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なぜ池袋は三兄弟の末っ子なのか 門井慶喜「この東京のかたち」#22

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※本連載は第22回です。最初から読む方はこちら。

 三兄弟がみょうに気になる。私自身が三人の男の子の親だからかもしれないが、ひとつには三というのが、何というか、安定をもたらす最小の数であることと関係があるのかもしれない。

 椅子は脚が二本だと危なっかしいが三本なら落ちつく。御三家、三冠王、三種の神器、三羽烏、三筆、三銃士、三位一体……どれもこれも二つでは足りないし、四つだと多すぎる感じがする。それに加えて兄弟というのは生まれた順がはっきりしているから、これがまた安定感につながるようだ。

 何が言いたいのかと言うと、新宿、渋谷、池袋である。これらの街は、昭和33年(1958)に発表されたいわゆる「首都圏整備計画」によって同時に副都心に指定されたから、

 ――副都心三兄弟。

 と呼ぶこともできるが、ここは平たく、

 ――にしっこ三兄弟。

 とでも呼びたいところだ。にしっこというのは全員が山手線の西半分に属することによる。

 あるいは江戸城(皇居)の西側に点在することによる。北から順にならべると、池袋、新宿、渋谷となるが、いずれも江戸城からの距離がだいたい等しいのは偶然かどうか。もちろん三姉妹でもかまわないわけだ。

 新宿、渋谷、池袋もまた、生まれた順がはっきりしている。ざっくり言うと、

新宿 江戸時代

渋谷 戦前

池袋 戦後

 である。だから新宿は長男である。生まれは元禄11年(1698)。ここでの「生まれ」というのは、野暮な定義をこころみるなら、

 ――そこが都会となるための契機となった年。

 くらいだが、この年には、江戸幕府が、そこに文字どおり新しい宿(しゅく)をつくったのだ。

 現在は、だから320歳ほど。日本の幹線道路というべき五街道のひとつ、甲州街道ぞいにあるという地理的条件はやはり大きく、弟ふたりに先んじたのはこれが最大の理由だった。

 渋谷は次男である。江戸時代には大名たちが下屋敷という名の別荘をかまえ、起伏の多い地勢を生かして雅趣あふれる庭づくりに励んだものの、見知らぬ人がぎっしりと集まって無機的な有機体をつくりあげる、いわゆる都会にはほど遠かった。

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 生まれは昭和2年(1927)である。東急の実質的な創立者・五島慶太が、自分の経営する鉄道会社(当時の名称は東京横浜電鉄)のターミナルを渋谷に置くと決め、その渋谷駅が開業した年だ。

 ここから渋谷は都会になった。つまり現在90歳あまり。お兄ちゃんとくらべると、230歳くらい年が離れているわけだ。

 そうして、この筆法をもってするなら、三男・池袋の誕生日はずばり昭和29年(1954)1月20日である。しかしここではその理由を述べる前に、まずは江戸時代にさかのぼろう。

 誕生以前のことだから、胎内期ということになるだろうか。江戸時代の池袋村は、やはり都会たるには遠かった……という以上に、まじりっけなしの農村だった。

 あるいはいっそ、

 ――穀倉地帯。

 と言うほうが適切かもしれない。この時代には「村(むら)高(だか)」という集計単位があり、一村あたりの農産物の公定生産量をあらわすが、その村高の変化がすごいのだ。当初は158石だったものが、

 元禄期 309石

 天保期 601石

 と、江戸時代を通じて上向きの一途をたどっている(石高は概数、以下おなじ)。むろん新田開発によるところが大きいにちがいないのだが、それにしても、これはなかなかめずらしい事例ではないか。というのも一般的に、ないし全国的に、江戸時代の新田開発というのは元禄期までに完了していることが多いからである。

 約260年のうちの、最初の百年間。その後の伸びはあまりなく、おおむね微増というところ。

 いうなれば高度成長をなしとげたあと長期の低成長になずんだわけで、何やら戦後日本を先取りしているようにも見える。自然の荒れ地をかたっぱしから田畑にして、変えられるところは変えつくした、ということなのだろう。

 ひとりの人間がそうであるように、国家の経済成長も、おのずから限界があるのかもしれない。ところが池袋村はそういう一般則をありありと裏切ってみせたわけで、この傾向は、じつは近隣のほかの村にもうかがわれる。たとえば池袋村の西どなり、さらに江戸市街から遠い長崎村の村高は、当初は215石、これが、

 元禄期 287石

 天保期 942石

 と、驚異的な伸びっぷり。池袋村以上の数字だった。

 もちろん村高というのは、くりかえすが「公定」生産量である。池袋村と長崎村はいわゆる天領(幕府直轄地)であるからして、毎年の年貢は基本的に幕府の歳入になるわけだが、その徴収額は、この数値をもとに決定される。

 幕府にすれば、税収をふやすためには村高の数値を上げなければならない。そういう事情もおそらくは前述の「成長」にはあったろうが、しかしもちろん実態がないのに数だけ動かすのは不可能だから、池袋村や長崎村は、やはり穫れ高が向上していたことは確かなのだ。土そのものが農作に適していたのと、千(せん)川(かわ)用水の開通により良質の水が確保できたこと。それにもうひとつ、都会に近いため、学者の考案した最新の農法が反映されやすかったことが理由かもしれない。

 要するに池袋村は、めぐまれた農村だった。

 米や野菜はよく穫れるし、深刻な自然災害もない。あの「おっとり」の渋谷よりもさらにおっとりしているという点ではまさしく末っ子らしいともいえるけれど、この傾向は、維新後もまったく変わらなかった。

 JR東日本の前身といえる日本鉄道会社がこの地にはじめて線路を敷いたのは、明治18年(1885)の、品川線(品川‐赤羽間)の開通のときだった。

 江戸城の西に、ながながと縦線を引いたのだ。設置された駅は南から北へ、品川、目黒、渋谷、新宿、目白、板橋、赤羽。

 早くもあの「にしっこ三兄弟」の長男、次男の名はあらわれるけれど、池袋はまったく素通りである。目白と板橋のあいだの単なる線路。どころか人家がないのをいいことに信号所まで設置される始末で、わざわざ近代社会から、

 ――使いみちがない。

 と捨て子にされたようなもの。

 そんなわけだから、おなじ日本鉄道会社がその後、rの字状に支線をのばし、東の田端へ向かおうとしたときには、分岐の駅は目白だった。

 いや、目白のはずだった。ところが鉄道の分岐というのは案外、土地がいるもので、しかも諸施設が必要になる。目白のような、すでに人家が建てこんでいる場所でそれをやるのは、施工の面からも住民感情の面からもむつかしかった。そこでこの鉄道会社はやむを得ず、くりかえすがやむを得ず、池袋信号所を駅に昇格させたのである。

 明治36年(1903)、その支線が開通し、

 ――豊島線。

 と呼ばれるようになると、駅は四つ設けられた。池袋、大塚、巣鴨、田端。

 こののち、このrの字をなす品川線および豊島線は、そのほとんどが東京をぐるりと一周する環状路線に組み込まれた。

 現在の山手線の西半分である。たいへんな昇格というべきだろう。池袋はいわば何の実績もないままというか、むしろ何の実績もないためにこそこの表舞台にあらわれたわけで、ここでもまた途方もなく「恵まれた」土地だった。人間でいえば、世間知らずの田舎のぼっちゃんが都会でいきなりビジネスチャンスをあたえられたようなものである。

 もっとも、池袋は、このチャンスを生かせなかった。

 その後もろくに発展しなかった。やっぱり、おっとり屋だったのだ。豊島線四駅でいちばんにぎやかだったのは大塚である。百貨店もあったし三業地もあった。三業地というのは芸妓の置屋、貸座敷、料理屋がそろった街のことで、つまりは色町のことである。ちなみに言う、このうち貸座敷のない街を「二業地」というが、このことばは三業地ほどには日本語に定着しなかった。何かしら心もとない感じがあるせいか。三という数字がやっぱり安定感があることの一証左になるかもしれない。

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 結局、池袋は、戦前はパッとしないまま終わった。他力本願ではだめなのです、人間はみずから努力すべきですなどと教訓を垂れたい衝動にも駆られるけれど、しかし池袋が戦後にあの「誕生日」をむかえ、ようやく都会としての最初の一歩をふみだしたのも、じつは他力本願の結果だった。末っ子にはみんなが手をさしのべてくれる、というわけでもないだろうが、このことはまた稿をあらためて述べたい。

(連載第22回)
★第23回を読む。

■門井慶喜(かどい・よしのぶ)
1971年群馬県生まれ。同志社大学文学部卒業。2003年「キッドナッパーズ」でオール讀物推理小説新人賞を受賞しデビュー。08年『人形の部屋』、09年『パラドックス実践』で日本推理作家協会賞候補、15年『東京帝大叡古教授』、16年『家康、江戸を建てる』で直木賞候補になる。16年『マジカル・ヒストリー・ツアー』で日本推理作家協会賞(評論その他の部門)、18年『銀河鉄道の父』で直木賞受賞。その他の著書に『定価のない本』『新選組の料理人』『屋根をかける人』『ゆけ、おりょう』『注文の多い美術館 美術探偵・神永美有』『こちら警視庁美術犯罪捜査班』『かまさん』『シュンスケ!』など。
新刊に、東京駅を建てた建築家・辰野金吾をモデルに、江戸から東京へと移り変わる首都の姿を描いた小説『東京、はじまる』。

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