単に広大な地域を植民地化しただけではありません。宝の山を発見したのです。
それは、ポトシの銀山です。
1545年に、スペインの植民地であったペルーで発見されました(現在ではボリビアに属しています)。
そこから無尽蔵の銀が産出されました。
スペインの入植者は、インディオを強制労働で使って採掘した銀を、本国に送りました。
銀は、通貨です。
それがいくらでも出てくるというのですから、スペインは、世界で最も豊かな国になった……と誰もが思ったのですが、実はそうではありませんでした。
以下で述べるような次第によって、ポトシ銀山の発見は、スペイン大帝国が衰退する基本的な原因となったのです。
◆スペイン王室に浪費されるか、軍備拡張に使われた
スペインには、ポトシ銀山の銀が大量に持ち込まれました。それが、ヨーロッパ各地の商業都市で流通するようになったため、「価格革命」と呼ばれた現象がもたらされました。貨幣の数量が増えたために、物価が上昇したのです。
また、スペインに運ばれる銀の多くは、スペイン王室の収入になります。
したがって、スペイン王は、世界中から何でも望むものを買うことができるのです。
では、フェリペは、何を買ったのでしょうか?
第1には、強大な軍隊の建設です。
第2には、宮廷の浪費です。
このため、即位翌年の1557年以降、4回も破産宣告に追い込まれるほどでした。
大量の銀は、スペイン国内の産業を発展させるためには用いられなかったのです。したがって、国民の富として蓄積されることはありませんでした。
このため、スペインは国力を次第に失い、広大な領土を維持することができなくなっていくのです。
◆オランダ独立戦争
フェリペが軍備拡張を行なったのは、スペインと他国との関係が緊張したからです。
まず、1568年から1648年にかけて(1609年から1621年までは休戦)、ネーデルラント諸州(現在のオランダ、ベルギー)がスペインに対して反乱を起こし、「80年戦争」が起こりました。これは、「オランダ独立戦争」とも呼ばれます。
ネーデルラントはハプスブルク家の領地でしたが、ハプスブルク家がオーストリアとスペインに分離してからは、スペイン領とされてきました。
それまでもネーデルラントとスペインとの間は緊張関係にあったのですが、フェリペ2世は熱心なカトリック信者だったため、ネーデルラントの新教徒に対して、新教の信仰を禁じ、緊張状態が強まり、独立戦争へと向かっていったのです。
◆エリザベスと海賊国家
もう一つは、イングランドが勃興しつつあったことです。
フェリペは、それに対応するために、カトリックであるイングランドのメアリ女王と結婚して、イングランドの皇太子となったのです。しかし、メアリは5年余りの在位の後、子を残すことなく、1558年11月に死去しました。
その後を継いでイングランド女王となったのは、メアリと異母姉妹のエリザベス(在位:1558年 – 1603年)です。2人の父親は、ヘンリー8世。
エリザベスは目も眩むほど聡明な女性でした。6か国語をこなし、会話では、しばしばラテン語を引用しました。
クリストファー・ヒバート『女王エリザベス』(原書房)によると、枢密顧問官がエリザベスに王位継承を告げた時、彼女は冬の寒風をものともせず、樫の樹の根元に座ってギリシャ語の聖書を読んでいました。
そして、王位の継承を告げられると、膝をつき、讃美歌のつぎの一節をラテン語で引用しました。
「そは神の行われしこと。凡愚の目には奇跡とうつらん」
彼女は新教徒です。敬虔なカトリック教徒であるフェリペ2世にしてみれば、絶対に許すことのできない存在です。
◆イングランドの海賊がスペインの財宝を奪う
フェリペがエリザベスを許せなかったのは、信教上の問題によるだけでなく、実利的な問題にもよりました。
ポトシで採掘された銀は、パナマまで船で運ばれ、ラバに背負われてパナマ地峡を超えます。そして、カリブ海の港からスペインに輸送されます。それをイングランドの海賊たちが襲ったのです。
なかでも有名なのが、サー・フランシス・ドレーク( 1543年頃 - 1596年)。彼は、ウェールズ人の航海者で、海賊(私掠船船長)です(後に海軍提督)。
ドレークは、初めて世界一周を達成しました。マゼランは生還できなかったので、艦隊指揮者として世界を周航したのは、ドレークが初めてです。
彼はマゼラン海峡を通り抜けて太平洋に出たあと、嵐に流されて、マゼラン海峡より南の海峡を偶然通り抜けて大西洋に押し戻されました。南極半島との間のこの海峡は、「ドレーク海峡」と呼ばれるようになりました。
もっとも、ドレークにとってもエリザベスにとっても、世界周航や海峡発見は重要なことではありませんでした。彼らの関心は、「何を持ち帰れるか」にあったからです。
マゼランの艦隊は胡椒を持ち帰っただけですが、ドレークは、海賊行為によって多大の財宝を持ち帰りました。
◆海賊ビジネスで大英帝国の基礎を築く
その額は、60万ポンドと言われます。当時のイングランド王室の年収が20万ポンド程度だと言われますから、いかに巨額かが分かります。出資者は4700パーセントの収益を得たのですが、その一人である女王は30万ポンドを得ました。
イングランド王室は負債をすべて返済し、残りの一部である4.2万ポンドを「レヴァント会社」に投資しました。これは、オスマン帝国から商業活動を認められたエリザベスが、イギリス商人に特許状を与えて1581年に作った会社です。毛織物の輸出などで利益をあげ、またオスマン帝国との外交にもあたりました。
この会社の収益から、後に東インド会社が設立されたのです。経済学者J.M.ケインズは、『貨幣論』(A Treatise on Money )の中で、ドレークの捕獲金がイギリス対外投資の源泉となったと指摘しています。
大英帝国の基礎は、このときに作られたのです。スペインが新大陸の富を浪費したのに対して、「海賊ビジネス」と企業家精神を持つイングランドは、近代資本主義に向かう道を歩んでいました。
実際、ドレークのカリブ海での海賊行為は、イングランドでは、犯罪行為ではなく、英雄的行為とみなされていました。
偉大な女王エリザベス1世の治世下で、正真正銘の海賊行為が、実質的には国の事業としてなされていたのです。
フェリペにとっては、エリザベスのイングランドを征服することが最大の課題となりました。
スペイン海軍はすべての海戦で勝利したため、「無敵艦隊アルマダ」と呼ばれていました。陸軍もヨーロッパ最強です。
フェリペは、ポトシからの銀をつぎ込んで大軍拡を行ない、イングランド征服に向けて準備を進めました。
(連載第29回)
★第30回を読む。
■野口悠紀雄(のぐち・ゆきお)
1940年、東京に生まれる。 1963年、東京大学工学部卒業。 1964年、大蔵省入省。 1972年、エール大学Ph.D.(経済学博士号)を取得。 一橋大学教授、東京大学教授(先端経済工学研究センター長)、 スタンフォード大学客員教授などを経て、 2005年4月より早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授。 2011年4月より 早稲田大学ファイナンス総合研究所顧問。一橋大学名誉教授。2017年9月より早稲田大学ビジネス・ファイナンス研究センター顧問。著書多数。
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