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「招魂」された神武天皇像…日本にも銅像を神のごとく崇めた時代があった|辻田真佐憲

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 本連載では、岡山市や沼隈半島の「高嶋宮旧址」を取り上げてきたが、ひさしぶりに神話関係の記念碑を訪れた。愛知県豊橋市の豊橋公園に位置する神武天皇像がそれである。

 かつて歩兵第18連隊が置かれた公園の奥深く、弥健神社の鳥居の先に、その像は鎮座している。台座の高さは、人間の背丈の3倍ほど。武人らしく、弓矢を握り、腰には太刀。見上げると、豊満な身体に、厳しい顔が印象的だ。解説板によれば、この顔は明治天皇をモデルにしたという。

豊橋公園の神武天皇像(2020年7月、筆者撮影)

豊橋公園の神武天皇像(2020年7月、筆者撮影)

 今日、この像をわざわざ訪ねる人は少ない。木々に囲われた公園の一角で、それはまるで忘れられたかのように佇んでいる。しかし、この像はかつて「神」のように恭しく扱われ、遥かに物々しく高くそびえ立っていたのである。

 時計の針を戻そう。そもそも豊橋は、戦前、第15師団や騎兵第26連隊などが置かれ、全国でも有数の軍都であった。

 そのなかでも、歩兵第18連隊の歴史は古く、日清戦争の活躍で名高かった。平壌の戦いで玄武門によじ登り、中から城門を開いて友軍を誘い入れた功績で金鵄勲章を授与された一等卒・原田重吉も、この部隊の所属だった(原田が戦後、チヤホヤされすぎて身を持ち崩し、素行不良で勲章も剥奪された悲劇は、萩原朔太郎の「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」に詳しい)。

「中に義侠の有志者は/軍隊紀念の其碑をば/建て戦死の芳名を/石に刻みて祭るらん」。軍歌でそう謳われた歩兵第18連隊のお膝元に、「皇軍」の始祖たる神武天皇像が作られたのも、なるほど、不思議なことではなかった。日清戦争の直後、1899年の竣工と聞けば、なおのことそうである(この像については、羽賀祥二「軍都の戦争記念碑」『近代日本の内と外』を参照されたい)。

 デザインしたのは、皇居前広場の楠木正成像や上野公園の西郷隆盛像で知られる、岡崎雪声。新橋駅から豊橋駅まで汽車で輸送されたその作品は、いまでは考えられないほど、仰々しく迎えられた。

「[2月]25日午後3時2分に豊橋についた神武像は、正装をした豊橋第18連隊の将校一同や大礼服を着た高等官にうやうやしく出迎えられ、駅には奉迎に7000人が詰めかけた」「停車場にて出迎えの係が神武銅像の入った箱を『白茶金襴』のきらびやかな緞子で包み、台つき破風作りの神輿に乗せ、周囲は大勢の見物人から見えないように紫の幕で覆い、牛二頭が引く車で建設現場へと運んだ」(千葉慶「公共彫刻は立ったまま眠っている」『彫刻SCULPTURE1』。一部表記を改めた)。

 神輿を中心とする行列は3000人以上に及んだというから、まるで貴人の行列だ。銅像を崇めるというと北朝鮮を思い出すが、日本にも銅像を神のごとく扱った時代があったのである。

 そして神武天皇像は、豊橋市の練兵場の南に設けられた、角柱形の石碑の上に設置された。その石碑も、約5.5メートルの石垣の上に屹立していたので、全体で、石垣・石碑・銅像の三層構造ということになる。その高さは約15メートルに達した。まさに軍都豊橋にふさわしい、壮大な戦争記念碑だった。

 記念碑の除幕式は、3月9日、久邇宮邦彦王臨席のもとでにぎやかに執り行われた。当時の正式な名称は、三層まとめて「征清紀念碑」。このとき、あわせて臨時招魂祭も行われた。魂を招き入れられた神武天皇像は、まさに神に等しい存在となった。

 とはいえ、その偉容は長く続かなかった。1916年、「征清紀念碑」は練兵場の北に移設され、石垣を撤去されてしまった。そのため、翌年第15師団長として豊橋に赴任した邦彦王は、縮小された記念碑に驚いたかもしれない(余談ながら、その娘の良子女王が皇太子裕仁親王=のちの昭和天皇の妃に内定したのも、この豊橋時代のことである)。

 豊橋といえば、現在、街のあちこちに朝ドラ「エール」のポスターが張られている。これは、ヒロインのモデルである内山金子(作曲家・古関裕而の妻)の出身地が現在の同市域に当たるからだが、1912年生まれの彼女も、戦争記念碑の原形を記憶にとどめることはなかっただろう。

 そんな「征清紀念碑」も、1945年の敗戦後、完全に取り壊された。密かに隠されていた神武天皇像が現在の位置に再建されるにいたるのは、1965年を待たなければならない。

豊橋公園の入り口。かつては歩兵第18連隊の営門だった(2020年7月、筆者撮影)。

豊橋公園の入り口。かつては歩兵第18連隊の営門だった(2020年7月、筆者撮影)

 「仮令石碑の朽るとも/朽ちぬ其名は馨(かんば)しく/甲午の役[日清戦争]の功しは/天地と共に伝らん/実に驍勇の連隊ぞ/実に驍勇の連隊ぞ」。

 さきほど紹介した軍歌はこう続く。皮肉にも、記念碑は形を変えて残ったが、歩兵第18連隊の歴史を知るものは少なくなってしまった。

 人々の記憶は儚く、記念碑の寿命は長い。だからこそ、記念碑をむやみに排除するのではなく、むしろ利用して、いかに記憶を継承するかを考えなければならない。静かに佇む神武天皇像を眺めて、あらためてその思いを強くしたのである。

(連載第18回)
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■辻田真佐憲(つじた・まさのり/Masanori TSUJITA)
1984年、大阪府生まれ。作家・近現代史研究者。慶應義塾大学文学部卒業、同大学院文学研究科中退。政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論、レビュー、インタビューなどを幅広く手がけている。著書に『天皇のお言葉』『大本営発表』『ふしぎな君が代』『日本の軍歌』(以上、幻冬舎新書)、『空気の検閲』(光文社新書)、『文部省の研究』(文春新書)、『たのしいプロパガンダ』(イースト新書Q)、『愛国とレコード』(えにし書房)などがある。監修に『満洲帝国ビジュアル大全』(洋泉社)など多数。軍事史学会正会員、日本文藝家協会会員。
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