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山内昌之「将軍の世紀」|北方問題の開幕 (5)幕府財政と寛政改革

歴史学の泰斗・山内昌之が、徳川15代将軍の姿を通して日本という国のかたちを捉えることに挑んだ連載「将軍の世紀」。2018年1月号より『文藝春秋』で連載していた本作を、2020年6月から『文藝春秋digital』で配信します。令和のいま、江戸を知ることで、日本を知るーー。今月登場する将軍は、第11代・徳川家斉です。

※本連載は、毎週月曜日に配信します。

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 幕府の金銀は、明和七年(一七七〇)に三百万両余(うち貯蓄金銀は二百九十七万両余)ほどあったが、定信が将軍補佐になる天明八年(一七七八)には一挙に八十一万両余(うち貯蓄金銀は六十三万両余)に減少していた。定信は倹約などを進めて、退任後の寛政十年(一七九八)には百七万両余(うち貯蓄金銀は九十八万両余)にまで財政を健全化したのである。また、寛政元年から十年まで、定信の改革の結果、経常費の収支差額は毎年黒字になり、その額は年平均三万両に及んだ。大野瑞男氏によれば、臨時出方つまり出費の多いのは寛政元年の禁裏御所の普請と、六年以降継続的に支出された日光東照宮の修復費用のせいであった。他に米価調節のために買上米代金を支出したことも大きい。この間の黒字累計は二万六千両余となり、この分が御金蔵に蓄積されたわけだ。しかし、定信が退任すると、寛政十一年から文化二年まで財政事情は再び悪化した。収支は平均すると年三万両の赤字に転じる。ここに寛政十一年から直轄地とした東蝦夷地の経営支出がからむ。これは幕府の過重な財政負担となった(『江戸幕府財政史論』)。

 「御繰合」を見ていくと、寛政十一年の収納高は金百十一万七千百三十一両余、入用高は金百三十一万六千九百十九両余で差引は金十八万九千七百八十八両余の不足(赤字)となっている。この大きな原因は、尾張徳川家への淑姫(ひでひめ)君様御入輿向御入用金の二万二千両余と並んで蝦夷地御入用金七万七千両余である。翌年も十六万千九百八両余の不足だが、淑姫君様御入輿入用金の一万二千両余と並んで蝦夷地御入用金六万六千両余の出費が目立っている。蝦夷地入用は東蝦夷地を上知させた翌年、享和三年(一八〇三)以後はひとまずなくなるが、文化四年(一八〇七)と五年になると西蝦夷地も直轄するので入用が八万五千両も新規にかかった。ただ、文化九年からは松前幷箱館御収納金三万両が入った。その後も合わせて十二万両の収益金が納めらる一方、蝦夷地の開発と対ロシア政策のために膨大な予算を入用としたことに変わりはない。蝦夷地予算に加え、多数の家斉子女の養子縁組や入輿の費用は、定信改革の成果を帳消しにしたのである(「向山誠斎雑記及雑綴」、大野瑞男編『江戸幕府財政史料集成』下巻)。

 定信は、本多忠籌(ただかず)の蝦夷地開発論や青嶋のアイヌ撫育策にも通じる「御救交易」を試みるために青島の弟子だった最上徳内を普請役として蝦夷地御用に抜擢し、寛政三年(一七九一)正月に松前経由で北方海域に派遣した。徳内は、松前藩の烽火設備が少しも改良されておらず、藩主直支配に変えたはずのアイヌ交易が松前商人・村山伝兵衛に任されている現況を見て驚いた。アッケシからクナシリ・エトロフを経て、ウルップ島最北部まで踏査し、カムチャツカまで探査に出かけんばかりの熱心さだった。さすがにカムチャツカ行きは断念し、十二月末に一旦江戸に帰るが、翌四年正月末には西蝦夷地に向かった。イシカリ(石狩)やソウヤで御救交易を試み、カラフトのクシュンナイ(久春内)やトーブツ(遠淵)まで見分している。そこでロシア人来住の噂や、アイヌと交易するアムール川(黒竜江)下流域のウリチ人など山丹人がアイヌの幼少年を人身売買で拉致した非道さを知った。アムール川下流域から満州にいたる地政学的知識を得ただけでなく、クシュンナイを北緯四十八度としたのはカラフト最初の緯度測定として誇るべき学術成果でもあった。七月にソウヤに戻った徳内は、シャリ(斜里)やイシカリを含めて御救交易を監督見聞した。ソウヤの相場では煎海鼠五百個を玄米八升入俵一俵とする適正な御救交易はアイヌたちにも歓迎され、寛政三年・四年度で幕府御金蔵に千両の益金を納めている(島谷良吉『最上徳内』)。

 寛政二年には、本多忠籌が側用人から老中格、戸田氏教も側用人から老中に昇進して定信チームが強化されたかに見えたが、改革のスピードと個別の政策をめぐって軋みが生まれた。若年寄の下に寄合肝煎が新設され、寄合たちに文武が奨励された年でもある。「世の中ハ蚊ほどうるさきものハなし文武といふて人をいちめる」(『よしの冊子』上)、「世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶ(文武)といふて夜もねられず」(『甲子夜話』1、二の六)。作者は蜀山人こと御家人・大田直次郎とも言われるが、改革の特性と時勢をよく伝えている。大田は組頭の尋ねに、所存はなく、ただ口ずさんだのみ、強いていうなら「天の命ずる所なるべし」と答えたので一同笑っておしまいになった。さて、いくら定信でも米価や物価は思うようにならない。寛政元年の札差棄捐令という強引な政策と同時に、江戸に住む十人の両替商を勘定所御用達に登用して上方市場に対抗できる江戸市場を育てようとした。両者の均衡を図りながら「東西の位よくせん」(『宇下人言』)として、商業資本の掌中にある米穀・貨幣相場の実権を幕府の側に奪い返すことで物価の平準化を図り、「天下の政」を実現しようと努めたのである(竹内誠『寛政改革の研究』)。

 ところで、定信政権は寛政改革の質とスピードをめぐって天明八年(一七八八)から寛政元年(一七八九)頃にかけて、内部で軋みを起こしていた。それは定信が将軍補佐就任に伴い、本多忠籌と松平信明、御側御用取次・加納久周への不信を募らせたからだ。彼らは彼らで独裁化を強める定信への不同意をもはや隠そうとしない。政治家の考え方や生き方はそもそも移ろいやすいものなのだ。定信は、忠籌が主従ともども収賄に走っているのではないかと疑い、老中格の忠籌を体よく御用部屋から遠ざけ、御側御用取次の部屋に追いやった。忠籌は、万人の上に立つ者が人を疑ってばかりいると、相手も生き物だから不愉快になり思う様に使えなくなる、と子の忠雄に語った。また、情を知るのは嗜みなのに、貴人は下々のことに疎いので用心が肝要だというのは、定信その人を揶揄しているようだ。これは寛政二年に忠籌の教えをまととめた子・忠雄の聞書にある。蝦夷地問題をアイヌ民族問題としてとらえる見方を持っていた忠籌の感性の一端でもあろう。定信は、引退後に和解を幾度か忠籌に求めたが、忠籌の拒絶に遭った。定信は、この冷淡な態度を自分の老中解職を画策した忠籌の役回りに由来すると恨みがましい。そのくせ、自分がいちばん頼ったはずの年長の旧友を蝦夷地問題担当から解任した仕打ち(寛政四年十二月)など不信の数々を忘れているのだ(『松平定信政権と寛政改革』)。将軍吉宗の孫として生まれたサラブレッドと一万五千石の譜代小大名の家に生まれた苦労人との人間関係を見ていると、モンテーニュの金言をどうしても思い出してしまう。人間の不変性ほど信じる気になれないものはなく、逆にその定めのなさほど信じるのが簡単なものもない、と(『エセー3』第一章)。

★次回に続く。

■山内昌之(やまうち・まさゆき)
1947年生、歴史学者。専攻は中東 ・イスラーム地域研究と国際関係史。武蔵野大学国際総合研究所特任教授。モロッコ王国ムハンマド五世大学特別客員教授。東京大学名誉教授。
2013年1月より、首相官邸設置「教育再生実行会議」の有識者委員、同年4月より、政府「アジア文化交流懇談会」の座長を務め、2014年6月から「国家安全保障局顧問会議」の座長に就任。また、2015年2月から「20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会」(略称「21世紀構想懇談会」)委員。2015年3月、日本相撲協会「横綱審議委員」に就任。2016年9月、「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」の委員に就任。
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